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9 メロディー、東堂霞、記憶(4)

 はっと目を覚ましたとき、窓の外は赤く染まっていた。カラスの鳴き声が狂ったように聞こえてくる。田舎ではヒグラシのさみしげな声を耳にすることができるのだろう。しかしここではカラスしか鳴いてくれなかった。他に聞こえるものといえば、近くを通る車の排気音だけだった。


 僕は自分の果たすべき役割を思いだして、急いで一階まで下りていった。コンさんがそろそろ帰る時間だ。それとも、もう帰ってしまったのだろうか? リビングに行くと、コンさんはまだいた。母とは話しておらず、黙ったまま何やら考えこんでいる。母はずいぶんと楽しげだ。朝からテンションがまったく変わらないというのは異様な不気味さを感じさせた。コンさんの目を見ると、彼もこちらを見つめ返してきた。彼は僕が下に来るのを待っていたらしい、おもむろに椅子から立ち上がって、「そろそろお暇しなければなりません」と言った。それ以降は一度も僕を見なかった。彼は母にだけ別れの挨拶をした。母は「今日もありがとう。楽しかったわ」と言った。コンさんはその言葉にぎこちない笑みを浮かべただけだった。午後にも何度か発症があったのだ。その表情からこのことが容易に察せられた。


 コンさんを見送ったあとはリビングに残り、彼の代わりを務めることにした。少し眠ったおかげで、これから起こることへの恐怖心はなくなったようだ。あるいはまだ神経が目覚めていないだけなのかもしれない。いずれにせよ、僕は今のところは混乱せずに落ち着いている。ソファーに座ってテレビのリモコンをつける。ニュースしかやっていなかったが、何もついていないよりはずっといい。


「寝ていたの?」と言って母が近づいてきた。麦茶を用意してくれたみたいだ。


「どうしてわかったの?」と僕はびっくりしてしまう。母はいたずらっぽく微笑んでいる。


「だって、いつもより目がとろんとしているもの。誰だって気がつくわよ」


「本を読んでいたら、いつのまにかぐったりしていたみたいなんだ」と僕は嘘をついた。「午前中にちょっと歩きすぎたのかもしれない」


「どこまで行っていたの?」


 僕は坊毛町の方まで行っていたと答えた。深田公園で見知らぬ女の子と会ったことは言わなかった。そんなことを言ってしまうと色々と面倒になる。母はそれを聞いて驚いたようだった。「あっちの方まで歩いたの! 今日は暑かったし、それは疲れるわよ」


「でも眠ったらすっきりしたよ」

「夜、眠れなくなると困るわよー?」


 母はけらけらと笑いながら台所まで戻った。僕は麦茶を一口飲んで、ソファーに深くもたれかかった。今までにないくらい母の調子が良い。夜に近づくにつれて気分の落ち込むことが多かったこれまでとは明らかに違う。僕は棚の上にある写真を見てみた。記憶の迷路をさまよっていたとき、父のいる記憶には一度も出会わなかった。それはきっと僕が幼すぎて、父と過ごした日々のことをあまり覚えていなかったからだろう。それとも、しっかり記憶しているのだろうか? 僕の人格がそれらの記憶を拒否しているだけなのだろうか? 父の顔は白い。輪郭もはっきりしていない。写真の中で、父が白い顔のままじっとこちらを見つめている。だが嫌な感じはしない。当時の父が、気持ちの良い笑顔でいたことは疑いようもないことだからだ。


 そのうちに妹が帰宅した。妹が幼かった頃の記憶を思いだしていたため、何だか妹に対して気の引ける思いだった。「おかえり」と言ってはみたが、その声は妙に緊張したものになってしまった。リビングに姿を現した妹は、僕のことを怪訝そうな顔で見つめたあと、「ただいま」とそっけなく言って、二階へと上がっていった。妹はすぐに風呂に入った。


 それからは何事も起こらずに時間が進んだ。夕食はカレーを食べながら、家族でぼそぼそとしゃべった。妹は母の調子がいつもと違うことに違和感があったようだ。母に何があったのか、僕を見つめて非常に訊きたそうにしている。そこで僕は、夕食を食べ終わったあとに妹を呼んだ。リビングを離れるわけにはいかないので、台所に母のいる隙に話してしまうことにした。台所から極力離れたところでひっそりと、今日の夜にとんでもなく強い「あちら側への移行」が起こることを妹に伝えた。母の調子が良いのはそれが原因なのだということも。


「その話、本当なの?」と妹はまず疑った。信じられないのはわかる。僕は「本当だよ」ということしかできなかった。「コンさんがあれだけ真面目に言ったんだ。彼が嘘をつくとは思えない」


「私、あの人ちょっと苦手なんだよね」

「それは関係がないだろう」


 すると妹はむっとした表情になった。だが何も言おうとはしない。「ん?」と僕が言うと、妹はそっぽを向いてしまった。


「とにかく、今日の夜は警戒しておいてくれ。少なくともどちらか一人はお母さんのそばについていなくちゃならないからな」

「……うん」と妹はかすかにうなずいた。


 時計の進みがひどく遅く感じられる。もう九時頃になるだろうと思っていたが時計を見るとまだ七時だった、という具合だ。同じくリビングで過ごしている妹と雑談でもしようかと思っていたが、会話は長くは続かなかった。二言三言交わしあったあとですぐに空白が生じた。母は僕たちには話しかけずに、一人で口笛を吹いていた。何の曲だかはわからないが、リズミカルで軽快な曲だった。


 ん?


 僕ははっとして、聞こえてくる口笛に耳を澄ませた。その音は僕を否応なく惹きつけた。全身が緊張するようだ。何かが僕の内側で叫んでいる。気づけ、気づけと。少ししてからようやく、その曲が自分の知っているものであることがわかった。この曲は疑いようもなく、公園で霞が演奏してくれた曲だったのだ。祠から戻って来たときに聴いた、あの曲。王の登場するような堂々としたリズム。口笛と楽器とでは当然ながら響きに差があるが、その音は少なからず僕を困惑へと導いた。


 僕は一旦落ち着こうとした。現実が着実に狂ってきている。だがそれで自分を見失ってはいけない。冷静になるべきなのだ。僕はいつのまにか立ちあがり、険しい表情で台所の方を見ていたようだ。母と妹が目を丸くして僕を眺めている。僕は何も言わずにソファーに座りなおした。「大丈夫―、何かあったのー」という母の声が聞こえてきたので、「大丈夫だよ」と答えておいた。だが実際は全然大丈夫じゃなかった。心臓が煮えたぎるように鼓動を打っていた。どうして母が霞の演奏した曲を知っているのか、そして数ある楽曲の中から、なぜそれを口笛で吹いたのか。まったく理解ができなかった。


 妹が僕の隣まで来て、心配そうに僕の顔を下から見上げた。こういうとき、妹は優しくなる。僕はどうにか妹を安心させるために笑って見せた。だが妹はしばらく僕の側から離れなかった。心拍数が下がり、体と心が落ち着きを見せ始めた頃になって妹はもう一つのソファーに移動した。だが目線はずっとこちらに向いたままだった。


 僕は一度自分をリセットするためにトイレに行った。実際は駆け込んだようなものだ。扉を閉めるときの音が力強く響いた。そのまま便器に座って、先ほど何が起こったのかを整理してみることにした。


 母の吹いていた曲が霞の演奏した曲であることは間違いない。未完成のあの曲の方が印象が強いが、王の登場した曲だって忘れるわけがない。けれども、それでどうして僕が混乱しなければならないのだろう。絶対に起こらないようなことが起こったことで単にびっくりしただけなのだろうか。それにしてはひどい衝撃だった。背中に暑い蝋でも垂らされたみたいだった。視界も瞬間的にぼやけて、精神はぐにゃりと曲がった。この奇妙な一致が普通のものでないことは明らかだった。


 このままだといつまでもトイレに引きこもってしまいそうなので、思い切ってトイレから出た。扉の開閉する音が、やけに誇張されて聞こえた。聞き慣れた音では決してなかった。まるでガラスの割れたような、鋭くて痛々しい音だ。この理由はすぐに明らかになった。その音は、リビングの方から聞こえた妹の甲高い悲鳴だったからだ。


 僕は突撃兵のように急いでそちらへと向かう。危惧していたことがついに起きてしまったのだろうか。いいや、それ以外に考えられなかった。果たしてそれはその通りだった。リビングに入ると、まず妹の青白い顔が目に入る。妹は路頭に迷った幼子のように頼りなげに僕を見つめている。僕はその顔を確認したあと、妹の傍らの母を観察した。母は台所で、両手に調理器具を持った状態のまま固まっている。その足元には濡れた皿が落ちていた。幸い割れてはいなかったのだが、それはわずかに残っていた命を奪われた憐れな生物に見えなくもなかった。母の顔は恐ろしい。口を開けて、放心状態に陥っている。ときどき、その口から嘆息が漏れることがあるけれど、それ以外に一言も話そうとしない。瞳はどこも向いていない。暗闇の中にいるときのように、視点が定まっていない。体は定期的にびくりと動いている。


 僕は反射的に、母の頬を平手で打った。咄嗟の判断だった。右手で一度打ち、さらに左手でもう一度打った。母は意識を回復しなかった。痛みを感じていないのだろうか? そばにいた妹が、僕の腕にすがり寄ってくる。どうしたらいいの、と妹は言葉にならない言葉で語っているようだった。


「一緒に揺り動かしてみよう」と僕は言った。妹はすぐに同意した。


 二人で力を合わせて、母を多方向に揺さぶった。しかしやはり反応は皆無だ。そこで嫌な予感が脳裏をかすめたのか、僕は何やら叫んだようだった。何を言ったのかは僕自身もわからない。ただ、僕らしき声が響いているな、と思っていたら、それが僕の声だった、というだけのことだった。どうやらこちらも正常な意識を保てなくなってきているらしい。僕たちは一旦、母を台所から引き離した。母の持っていた器具を引き剥がし、二人で両側から支えるようにして、母をソファーまで運んでいく。そこへ寝かせると、母の顔は少し落ち着いたようだった。しかしそれが果たして良いことなのか悪いことなのかはわからなかった。かえってあちら側へより深く沈むための手助けをしているんじゃないかと思えてきた。


 僕は妹にその場を任せて、おじさんに連絡を取ろうとした。彼だけが僕の知る唯一の親類だったのだ。しかし電話はつながらなかった。僕は電話機を殴りそうになった。だが、すんでのところで理性が引き止めてくれた。僕はおじさんへの何度目かのコールを中止して、119番にかけることにした。むしろここへ一番に通報すべきだったのだ。電話に出たのははきはきした声の男性だった。彼はこちらの声から異常を察したらしい、落ち着いてくださいとしきりに言っていた。彼の声の通りが何だか良かったので、それで僕は落ち着きをどうにか取り戻した。そして、自分の名前と状況の説明、自宅の住所をつっかえつっかえ言った。それで男性はわかりましたと言った。五分ほど待っていてくださいと最後に言って、電話は途絶えた。


 その五分はいやに長かった。その間、僕と妹は瀕死の虫のようにピクピク動く母をじっと見ていなければならなかった。僕たちがどれだけ声をかけても、母は返事一つしてくれない。妹はこの状況を救うための道具を探しにしきりに歩き回っていたが、実際はただ歩いているだけだった。


 写真だ、と僕は思った。父の写った写真がもしかすると、母を救うことになるかもしれない。僕は棚の上に置いてある写真をこちらまで持ってこようと思った。だが、写真はいつもある場所から姿を消していた。いつのまにか、写真は棚からなくなっていたのだ。いつなくなったのだ? 僕がトイレに行く前、写真はあったのか? そこまでよく見ていなかったので記憶は定かではないが、妹が帰って来る前までは確かにあったはずである。写真が棚の上に飾られてあるのを僕はしっかり見た。そのあとリビングからは決して離れなかった。もし母が写真をこっそり自分の懐に隠したりなんかしていたらその現場をばっちり見ていたはずなのだ。だとすれば、写真が消えたのは僕がトイレに行っている間ということになる。僕は妹に訊いてみることにした。僕がここからいなくなっている間、母に不審な行動はなかったか。妹はしどろもどろになりながらも、そんなことはなかった、ただ台所で楽しげに口笛を吹きながら皿を拭いていただけだ、と言った。それで僕はさらに混乱してきた。写真は一体いつ、どこに消えたのだ? 母が写真を持っている可能性は少なくないが、母を抱えてソファーまでやってきたとき、そういう気配は感じられなかった。あの写真がポケットに収まるわけがないのだから、手で持っているか、あるいは服の下に隠すかしていないといけない。しかし、母の手には何も持たれてはいなかったし、服の中に写真の入っている形跡はなかった。今横になっている母を眺めてみても、ぽっこりと突き出ている写真の輪郭は見られない。いろいろなことが不明瞭になっていくようで、僕自身もだんだん現実から離れていくようだった。妹の日本語とは思えない叫びもだんだん遠くなっていった。そこで僕は自分が気絶しそうになっているのだなと気づいた。どうすればいいのか見当もつかない。混乱ばかりが胸を満たし、正常さは失われていく。正気を吸い取る蚊が何千匹も僕の体に密着しているような心持ちだった。この思考も、どうやらまともではない。僕はある拍子に床に膝をついてしまった。汗が止まらなかった。


 外からけたたましい音がしたので、僕はどうにか意識を保っていることができた。それは救急車の到来を告げる音だった。霧がかった視界は晴れていき、耳もよく通るようになった。妹の悲鳴もよく聞こえるようになった。


 けれども、部屋の中で聞こえるあるメロディーが僕の耳を捉えた。それは母のものだった。このとき僕の母は、意識は失っていたものの、一つの正確な曲を口ずさんでいた。それはやはり、霞の演奏した曲と同じものだった。民衆の騒ぎ。王の登場と演説。人々の興奮。演説終了後の解散。

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