シーン9 薫
桐生が井上の病室のドアを開けると、ベッドの傍らに設置された生体情報モニターのそばで、看護師の木村がバインダーに何かを書き込んでいた。ちらりと顔を上げた木村と目が合った。木村は軽く頷くと、再び手元に視線を落とした。家族でも親族でもない桐生の付き添いを認めてもらうために、尽力してくれたのは木村だった。
さっきまで昏睡していた女は、担当医の藤見に自分の状態を説明していた。
「名前は井上薫。職業は解剖医。ここは広尾にある大口病院。左腕がクソ痛くて、頭痛と軽い吐き気がある。事故の途中から記憶が途切れてる。検査は受ける。だけど、その前に刑事と話をさせて。症状が悪くなったらすぐに知らせるから」
しゃがれ声だった。言葉の合間に息を整えながら、早口でまくしたてていた声がときどき裏返った。
木村からバインダーを受け取った藤見は、記録に目を走らせながら言った。
「頭部のCT検査では、今のところ頭蓋内に出血などの異常は認められていません。ただ、頭を強く打っていますし、頭痛と吐き気が続いています。慎重に経過を見なければなりません」
「そんなこと、わかってる。その上でお願いしてるんだからさ」
藤見はバインダーを木村に返し、薫の左腕に目を向けた。
「固定しているところに、圧迫感や痺れはありませんか?」
固定具の縁に指を添え、皮膚に食い込んでいないかを確かめる藤見に、薫は言った。
「ありがとう、先生。どこもかしこも痛くて、不具合だらけだけど、私は生きてる。ありがとう」
藤見は手を動かしながら、薫をまっすぐに見た。
「井上先生。圧迫感と痺れはありますか。話を逸らしても無駄ですよ。答えてください」
「ちっ、痺れはない。圧迫感はある。でも、固定具のせいだと思う」
「それを判断するのは、こちらです」
藤見は薫の指先にそっと触れた。
「触れているのがわかりますか?」
「わかる」
藤見は触れる場所を変え、感覚に異常がないことを確かめた。
薫はドアの前に立ったままの桐生に目を向けた。
「桐生、いつまで見てる気? 説明するからさ、こっち来て」
声を張った途端、「イテッ」と小さくつぶやいた。
藤見は薫の指先の色と温かさを確かめながら、桐生に一瞥をくれた。
桐生はベッドに近づきながら尋ねた。
「話しても大丈夫ですか?」
「いいわけないでしょう!」
答えたのは薫だった。
「サクサク済ませるから、みんな、ちょっと出てくれるかな。証言するからさ」
桐生はしかめ面で薫を見た。
藤見は薫の顔色を確かめると、ペンライトを取り出した。
「こちらを見てください」
薫の左右の瞳孔に光を当て、その反応を確認しながら言った。
「本来なら、安静にしていただきたい状態です。私はここに残ります。木村君、君はいったん外してもらえますか」
木村がバインダーを閉じる音がした。
藤見はペンライトをしまい、桐生に向き直った。
「十五分です。それ以上は認めません」
「わかりました」
藤見は再び薫の左腕に目を戻した。
「それから井上先生。痛みを我慢する必要はありません。鎮痛薬については、意識への影響も考慮して調整できますから、つらくなったら言ってください」
「わかった」
木村は生体情報モニターの数値をもう一度確認すると、藤見にバインダーを手渡し、病室を出ていった。
藤見はバインダーを開き、診察結果を書き込み始めた。
「先生も出ていってよ」
薫が言った。
「主治医ですから、あなたの状態を観察する必要があります。それに、私にも守秘義務があります。もちろん、同席を認めていただけるならですが」
藤見はペンを走らせながら、薫の返事を待った。
薫は小さくため息を漏らした。
「しょうがないか」
桐生が丸椅子を手に持ち、窓際のベッドの傍らに移動して腰を下ろすと、薫がじっと見つめてきた。
「話がぶっ飛んでるかもしれないけど、私はいたって正常だから」
「わかった」
桐生はそう答えたものの、薫が眩しそうに瞬いたのを見て、立ち上がった。
「ちょっと待て」
レースカーテンの閉まった窓に遮光カーテンを半分だけ引き重ね、薫の顔を陰にした。
桐生が再び腰を下ろしても、薫はすぐには口を開かなかった。何かを言いかけはしたものの、唇を固く結んだ。
桐生は辛抱強く待った。沈黙を破るのは、いつだって相手のほうだった。
ふと天井を見上げた薫が、話し始めた。
「……待合所から、何だか嫌な雰囲気だった。何がって聞かれても困るんだけど……耳に水が入って抜けない感じだったのに、音がね、耳に刺さるようで、やたらめったら頭に響いてた。空気の音さえ聞こえるようで。自分の足音さえ、気持ち悪くなっちゃって。変よね?」
薫は唇を湿らせた。
「伊藤さんが足早に歩いてたの。なんで、そんなに急いでるんだろうって思った。でも、今思えば私も何かに急かされてた。どうしてだったんだろう……」
取り憑かれたように話す薫を、桐生は黙って見ていた。
「エレベーターに乗って、……扉がね……おかしかった……のよ。開いたり閉じたりしてて。違うな、閉まろうとして、また開いて……とにかく、チグハグだった。顔を見合わせたの、私と伊藤さん。おかしいって、二人とも……わ、変だって、わかってたのに、降りようとしなかった」
薫は桐生をじっと見た。
「なんでだろう?」
答えを求められても、桐生には答えようがなかった。
薫は視線を桐生に据えたまま、続けた。
「それで、伊藤さんが……私の後ろを見たの。目が、急に変わったのよ。『そんな』って、言った。あの目は、知ってる人を見た目だった。振り向いたら、白衣の男が立ってた。首が……」
薫は言葉を切った。
「首が、変な方向に捩れてた。あれじゃ生きていられない。頸椎がどうとか、そんなこと考えるまでもなく、死んでるってわかったの。なのに……」
薫は血走った目で、何かを確かめるように桐生を見つめた。
「立ってたのよ。その男、立ってたの。倒れもしないで、立ってたの」
「それで?」
「それで……落ちたの。たぶん、落ちた。急に身体が浮いたような……違う、下に引っ張られたのかな。わからない。伊藤さんが手を差し出してくれたから、その手に縋ったの」
薫の声が小さくなった。
「落ち始めたら、黒いのが……影みたいなのが、伊藤さんから出て来て……伊藤さんを包んでいった。真っ黒で、何も見えなくなった。……でも伊藤さんの手だけはそこにあって、私の手を離さず……握っててくれてた。本当よ、手だけがあったのよ」
薫は息を整えようとした。だが、待ちきれずに話し出す。
「ゾワッとした。身体中に鳥肌が立って……それから、私たちは錐揉み状になって。洗濯機の脱水槽みたいに……でも、あんなものじゃあなかった。上も下もわからなくて……」
そこで薫は口を閉ざした。
「覚えてるのは、私が覚えているのはそこまでよ」
消え入るような声だった。
桐生はしばらく薫を見つめていた。呼吸が整うのを待って尋ねた。
「二人して、どこへ行こうとしてたんだ?」
「水本先生を紹介するって、伊藤さんが五階のボタンを押したわ」
それまでうつむくようにして薫の話を聞いていた藤見が、そろりと顔を上げた。
「水本先生に……」
何かを思い出したように続けた。
「昨日、水本先生と伊藤さんは、五階の特別室で伴成さんの経過観察をしてたよ」
「伴成……」
薫がつぶやいた。
その目が大きく見開かれた。
「そうよ……そう、そうよ!」
薫は突然、身を起こそうとした。
「伴成友花! 私、伴成友花に会いに来たのよ!」
「動いちゃダメだ!」
藤見がそっと薫の身体を押さえた。
「そうよ! 友花に会いに……!」
「落ち着いて!」
藤見は薫の顔色とモニターの数値に目を走らせ、ナースコールを押した。
「どうしました?!」
スピーカーから木村の緊迫した声が聞こえた。
「木村君、至急来てください。井上先生が興奮状態です。鎮静の必要があるかもしれません」
藤見は再び薫に向き直った。
「井上先生、ゆっくり、ゆっくり息をして」
見かねた桐生が膝を折り、薫の耳元に顔を寄せた。頬に彼女の髪が触れるほど近くで、ゆっくりと数を数え始めた。
「一、二、三、四、五、六……」
桐生はそこで数えるのをやめ、薫の横顔を見た。
「不器用なお前が唱えた呪文だ。死体を前にして取り乱さないために数えた数字だ。どんな思いでお前は今のお前になった。思い出せ。冷静さを失ったら、奈落に落ちるぞ。一緒に数えろ」
桐生を見た薫の唇がかすかに動きだした。
「七……八、九、十」
涙声だった。
「いい子だ」
桐生が顔を上げて笑うと、薫も微笑んだ。
「いいか、伴成友花の件は俺が調べる。情報共有してやるから落ち着け」
薫の微笑みが消えた。
顔を顰めた薫は、桐生を見つめた。
「やめて、お願いだから今はやめて! やな予感しかない!」
「失礼します」
木村が病室に駆け込んできた。
藤見は木村が差し出したトレーから注射器を受け取り、薫の状態をもう一度確かめた。
「井上先生、鎮静をかけます。意識レベルは継続して評価します」
藤見は点滴ラインの側注ポートに注射器を接続し、薬液をゆっくりと注入し始めた。
「伊藤さんの様子はどう?」
立ち上がった桐生を、薫が呼び止めた。
桐生が静かに首を振る。薫の瞳が揺れた。
「えっ……」
「藤見先生、伊藤さんは亡くなったの?」
詰め寄る声だった。
「ええ……」
藤見の返事を聞いた薫は、桐生にゆっくりと視線を向ける。
「あんた、検視報告書を持ってるわよね。見せなさいよ」
桐生は何も言わなかった。
上着のポケットからスマートフォンを取り出し、画面を操作すると、薫の右手に握らせた。
薫の、まだ十分には力の戻らない指が、スマートフォンを支えていた。
薫は画面を凝視する。
その目に、ゆっくりと後悔が落ちてきた。
「私がすがらなければ、伊藤さんは生きていたのね」
薫がつぶやいた。
やがて、薬が効き始めたのか、瞼が重そうに下がった。
薫は目を閉じる。
閉じた瞼から、一筋の涙がこぼれ落ちた。




