辻 天馬
第45話 静岡へ
初めのうちは適当に遇らっていた。変に仲良くして俺のことを詮索されても困る。女は聞いてもないのに、離婚した理由や息子の話をしてくる。他人の離婚話なんて聞く気はない。どんな酷い旦那だったかを話すうちに熱くなって、こっちが怒られている気分になる。俺が迷惑そうに頷いているのに気づいたのか、次第に旦那の話はしなくなった。その代わり息子の話をするようになった。
定時の5時に上がり、家に帰り夕飯を作って持ってくる。2人分も3人分も労力は同じなのだそうだ。息子が心配するんじやないかと言うと、スポーツクラブが夜の8時に終わるからそれまでは1人なのだそうだ。だから、スポーツクラブのある金曜日に7時半まで俺の家に来るようになった。
息子の話をする時は、旦那の話の時と違って嬉しそうな顔をしていた。地味な顔が、その時は華やかに見えた。こっちは12年の服役の間、女と接していない。出所後もこれといって女との関係がない。女と言えば、住み込みで働かせてくれた家の女房でババアしかいない。女と2人きりで女の匂いを嗅げば、こちらだってそういう気分にもなってくる。この女からはフルーツのシャンプーの匂いがした。うちに来る前にシャワーを浴びてきているのだ。覚悟は決めて来ているのだろう。自然とそういう関係になった。彼女は俺の背中を見て一瞬怯んだが、何も言わなかった。
もうこれでうちには来なくなるだろうと思ったが、次の週もまた飯を持って普通にやってきた。
今度は金曜日ではない日に子供を連れてやってきた。なぜか子供は俺に懐き、どういうわけだかうちのキッチンで飯を作り、その時間に俺が彼女の息子を風呂に入れる羽目になった。俺は背中のタトゥーを気にしたが、彼女は全く気にしていない。息子は息子で、俺のタトゥーをカッコいいと言い出す始末だ。
もちろん、会社にはこの関係を隠していた。会社では付き合いの悪い男と、地味な女で通した。会社ではなるべく話さないようになった。その代わり、うちに来る頻度は日毎増していった。余談だが、その女とやったのは、あの晩の1度きりだ。
自分も随分麻痺してきた。この状態が当たり前になりつつあった。この頃には、ちゃんと契約していた携帯に、彼女と息子と俺の3人の写真を待受画面にしていた。それは彼女の息子を、自分の息子と思い込んでしまうほど。彼女の息子は、風呂上がりに胡座をかいた俺の膝が定位置で、テレビを見ながら寝てしまう。
今まで、何もない人生だったけど、俺みたいな人間でもこんな寛ぐ時間を味わってもいいんだと油断していた。
平日にはうちで飯を食って風呂に入ってから帰る。土日はそのまま泊まっていく。そんな生活がしばらく続いたところ、彼女からの提案があった。
「家賃も勿体ないし、どうせならうちの方で一緒に暮らす?うちだったら部屋数もあるし」
俺はワンルーム、彼女は前の旦那と暮らしていた2LDKに住んでいた。お互いに賃貸だったから、一緒に暮らした方が生活費は浮く。そうしよう、と言いかけたところ俺は我に返って言葉を飲んだ。忘れていた。俺は疫病神なのだ。
それもいいね、と適当に流してその日は親子を帰させた。
部屋に1人になった後、俺は身支度を始めた。俺の支度なんて、そんなたいした荷物はない。出所時と変わりのない荷物だ。財布に携帯電話と写経セット。少しばかり増えたのは普段着くらいだ。それをバックに詰めた。
翌日、会社を無断欠勤した。朝早くから起きてキャッシュディスペンサーで金を全額下ろし、数枚自分の財布に入れて、あとは封筒に入れた。70万近くあった。彼女が家に来て食事を作るから、ほとんど食費がかからなかった。最低でも月に4〜5万は貯めることができた。もしかしたら、心のどこかで彼女たちとの生活のために、なんか思っていたのかもしれない。
金を下ろすと、彼女の家に向かった。もちろん彼女は出勤している時間だ。息子も学校に行っている。その封筒をポストに入れようとした。態々俺からとわかるようにするのも恩着せがましいと思ったが、誰からのものかわからない金がポストに入っていても気味が悪い。バックからペンを出し、封筒に直接『いつも美味しい食事をありがとう。これはお礼です。辻村綾人』と書き込んで、ポストに入れた。もう、この町に用はない。
いつも町を出るのは、服役してたのがバレて仕事をクビになったからなのだが、初めて自分から居なくなることにした。俺が服役者とバレて彼女が離れてしまうのが怖かった。もしかしたら、彼女はそれでもいいと言ってくれるかもしれないという淡い期待もあった。だが、それに甘えて彼女を不幸にしてしまうことの方が怖かった。なにせ、俺は疫病神なのだから。
それからも町を転々としたが、長続きしなかった。長野を飛び出し、ふらっとたどり着いたのが静岡だった。静岡駅で降りて南口を出ると、おでんや焼き鳥の文字の暖簾が出ている店が並んでいた。俺は飲めるだけ飲んだ。久々に自覚が無くなるほど酔っ払った。フラフラの足で、当てもないのに何故かタクシーに乗っていた。酔っ払いが目的もなくあっちへこっちへ指図し、不快に思った運転手は途中で俺を降ろした。もう立てないくらいフラフラで、車から降ろされると階段のようなところに座らされた。タクシーの運転手はバックから財布を抜き取ると、メーター分の料金をきっちり精算していった。ご丁寧にお釣りとと領収書まで寄越した。コンクリートの階段でケツが痛かったので、そのまま路上に寝転がった。車に轢かれようが知ったことはない。それならそれでいい。
明るくなると目が覚めた。路上で寝るというのは、さすがに背中が痛くなる。やはり薄っぺらな刑務所の敷布団でも、寝るためには布団は必要なのだ。朝日が眩しいので片目だけ開けると、俺の傍らにしゃがみ込んでいるジジイの姿があった。
「ほほう。やっと起きたかね」
ジジイは俺のバックを物色していた。
「仏の教えに興味があるのかね」
と、俺の経本をバックから取り出した。そのジジイが、龍幸寺の和尚だった。




