8 メロディー、東堂霞、記憶(3)
そろそろお腹も空いてきたところで、僕たちは別れることにした。木々に覆われた公園を抜けて、田圃ばかりの広々とした地帯へと出る。狭い閉鎖的な空間から、雄大で開放的な空間への移動は僕に何かを訴えてきた。お互い帰る方向は別だったので、公園を出て二股に分かれた道で別れることになった。
「次はいつ会えるかな?」と僕は訊ねた。
「さあな」と霞は空とぼけした。「私も頻繁にここに来るわけじゃないからな。もしかしたら、今日が最初で最後の私たちの出会いになるのかもしれないな」
「僕はもっと君の演奏を聴いてみたい」と僕は、つい大声を出して言ってしまった。すると霞は照れたように顔をほころばせた。
「そ、そうか。じゃあ、もっとたくさんここに来られるよう、努力してみるとするか」
「行き違いになったらちょっと面倒だなあ」
「まあ、そのときはそのときだ」
「それじゃ、さようなら」
「ああ」
彼女は笛を、信号旗のようにひらひらと左右に振った。僕は彼女が歩いていくのをじっと見ていた。すると、彼女が向かっている方向に一台の大きな車が停まっているのが見えた。黒くてスマートな形のメルセデス・ベンツだ。その車の側には、同じく黒い礼服を着た一人の男も立っている。彼は霞が近づいてくるとお辞儀をして、何かを話しかけた。霞はそれに面倒そうに答えて、さっさと車に乗り込んでしまった。完全に姿が見えなくなってしまう前、礼服の男がちらりと僕の方を見たような気もしたが、定かではない。彼女が乗ってしまうと、男も急いで、しかし慌てることなく運転席に乗った。エンジンが掛けられ、静かな音を発しながら田舎道を走っていった。僕は立ち止まって、その行方をずっと目で追っていたが、ついに車が見えなくなってしまうと、僕は鵡白町に向かって歩き出した。
彼女はどこかのお嬢様なのかもしれないと思った。あの男は間違いなく専属の執事か誰かだろう。お金持ちでないと許されない特権だ。だが、東堂霞の服装、それから言葉遣いには、お嬢様らしきものがまったく感じられなかった。あえて隠していたのか、それともあれが彼女の自然な態度だったのか。いずれにせよ、彼女の登場は僕に少なからぬショックを与えたようだ。メロディーは相変わらず頭の中で静かに鳴り響いている。繰り返し再生するほど、僕はその曲の虜になっていくような気がした。僕は頭を犬のように振って、できるだけ急いで家に戻ろうとした。
雑多な都会の空気に改めて辟易しながら自宅に帰った。家では母とコンさんが親しげに会話をしていた。キッチンテーブルに互いに向かい合い、コーヒーを飲んでいる。母のものは半分ほど減っていたが、コンさんのものはほとんど手が付けられていないようだった。おそらく遠慮をしているのだろう。
「ただいま」と僕が言うと、二人とも快く迎えてくれた。時計を見ると、時刻は午後の一時を指していた。そろそろ昼食にしましょうか、と母は言った。椅子から立ち上がって台所に行き、楽しそうに食材の準備を始めた。
コンさんは僕のことをじっと見ていた。何か話したいことでもあるようだった。だが僕は、どうしても彼と話す気にはなれなかった。今は霞との思い出を大事にしたかったのだ。母のことで重大な話があることはわかっている。でも、ちょっと待ってほしかった。僕は意図的にコンさんの視線を避けて椅子に座った。しばらくするとコンさんは僕の方を見なくなって、母にいろいろと話しかけるようになった。母はそのたびに笑った。
午後からは何もすることがなかったので、部屋に入って読書でもしようかと思った。タラコのスパゲティを食べたあと、コンさんたちと害のない会話を交わして(このとき、コンさんの訴えかけてくるような視線は感じられなかった)、二階へと上がった。ドアを閉めて、辺りが一気に静まり返ったのを確認する。部屋はむっとしていたので、クーラーをつけることにした。開いていた窓を閉めて、部屋が適温になるまで読む本の選定をすることにする。大学で借りてきたもので、読んでいない本が一冊あったのでそれを読むことにした。本棚に置いたまま、忘れていたのだ。パソコンを開いて大学のホームページを確認すると、その本の返却期限は明日になっていた。
僕はどうしようかと思った。今日のうちに読んでしまうのもそれはそれで面白い。しかし、物語は一気に読むべきものではなく、少しずつ味わいながら読むべきだという自分なりのスタンスがあったので、それはできることなら避けたかった。とりあえずその本の返却期限の延長を済ませておくことにした。延長の確認が済むとパソコンを閉じて、その本の表紙を見つめる。本は僕に何かを語ろうとしているようだった。だがその言葉はあまりにたくさんの意味が込められているため、一度聞いただけではわかりそうにない。僕はこのことから、この本の内容が一筋縄ではいかないものなのだなと予想をつけた。小説というものは、表紙を眺めるだけでその本のこれから語ろうとしている内容がわかるものなのだ。ページは四百ページほどあった。タイトルは『意志の挨拶』だった。意味がわからなかった。
東堂霞のことがおもむろに頭に浮かんできた。彼女の笛を吹いている様子や、僕の隣で楽しげに会話をしている光景が一つひとつ鮮明に思いだされた。僕には彼女ともう二度と会えないのではないかという心配はなかった。理屈はわからないのだが、彼女とはあとで再会するように思えてならなかったのだ。これからは時間が空いたらできるだけ公園まで行こうと決意した。彼女もきっと、そうしてくれることだろう。
部屋も冷えてきたところで、僕はクーラーのリモコンを取って設定温度を二℃ほど上げた。そして、霞のことから思考を切り離し、いざ小説の世界に踏み入ろうとした。だがそのときに、部屋のドアがノックされた。ドアを開けると、やはりというべきか、コンさんだった。
「邪魔だったかな」とコンさんはきまり悪そうに言った。きっとそのときの僕の顔があまり彼を歓迎しているようではなかったからだろう。だが僕は、「いえ、大丈夫です」と反射的に答えてしまった。僕は彼を部屋に招いた。
「あまり時間は取らせないよ」と彼は切り出した。「ただ、確認として、もう一度君と話をしなければと思ってね」
「どれほどひどいものになるかは想像もつきませんが、何とかしてみせますよ」
「心強い一言だ。しかしまだ足りない」
コンさんはいつになく気分が乱れているようだった。彼にしては珍しいことだった。いつもなら穏やかな雰囲気を崩さない人なのに、今回は今までにないくらい苛々しているようだった。
「僕のいない間に、母に何かがあったんですか」と僕は訊いた。コンさんは無感情にこちらを見ていた。口は一向に開かない。だがそれが答えであることは明白だった。午前中に何度か、ひどい兆候が見られたのだ。
「大きな地震が訪れる前に何度も前震が続くように、午前中は荒れに荒れたよ。私は自分でも我慢強い方だと思っているが、三十分に一回ほどの頻度でああも症状を起こされては、誰であっても気分が乱れるというものだ。今はどうにか落ち着いているが、またいつ起こるかわかったものじゃない。こうして我々が話しているうちに、下の階で君のお母さんがあちら側に行ってしまう可能性だってあるんだ」
「はい」
「一日にこれほど症状の繰り返された日は今までにない。私は夕方には帰ってしまうから、何度でも言っておくよ。夜になったら、絶対にお母さんのもとから離れては駄目だ」
「わかりました」と僕は返事をした。それは僕の内部からの決意というよりも、コンさんに強制されて引き出された決意だった。つまり、このときの僕は、母の心配をほとんどしていなかったのだ。それよりも僕の思考を支配していたのは、今読もうとしていた小説のこと、それから東堂霞と彼女の演奏のことだったのだ。僕はコンさんの真剣なまなざしを見て、再び事の重大さを理解した。僕はもう一度、今度ははっきりと自分の意思で、「わかりました」と言った。
それを聞いてコンさんは安心したようだった。
「うん、その返事を聞きたかったよ。正直に言うが、僕は君にすべてを任せることに不安を感じていたんだ。妹さんもいるけれど、あの子はまだ非力だ。君一人にお母さんの生命がかかっていると言っても決して過言ではないんだ。そのことを君が十全に理解しているかどうかが私にはわからなかった。いっそ君に厳しい言葉をかけようかと思っていたくらいだ。でも、どうやらそうする必要はないみたいだ。君は私の思っている以上にしっかりしているからな」
僕はコンさんの言葉を聞いているうちに胸が痛くなった。自分はコンさんの思っているような強い人間ではないことがよくわかっていたからだ。しかしここで弱音を見せるわけにはいかない。でないとコンさんに迷惑がかかってしまう。彼は夕方にはもう帰らなくてはいけないのだ。それは確定事項だから、あとは僕が何とかしなければならない。
「それじゃあ、君は夕方まで休んでいてくれ。それまでは私が引き受けるよ。なに、こう見えて我慢強い方だからね。君の心配するほど私はやわじゃないさ」
それを聞いて僕は笑ってしまった。彼も緊張の解けた笑みを浮かべた。そして足早に部屋を出ていった。
僕はどかりと椅子に座り、机の上の本を眺めた。本の表紙は赤い。そこに黒い文字で『意志の挨拶』と書かれている。その下にはそれよりも小さい文字で作者の名前が載っている。古い外国の作家のものだった。
ページをめくって小説の世界に入ろうと思ったのだが、どうしてもうまくいかなかった。今まで忘れていた母のことが頭にこびりついて、集中できなくなったからだ。それは消えかかったライトのように間を置いて点滅し、僕の心を乱した。点滅ライトにタオルでもかぶせて、どうにか光を見ないようにするのだが、光は布を突き破ってこちらに届いた。僕はあきらめて本を置き、机に腕を乗せた。前かがみになりながら、ぼんやりと物思いに耽った。ちょうど窓から外の景色が見える。外はまだ明るく、子供たちの元気な声が響いている。そろそろ小学生が帰ってくる時間なのだ。声変わりのしていない甲高い声が、あちこちで聞こえてくる。僕は音に耳を澄ませるうちに、公園で聞いた笛の調べを思いださないわけにはいかなかった。
駄目だ、どうしても思考を一つにまとめることができない。いっそのこと夜になるまで寝ていようかと思った。どうせそのときまで何もすることができないのだ、だったら体力を蓄えておくが吉だろう。だが寝過ごすのも恐いのでやめておいた。話し相手がいれば、これほど退屈することもないのだろうが、下に行って母やコンさんと話すのはちょっと嫌だったし、気軽に話せるだけの友人も僕には存在しない。妹と話すのも気恥ずかしいくらいだ。数年前までは相当に仲の良かった兄弟だったのだが、最近はほとんど話さなくなってしまった。僕は妹のことについて考えることにした。多少の暇つぶしにはなるだろう。
思いだせば、昔はいつも一緒にいた気がする。もっと小さい頃は、遊び回る僕の後ろをちょこちょことついてきたものだった。一番鮮明に覚えているのは、自分が小学生に上がる直前かその直後あたりの記憶だ。僕はどこかを歩いている。きっとここから離れた田舎道だろう。あたりは若干暗くなっている。夕陽が沈みだして、本当の闇が訪れようとしている。僕は真っ直ぐな枝を片手に持って、それを振りかざしながら歩いている。気分はとても良かった。どうしてそこまで上機嫌だったのかはわからない。今では思いだせないが、きっと日中に良いことでもあったのだろう。意気揚々と歩く僕の後ろでは、涙を流しながら歩く妹の姿が見える。妹は顔を手で覆いながら、それでも一生懸命僕についてきていた。僕はたびたび妹に声をかけて、勇気を分けていた。家に帰る途中だったのだ。泣いているのはこの時間になるまでなかなか家に戻れなかったからだろう。
その出来事があってから僕たちはさらに仲が良くなった。いない父の代わりに僕がその役割を務めて、よく遊んだりしたものだ。子供の頃の思い出は、断片的ではあるが強烈に覚えているものが多い。神経を研ぎ澄ませば、あのときに二人で話した内容も思いだせそうなくらいだ。枝の動きさえも細かく思いだすことができる。こんなことをいつまでも記憶している兄というのも気持ちが悪いが、思い出とは一方的なものだろう。妹にだって人には言えないようなものを思い出として大事にしているはずだ。
そこから僕は、記憶の迷路に入っていった。思いだせることを丹念に拾い上げていき、その世界に没入した。意外にもたくさんのことを記憶しているようだった。小学生の頃に多くの友人と走ったり木に登ったりした記憶。小学校卒業の日に、担当していた別れの言葉を噛んでしまった生徒がいたこと。妹が浴室の中で転んで大変な騒ぎになったこと。中学、高校と一生懸命勉強に励んだこと。この頃になると友人と過ごした記憶はほとんど残っていなかった。きっと楽しくない思い出だったのだ。思い出の海を幾度も出たり入ったりしていくうちに、僕は体の力が抜けていくような感じがした。これはおそらく眠気だ。気がついたときにはもう遅かった。僕は机に突っ伏したまま、心地良い眠りの世界に入っていた。




