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7 メロディー、東堂霞、記憶(2)

 僕が左に座り、彼女が右に座った。こうして近くで見ると、彼女がどれだけ細いのかということがよくわかる。贅肉とは生まれてから一度も縁がないようであった。僕は彼女のことをつい長々と見つめてしまうことが多かった。そのたびに、彼女の咎めるような視線に目を覚まされて、慌てて視線を逸らしていた。


「そうしてじろじろ見られると、恥ずかしいからやめてくれ」と女の子はついに僕に言った。それで僕はもう彼女をあまり長く見るのを控えた。


 彼女は東堂霞とうどうかすみという名前だそうだ。僕も自己紹介をすると、彼女は変な名前だと言って笑った。僕は生まれてこの方、名前を誰かに笑われるという経験は初めてだったから、戸惑い、そして少しだけ怒った。彼女は、ごめんごめん、ただ、私があまり人の名前を知らないからだろう、と謝った。しかし彼女はそのあともしばらく笑い続けていた。


「そんなに面白かったかな」

「本当にごめん。私は一度笑いに嵌るとなかなか抜け出せないのだ」


「それは困った症状だ」と僕はため息をついた。彼女はまるで世界王者になった男が家に帰って試合のことを思いだしたときのように高らかに笑っていた。その声を聞いていると、何だかこちらまで笑えてくる。


「それで、君は今、どういう場所に属しているの?」

「属する、とは?」

「つまり、自分が何者かってことだよ。僕は今、東京のある大学に属している。だから僕は大学生の一人だ。君は大学生ではないんだよね」

「うん」

「じゃあ社会に出て働いていたりするのかな?」


「私は働いたことなんて一度もないぞ」と彼女はいけしゃあしゃあと言った。「だからお前の言っていることに従えば、私は今、何者でもないのだ」


「それだと毎日が暇じゃない?」と僕は言った。


「暇などではない。たまに父の仕事を手伝ったりするしな。その作業だけで一日が終わってしまうこともある」

「ずいぶん忙しいお父さんなんだね」


「ああ。おかげで幼少の頃から父と一緒に遊んだという記憶がない」と霞は言った。そのとき浮かべた顔には微塵もさみしそうな感情は含まれていないようだった。


 父は毎日のように机の上に重ねられた資料に何か書き込んでいるのだと彼女は言った。具体的にどんなことが書かれているのかは私にはわからない。ずいぶんと難しい文字を使っているみたいで、私にはさっぱりなのだ。私はたびたび父に呼ばれて、資料の片付けをさせられたり、部屋の掃除を命じられたりしている。外出する父を見たことは一度もなく、毎日決まった時間に彼の部下らしき人が駆けつけてきて、処理し終えた資料を父の代わりに外に運んでいるのだ。私はそんな父のもとで育ってきた。無論、仕事ばかりに追われていたから、私に教育を施したことはなく、放任を貫き通していた。今だって、私が何歳なのかも把握していないはずだ。


 僕はその話を聞いて不思議な気持ちになった。父はそういうものなのだろうかと頭が混乱したのだ。僕のイメージする父像はそんなものではなく、子供と二人でサッカーをしたり、どこかに遊びに行ったりする大きくて頼れる男だ。彼女の言うような父を僕はうまく想像することができなかった。自分の父が生きていたら少しくらいは理解ができたのかもしれない。そのときも何度か父の顔を思い浮かべようとしたのだけれど、やはりいつものように、白くぼやけてしまった。


「笛はいつから吹いているの?」と僕は聞いてみた。これが最も気になっていたことだった。


「ううむ、正確には思いだせないが」と霞は木々を見上げた。「気がついたら手元に笛が握られていた感じだ。どこに行こうともこの笛がそばにいてくれたような気がする。一番古い記憶で思いだせるのは、私が四歳くらいの頃だ。私はどこか狭い部屋で、誰かに向かって笛を吹いていた。その演奏を聞いた誰かが私をすごく褒めてくれた。この印象がいつまでも残っている。記憶とは不思議なものだな」


「その誰か、というのは、どうしても思いだせない?」

「うむ。ほとんどすべてのものを当時のまま鮮明に思いだせるのだが、私の前に立って、演奏を聞いてくれていた人のことだけは、どうしても思いだせないのだ。その人のことをよく見ようとすると、黒い影になってしまってうまくいかないのだ」


「僕にもね、どうしても思いだせないものがあるんだ」と僕は言った。「父親の顔だよ。父親の写っている写真は一枚しかないんだけど、それももう剥げてしまって、表情がよく見えなくなってしまっている。そして僕の記憶の中に生きている父親もまた、写真と連動しているかのように、うまく思い浮かべることができないんだ。どんな声をしていたのかも最近は思いだせなくなっている。数年後には父親のことは全部忘れてしまうのかもね。君にこんなことを言っても仕方のないことなんだけど」


「お前の父はいなくなってしまったのか?」

「僕が小さい頃にね。母親の話だと、僕が四歳の時に交通事故で亡くなったみたいだ」


 そうか、と霞は言って、それきり黙ってしまった。父親のいない生活というのがどういうものなのかを想像していたのだろうか。しかし、彼女は自分の父親とはほとんど無縁のまま生きてきたから、たとえ父親がどこかの地点で姿を消してしまっても、彼女は今のまま変わらなかったのだろうなと思う。多少の影響はあるのかもしれないが、彼女は見たところ、他人に影響されることが少ないだろうから、きっと父の不在にはすぐに見切りをつけて、自分というものをきちんと保って生きていられただろう。僕は彼女が年上なのか年下なのかを訊いてみたかった。だが年齢を訊ねるのは気が引けて、結局いつまでも訊くことができなかった。


「でもね、ちょっと気になっているものがあるんだ」と僕は話を続けた。誰かにこれほど自分のことを打ち明けるのはあまりないことだ。霞はじっと僕のことを見つめた。彼女の瞳にはもう警戒心はない。かといって歓迎しているようでもないのだけれど、その瞳は不思議と僕を落ち着かせてくれた。


「僕が四歳の時の記憶で、父がいなくなる前だ。これがおそらく、僕が父について覚えている最も新しいものだと思う。僕は台所に佇んでいて、目の前には父と母がいたんだ。何を話していたのかはよくわからないんだけど、どうやら喧嘩をしているようだった。身振り手振りを駆使しながら大声で怒鳴りあっていた。どちらも僕のことなんて眼中にないようだった。それで僕は、自分の周りのあらゆるものがとても怖くなってしまったんだ。自分がプレス機で押しつぶされているような圧迫感を覚えた。喧嘩がどうなったのか、その辺はまったく記憶にない。でもそれ以降、父についての記憶はすっかり途絶えてしまった。母はそのことについては全然話してくれないんだけど、きっと喧嘩別れをして、それで父は交通事故にあったんだろうね。胸糞悪い、自分勝手な思い出話を聞かせて悪かった」

「いいや、そんなことはまったくない。私は人の話を聞くのは好きだ」と霞は静かな声で言った。「私たちは二人とも、四歳の頃の記憶が自分にとって重要な意味を持っているようだな」

「そうみたいだね。やっと君との共通点が見出せたよ」


 霞は笑った。「演奏、してもいいか」


「ちょうど僕も聴きたいと思っていたんだ」と僕は言った。


 霞は機敏な動作で立ちあがった。そして、軽やかな足運びで公園の中央まで歩いた。まるで大舞台に向かっているようだ。彼女がそこに立つと、ちょうどベンチが観客席みたいになった。彼女はこちらに振り向いて、一礼した。そして、これまで大事そうに抱えていた笛を口に持ってきた。今回は演奏する前の儀式めいたことは行なわれないようだ。あれは他人に見せるようなものではあまりないのだろう。


 音色は奇妙な色合いだった。調べに特に問題があるというわけではない。しかし、何かが致命的に損なわれているようなそんな気分になる。まるで今の自分の心を体現しているようだ。生き写しでも見ているようだった。音はそのまま、最後まではっきりしたかたちを取らないまま終了した。おそらく一分も経っていない。ずいぶん短い曲だった。


「この曲は?」と僕は質問をした。


「即興で作ったものだ」と霞は言った。その声は風に飛ばされてしまいそうなくらい小さかった。「頭の中で考えながら吹いたから、ちょっと不思議なものになってしまったな。どう終わらせようかも決めていなかったから、とりあえずぼかしておいた。まだ未完成だということになる。完成したら、たぶんもっと変化があって、終わりも締まると思うぞ」


「楽しみだ」とだけ僕は言った。それから僕は、今のメロディーが嫌に頭に残っていることに気がついた。それは僕の体に吸い付くように離れない。どれだけ引き離そうとしても、その音は抵抗を示してうまくいかない。どういうことだろう? 僕は最初の、王の登場する演奏を思いだしてみた。だがそれは、近づいていくと鳥が逃げてしまうように、いつも僕の手の隙間から抜けてしまう。数小節はふっと頭に浮かぶのだが、そのあととなるとどうしても続かないのだ。だが、今回のものは違った。単に最近聴いたからきちんと記憶しているのではない。それは終始頭に残るだろうという確信があった。音は僕の中で死ぬほど繰り返されていた。霞が声をかけてくれなかったら、そのままこのメロディーに囚われていたに違いなかった。

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