姉思いの弟が笑顔で化け物を連れて戻りました
賑やかで楽しいひと時を過ごすアリスは、実に充実していた。
なかなか浮きが反応しないが、糸を垂らしている自分は今、確実にこれ以上ないほどの冒険者なのだ。
そして釣りの玄人というものは、こうして糸を垂らしている時間こそ妙味と言う。
この静かな時間を味わう事ができれば、それはすでに釣りの一流なのだと小説に書いてあった。
アリスもまた、そんな一流の釣り人になったつもりで、鼻歌を歌いながら浮きを見つめていたのだが。
「あ……! これは、これは……これは!」
そろそろ釣りの妙味よりも退屈さが勝ってきたあたりで、アリスの見つめる先の浮きに反応があった。
小さな反応であったが、アリスが慌てて竿を引く。反射神経は悪くないアリスである。
「アリス嬢、まだはや……」
「お嬢ちゃん、ちぃっと待て」
事前に二人からはピーラニッアを釣り上げるコツはすぐに竿を引かない事と言われていた。
ピーラニッアはどう猛で肉に食いつけば少々では離さないし、鋭く大きな針が三本も仕込まれているのだからなおさらだ。
しかし最初のアタリですぐにエサが動かしてしまうと、さすがに逃げて行ってしまう。
だが今のアリスは持ち前の素晴らしい反射神経で、まさにそれをしでかしたのだった。
「……うう、逃げられてしまいました」
眉根と肩を全力でしょぼんとさせたアリスは、反応のなくなった浮きを悲しく見つめる。
初の釣果、人生で初めての魚、逃がした魚は大きい、そんな全力の失意の視線であった。
やはり私に釣りは向かないのではと、たった一回逃しただけで後ろ向きに全力で凹んでいく様は、顔にも出ていた。
同乗の二人はそういったアリスの感情の起伏にも慣れてきたのか、仕方ないなと、すぐにフォローに入る。
「誰しも初めから上手くはいきませんよ? 美しく舞うダンサーとて、血のにじむ努力と鍛錬の結果なのですから」
「おう、そうだぞ。どんな凄腕の職人だって、丁稚から始まるんだ。今のお嬢ちゃんは釣り丁稚だからな、肝心なのは厳しくても諦めねぇこった!」
二人がそれぞれの言葉と例えで励ましてくれる。
ひたすらの善意と笑顔というのは人を元気にさせてくれる。
淑女に対してというよりは、失敗して泣きそうになった子供をあやすという要領であるのだが。
「そうでしょうか。私でもうまく釣れるようになるのでしょうか?」
「ええもちろん。初めての釣りだというのに、我々よりも早くアタリがあったではないですか。これは、いつかは釣りの達人と呼ばれるかもしれませんね」
「おう、そうだなぁ。オレの浮きなんかさっぱりだ。お嬢ちゃんみたいに失敗して魚を逃がしてやることすらできゃしねぇ、それ以前の状態だからな!」
しかし、そういった励ましも、やりすぎると時に無駄に自信をつけさせてしまったりもする。
「そう、ですね。ここで私が諦めてしまっては、未来の釣りの仲間たちに、達人たちに申し訳が立ちません!」
ふんすと意気高揚し、垂らしていた釣り糸を手繰り寄せてエサを確認する。どうやら肉塊はとられていないようだ。
「お願いします!」
と、針のついた肉塊をベンネヴィスに両手で差し出し、ベンネヴィスが「おうよ!」と笑顔でそれをつかみ放り投げる。
すでに薄れかけていたベンネヴィスに対してへの及び腰もすっかりなくなり、頼れる仲間ですねとばかりに頼りまくるアリスである。
「次こそは!」
「おう、お嬢ちゃんなら絶対にできるぞ!」
「ええ、その意気ですよ!」
***
しばらくして。
ディアジオが二匹、ベンネヴィスが三匹と釣り上げていく中、アリスだけがボウズである。
自分が釣れないのは悲しいが仲間が出した良い結果には妬むことなく一緒に喜べる。アリスの美点の一つである。
「けれど私だけが……このままでは……」
だが、それはそれ、これはこれなのだ。
ベンネヴィスはともかく、ディアジオに対して、自分はチームリーダーである。
リーダーたる自分が、仲間の戦果に頼り切りで良いのか、いや良くない。
そういう見栄を張りたがりの部分は常に全力である。仲間に対して優越感を得たいのではなく、無仲間に対しての責任感からの焦燥だった。
まぁ、単純に褒められたいという子供心もあるのだが。
そんな中、アリスの浮きにアタリが来る。
しかも、ガクンと肩に来るほどの強いかかり方。
「う、あ! き、来ました!」
「やりましたね、アリス嬢」
「お、ついに来たか!」
二人がすぐにサポートに入る。
かなりの食いつきのようだし、ここからは慌てて引き上げてアリスがピーラニッアにかじられないように補佐してやるだけだ。
「んぐぐくくく!」
純粋な筋力という点では非力なアリスだが、懸命に竿を引きながら糸をたぐる。
全員が革の手袋をしており、これで糸で指を切ったり、ピーラニッアを触ってもケガをしないようにする。
リールではないので、片手で竿を引いたり戻したりしながら、残る片手で糸を手の甲に巻くようにして引き上げていく。
ピーラニッア自体はそう大きくならず、重量も軽いためそれで十分なのだが……。
「ふぬぬぬぬぬ!」
アリスは一体何と戦っているのだろうというくらいの必死さだった。
「これは……」
「ああ、悪い予感しかしねぇなぁ」
ディアジオとベンネヴィスが同じものを想像する。
世界で最大の獲物であり、釣り人の誰しもが一度は必ず針をかける、そんな相手だ。
「アリス嬢。ちょっとだけよろしいですか?」
背後からその手伝うように竿を一緒に持ってみる。ディアジオが力をこめても竿は動かず、糸の張りも変わらない。
「くきききき!」
アリスも懸命に糸を引いているがまったく巻き取れていない。
ディアジオがベンネヴィスに向かって悲しげに首を振った。
「……ああ、お嬢ちゃん。お嬢ちゃんよ、聞いてくれるか」
「な、んで、しょう!」
額に汗を浮かべて頑張る美女というのはとても絵になるのだが、そんな彼女を自分はこれから悲しませるのだと思うと罪悪感がある。
「お嬢ちゃんが今釣ってるのは……帝国だ」
「は?」
何を言われたか理解できない顔になるアリス。
「ええと、アリス嬢。帝国を釣るというのはですね……」
帝国を釣る、という言いまわしにピンとこないアリスに、ディアジオがその例えを解説する。
それを聞いたアリスは呆然として。
途端に笑い出した。
「うふふふふ! 帝国を釣る! ですって!」
どうやらツボに入ったようで、それまで懸命に引いていた竿から力を抜いては、また力を入れてみる。
「確かに、この国を釣ってしまったようですわ!」
クスクスと笑い声が止まらないまま、アリスは心底おかしそうに二人に自分の竿を見せる。
思っていた反応と違う様子を見せるアリスに、ディアジオもきょとんと、ベンネヴィスは大笑いした。
そんな和やかな時間が流れる中で、最初に気付いたのはディアジオだった。
冒険者としての危機意識というものがそれを感づかせたのだろうか。
「……揺れていませんか」
小船が揺れていた。
確かに船の上で騒いではいたが、それだけの揺れではない。湖を見ると遠くから波紋、ではなく、小波のようなしぶきが何度もやってきている。
「いやな予感がします。一度戻りませんか?」
「おう。なんだかんだで、ずいぶんと奥にきちまってたな」
釣り糸をたらしつつも、舟を細かく移動させたりとポイントを変えているうちに、ずいぶんと奥まで来てしまっていた。
とは言え、店の並ぶ岸はまだ見える距離だ。
「じゃ、戻るか……って、ありゃなんだ?」
竿を引き上げ、オールを手にしたベンネヴィスが湖の奥を見る。
正確には湖面ではなく、やや上。
「鳥か? ずいぶんとデケェようだが……」
遠方で二匹の鳥のようなものが、からまるように飛んでいる。
それにしてはその軌道がおかしい。少なくとも羽ばたいて空を飛ぶ鳥という動きではない。
蛇行したり、急に宙に舞い上がったり、時に水中に潜りこんだり。
点のように小さな影だったそれは、やがてこちらへと少しずつ近づいている。それも結構な速さで。
「なんだかマズいぞ、座れ二人とも。坊主も手伝え!」
放蕩息子とは呼ばれなくなったディアジオが、ベンネヴィスの差し出したオールの一本を手にして、二人体制で漕ぎ始める。
宙を舞い、湖面を叩き、時に潜る二つの影はどんどん近づいて来て、それはアリスの目にもハッキリと姿かたちをあらわした。
そのうちの一つはヒビキであった。
「ヒビキ!」
「お待たせしました、アリス。とても面白いものがいましたよ!」
笑顔のヒビキが水の上を走りながら舟の上のアリスを見つけると、手を振って自分の背後を指さした。
そこには背中に深々と槍が刺さり、血まみれになってなお、激しくヒビキに襲い掛かっている見た目も恐ろしい双頭の蒼い大魚がいた。




