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鎮めよ!  作者: オノダ竜太朗
第1章 諸法無我〜俺たちには実態がない
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88/120

松下 劉弦

第88話 記憶の書き換え


 蓮実は駅から徒歩で自宅アパートに帰る途中、車に轢かれた。交通量の多い大通りだった。目撃した人の話では、歩道を歩いている彼女が、フラフラっと車道へ倒れていったらしい。自殺を疑う話まで出てきた。


 睡眠不足もあったのだろう。体の疲労が溜まりに溜まって、眩暈を起こしたのかもしれない。でも、蓮実の精神状態はもうパンパンに張り詰めていたのだと思う。魔が差して、ほんの一瞬生きることをやめてしまおうと、車の方へ吸い込まれていってしまったのかもしれない。


 残業中、俺は病院からの連絡でそれを知った。

 仕事どころじゃない。同僚たちは心配して、早く病院へ行け、と言ってくれた。タクシー会社に連絡しても、どこも連絡がつかなかった。社用車を借りて、慌てて連絡のあった病院まで行った。

 気が動転しているうえに、俺は車の運転は得意ではない。軽自動車を持っているが近場にしか乗っていないから、初心者マークを付けてる若い奴らよりも運転が下手だ。カーナビの案内だと、本当にここを通るのかと言いたくなる細い道を示している。一方通行の細い路地だ。カーナビを無視して走れるほど道に精通していない。それに方向音痴だ。地図を見るのは苦手で、他の道を探す気持ちの余裕もない。


 スマホが鳴った。病院からだ。交通規則がどうのこうのと言うより、俺は片手運転ができない。Bluetoothとの繋げ方もわからないので、スマホを膝の上に乗せてスピーカーフォンにした。『落ち着いて聞いてください』と緊迫した声が聞こえたが、内容が全然頭に入ってこない。『危険な状態』『覚悟』などの単語が聞こえるが、頭に文章として組み立てられない。

 膝に置いたスマホが滑り落ちた。ほんの一瞬足元に視線を落とした時、ハンドル操作を誤ってしまった。

 慌ててハンドルを切ったため、壁にぶつかった。物損事故を起こしてしまったが、すぐに車を発進させた。警察への連絡は後にさせてもらう。

 顔面をハンドルに強くぶつけたが、そんなことはどうでもいい。さっきまでスマホから聞こえていた言葉が俺の頭の中に反復する。大丈夫。無事だ。蓮実も子供も、きっと無事だ。頭の中を駆け巡る不安をかき消すために、俺は声に出して祈った。俺は病院まで急いだ。


 どこをどう走ったかなんて記憶にない。

 俺は目的の病院に辿り着くと、乱暴に車を停め、救急センターの窓口へ駆け込んだ。「すみません」声をかけても誰も返事をしない。受付の中では職員たちが慌ただしく動いている。「松下蓮実はどこですか!夫です!事故で運ばれてたと聞いたんですが!」声を張り上げても誰も気づかないので、俺は勝手に中に入った。

 救急車が到着し、担架が次々と運ばれてくる。研修医と思しき若い医者が、通路でまだ処置室に通せない患者を担架に乗せたまま診ていた。待合室で後回しにされている患者が腹を押さえながら何か叫んでいる。俺はその間を縫って奥へと進んだ。関係者以外立入禁止と書かれている分厚いガラスの自動ドアがあった。そこから先には手術室があるに違いない。医師の出入りによって開いた隙に、俺も一緒に入った。

「手術中」という赤いランプが点っていた。

 なんの根拠もなく、蓮実はそこにいると思った。感じた、と言う方が正解に近い。いくつか並ぶ手術室の、そこだとわかった。

 その手術室に近づこうと一歩踏み出したところ、赤いランプが消えた。



 ずっとあの時のことを思い出すのは、俺の心が拒んでいた。俺はあの時に、記憶を書き換えてしまったのだ。


 本当はもう、俺も蓮実もこの世には、いない。


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