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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第37話 呼ばれる夜


 翌朝、アリシアは目を覚ましてすぐ、胸元に手を当てた。


 痛みはない。


 冷えもない。


 息苦しさもない。


 けれど、胸の奥にある夜の井戸が、いつもより少し深く感じられた。


 昨日見た、設立初期の結界概要記録。


 五属性支点の記述の後に残された、数行の空白。


 紙の損傷ではない。


 写しの失敗でもない。


 元資料にも、同じ空白がある。


 そして、その空白の後に書かれていた一文。


『以後、支点の増設は不要とする』


 その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。


 支点の増設。


 不要。


 なぜ、そんな言葉が必要だったのか。


 最初から五つだけで完全だったなら、増設など話題にもならないはずだ。


 何かを増やす案があったのか。


 あるいは、何かを増やそうとして、やめたのか。


 もしくは。


 増やしたことを、なかったことにしたのか。


 そこまで考えた瞬間、胸の奥の夜がかすかに揺れた。


 アリシアは慌てて息を吸う。


 決めつけない。


 これは推測。


 まだ事実ではない。


 昨日、何度も確認したことだ。


 それでも、あの空白はただの空白ではなかった。


 見るだけで、呼ばれているような感覚があった。


 近づきたい。


 知りたい。


 でも、近づきすぎたくない。


 その矛盾した感覚が、今も胸の奥に残っている。


「朝から胸を押さえてる時点で、かなり引っ張られてるわね」


 ノアの声がした。


 アリシアは寝台の上で振り返る。


 ノアは枕元で丸くなっていたが、金色の瞳だけを開けている。


「おはよう、ノア」


「おはよう。で、空白に呼ばれてる?」


「……少し」


 正直に言うと、ノアは小さく息を吐いた。


「正直でよろしい」


「でも、怖い」


「でしょうね」


「ノアは……あの空白、何か知ってる?」


 聞いた瞬間、部屋の空気が少し静かになった気がした。


 ノアはすぐには答えなかった。


 窓の外は朝の薄い光。


 部屋の中は静か。


 その静けさの中で、ノアの尻尾だけがゆっくり動いている。


「全部は言えないわ」


 やがて、ノアはそう言った。


 アリシアは胸が小さく沈む。


 でも、驚きはなかった。


 何となく、そう言われると思っていた。


「……うん」


「でも、一つだけ言うなら」


 ノアはアリシアを見た。


「空白は、ただ忘れられたから生まれるとは限らない」


「ただ忘れられたからじゃない……」


「忘れたい者がいる時にも、空白は作られる」


 アリシアの指先が冷たくなる。


 忘れたい者。


 誰が。


 何を。


 なぜ。


 質問が喉まで上がる。


 けれど、ノアの目を見て止めた。


 今、これ以上聞いても、ノアは答えられない。


 答えられないことを無理に聞けば、また空白を勝手に埋めようとしてしまう。


 アリシアはゆっくり頷いた。


「分かった。今は……そこまでにする」


 ノアの瞳がわずかに柔らかくなった。


「いい判断ね」


「でも、グラン先生には相談する。空白を見た時の感覚を」


「それは必要よ」


「呼ばれている感じがしたことも?」


「言いなさい。感覚は記録対象」


「うん」


「ただし、黒月の名は出さない」


「うん」


「私が神獣であることも出さない」


「うん」


「空白が何かを隠していると断定しない」


「推測として話す」


「よろしい」


 アリシアは布団から出た。


 制服に袖を通す。


 鏡の前に立つ。


 少し眠たそうな顔。


 少し不安な目。


 でも、今日は逃げる顔ではないと思いたかった。


「背筋」


 ノアが言う。


 アリシアは背筋を伸ばした。


「今日は、呼ばれても走らない」


「うん」


「近づきたくなったら止まる」


「うん」


「誰かに言う」


「うん」


「それでいいわ」


 扉が叩かれる。


 メリルの声がした。


「アリシアちゃん、おはよう」


 アリシアは扉を開けた。


「おはよう、メリルさん」


 メリルはアリシアの顔を見ると、すぐに少し眉を下げた。


「昨日の空白、まだ気になってる?」


「うん……胸の奥が少し揺れる感じが残ってて」


「大丈夫?」


「大丈夫……だと思う。でも、グラン先生に相談する」


「うん。その方がいいと思う」


 メリルは無理に明るくしなかった。


 それがありがたかった。


 二人と一匹で廊下を歩く。


 朝の寮には、いつも通りの音があった。


 誰かの笑い声。


 階段を下りる足音。


 扉の軋む音。


 食堂から漂ってくる温かいスープの匂い。


 アリシアはそれらを一つずつ確認するように歩いた。


 空白だけを見ない。


 あるものも見る。


 ノアに言われたことを、今日も繰り返す。


 食堂では、ガレスとミランダが席を取っていた。


「おはよう!」


「おはよう」


 アリシアが座ると、ガレスが真剣な顔で聞いた。


「昨日の空白、どうだった? 眠れたか?」


「少し……気になったけど、眠れた」


「そうか!」


 ミランダが身を乗り出す。


「空白、怖かった?」


「うん。怖かった」


 アリシアは正直に答えた。


「でも、空白って言葉が少し変わった気がする。怖いだけじゃなくて……何かが隠れてる場所みたいで」


「隠れてる場所……」


 ミランダは少し考えてから、ぱっと顔を上げた。


「宝箱みたい?」


 アリシアは思わず瞬きした。


「宝箱?」


「うん! 何が入ってるか分からないから怖いけど、開けたら大事なものかもしれない!」


 ガレスが頷く。


「罠かもしれんがな!」


「ガレス、それ言っちゃだめ!」


 メリルが苦笑する。


 アリシアも少し笑った。


 宝箱。


 罠。


 確かに、どちらの可能性もある。


 空白には、宝物が隠れているかもしれない。


 でも、罠もあるかもしれない。


 だから、勝手に開けてはいけない。


 手順が必要だ。


「うん……宝箱でも、罠でも、一人で開けないようにする」


 アリシアが言うと、ガレスは満足げに頷いた。


「それがいい!」


 ミランダも笑う。


「開ける時はみんなで!」


「いや、開けるのは先生たちと一緒にね」


 メリルがすぐに補足した。


 アリシアは小さく笑った。


 その笑いで、胸の揺れが少し落ち着く。


 生活基礎では、セリア先生が「強い関心との距離」について話した。


 黒板に書かれた言葉を見て、アリシアはまた背筋を伸ばした。


『気になるものほど距離を取る』


 セリア先生は穏やかな声で言った。


「人は、強く気になるものへ近づきたくなります。知りたい、確かめたい、触れてみたい。そう思うこと自体は自然です」


 アリシアはノートに書く。


 知りたい。


 確かめたい。


 触れてみたい。


 昨日の空白を見た時、まさにそうだった。


「ですが、強い関心は時に判断を狭めます。だからこそ、気になるものほど一度距離を取り、誰かと相談し、手順を確認することが大切です」


 ノアが朝言ったことと同じだった。


 呼ばれても走らない。


 近づきたくなったら止まる。


 誰かに言う。


 アリシアはその三つをノートの端に書いた。


 授業の後半では、自分が強く気になるものに対して、どう距離を取るかを考える課題が出た。


 アリシアは少し迷った。


 書く内容は決まっている。


 空白。


 でも、それをそのまま書いていいのか。


 メリルが隣で小さく言った。


「書ける範囲でいいと思うよ」


 アリシアは頷いた。


 ノートに書く。


『気になるもの:古い資料の空白』

『近づきたくなる理由:何かが隠れている気がするから』

『距離を取る方法:一人で調べない。リーネさんたちと記録する。先生に相談する。触らない。決めつけない』


 書き終えると、少し息が楽になった。


 気になるものを、気になると認める。


 それだけで少し距離ができる。


 セリア先生が机の間を回り、アリシアのノートを見て静かに頷いた。


「良い整理です」


「ありがとうございます」


「気になるものを遠ざける必要はありません。ただ、適切な距離を取りましょう」


「はい」


 戦闘基礎では、昨日の合同訓練を踏まえ、「追い込みすぎない位置取り」が続いた。


 エレナ教官は木剣を手に、三班と一班の一部生徒を見渡した。


「相手を止めたい時、逃げ道をすべて潰すと逆に危険だ。追い詰められた相手は、無理な動きをする」


 アリシアは昨日の言葉を思い出す。


 止めるとは、必ずしも塞ぐことではない。


 動きにくくするだけで十分な時もある。


「今日は逃げ道を一つ残せ。だが、その逃げ道を管理しろ」


 難しい指示だった。


 全部塞ぐ方が簡単かもしれない。


 でも、それでは相手が暴れる。


 道を残す。


 しかし、好き勝手には逃がさない。


 アリシアは木刀を握りながら、胸の奥で考えた。


 闇の力も、そういう使い方ができるのだろうか。


 完全に閉じ込めるのではなく、動きを眠らせ、道を選ばせる。


 そんなふうに守ることができるのだろうか。


 訓練では、ガレス、ミランダ、アリシア、メリルの四人で相手役を囲う。


 相手役はカイルとミーナ。


 カイルは動きが速く、ミーナは槍で距離を作る。


 ガレスが前へ出る。


 ミランダが右を押さえる。


 メリルが後方で風の射線を作る。


 アリシアは左後方に立ち、あえて完全には塞がない。


 カイルがそこを見て動く。


 アリシアは逃げ道の入口に木刀を置く。


 塞がない。


 でも、進むには少し遅くなる角度。


 カイルが一瞬迷う。


 その間にガレスが前の圧を調整し、ミランダが横を固める。


 メリルの杖先が、カイルの次の動きを牽制する。


「止め」


 エレナ教官が言った。


 沈黙。


「今のは良い。逃げ道を残し、管理できていた」


 アリシアは息を吐いた。


 ガレスが嬉しそうに笑う。


「おお、できた!」


 ミランダも小さく跳ねる。


「やった!」


 メリルが控えめに微笑む。


 エレナ教官がすぐに言う。


「喜ぶのは早い。もう一度」


「はい!」


 何度も繰り返す。


 失敗もした。


 ガレスが押しすぎてカイルが強引に抜ける。


 ミランダが横を塞ぎすぎてミーナの槍に押し返される。


 アリシアが逃げ道を残しすぎて、あっさり抜けられる。


 メリルの声が遅れる。


 そのたびにエレナ教官の指摘が飛ぶ。


「残す道と捨てる道を分けろ」


「逃がすな。誘導しろ」


「焦って塞ぐな」


「見えているなら、先に置け」


 見えているなら、先に置け。


 アリシアはその言葉に強く反応した。


 空欄も同じかもしれない。


 見えたからといって、飛び込むのではない。


 先に記録を置く。


 報告を置く。


 誰かと共有する。


 そうして、危険へ直接触れずに道を管理する。


 訓練の終わり、エレナ教官はアリシアを見て言った。


「今日の位置取りは悪くなかった。空いた場所を塞ぐより、残す判断が少しできていた」


「ありがとうございます」


「ただし、考えすぎると遅れる。見たら動く場面もある」


「はい」


「お前は止まることを覚え始めた。次は、必要な時に動くことも忘れるな」


 アリシアは頷いた。


 止まること。


 動くこと。


 どちらも必要。


 午後、アリシアはグラン先生の研究室へ向かった。


 練習帳を持って。


 ノアも一緒だ。


 図書館へ行く前に、昨日の空白を見た時の感覚を相談するためだった。


 扉の前に立つ。


 呼吸は一回。


 ノアが言う前に、アリシアは自分で整えた。


 扉を叩く。


「アリシアです。相談したいことがあります」


「どうぞ」


 中へ入ると、グラン先生は机の上の水晶片を片づけているところだった。


 アリシアを見ると、すぐに椅子を示す。


「設立初期記録の件ですね」


「もう聞いているんですか?」


「司書から概要は共有されています。あなたが空白を見て、胸の奥の反応を感じたことも」


「はい……」


 アリシアは座り、練習帳を開いた。


 ノアは布の上に座る。


「昨日、空白を見た時に……呼ばれているような感じがしました」


 言葉にすると、また胸の奥が少し揺れる。


 グラン先生は静かに頷いた。


「痛みは?」


「ありません」


「冷えは?」


「ありません」


「恐怖は?」


「ありました。でも、影喰いの時みたいな怖さとは違って……近づきたいけど、近づきすぎたくない感じです」


「なるほど」


 グラン先生は記録する。


「黒い反応は外に出ましたか?」


「出てないと思います。少なくとも、見える形では」


「ノアの反応は?」


 ノアは普通の猫の顔をしている。


 アリシアは少し慎重に答えた。


「ノアは、見すぎないように言いました。でも、覚えておくようにも言いました」


「良い助言です」


 グラン先生は頷いた。


「空白に対する反応は、魔力的なものか、心理的なものか、現時点では断定できません」


「はい」


「ただし、あなたの特殊魔力反応は『ないもの』『隠されたもの』『動きの停止』に関わる情報へ反応しやすい可能性があります」


「ないものに……」


「はい。影喰いの残滓、結界灯の干渉痕、そして資料の空白。どれも、通常の五属性反応では拾いにくいものです」


 アリシアは練習帳を握る。


 拾いにくいもの。


 ないもの。


 隠されたもの。


 自分が見つける役になれるかもしれないもの。


「それは……危ないですか?」


「危うさはあります」


 グラン先生は正直に言った。


「見えないものが見える人は、見えないものに引かれることがあります。だからこそ、あなたには記録と相談の習慣が必要です」


「はい」


「ですが、危険だから無価値というわけではありません。むしろ、適切に扱えば重要な観察能力になります」


 重要な観察能力。


 アリシアは息を止めそうになった。


 自分の怖がりや黒い力が、能力として言われる。


 まだ慣れない。


 でも、少し嬉しい。


 グラン先生は机の上に小さな黒い布を置いた。


 アリシアはびくりとする。


 黒布。


 夜の守り手の伝承を思い出した。


「これは普通の遮光布です。魔力はありません」


「普通の……」


「はい。今から、黒い色そのものに反応しているのか、空白という情報に反応しているのかを簡単に確認します」


 アリシアは少し緊張した。


 グラン先生はもう一枚、白い紙を出す。


 そこには何も書かれていない。


「まず、黒布を見てください」


 アリシアは黒布を見る。


 黒い。


 けれど、胸の奥は反応しない。


 少し落ち着く色ではあるが、呼ばれる感じはない。


「反応は?」


「ありません。黒いけど……普通です」


「では、この白紙を見てください」


 白紙。


 何も書かれていない紙。


 アリシアは見つめる。


 何もない。


 でも、昨日の空白とは違う。


 胸の奥は揺れない。


「反応は?」


「ありません。これは、ただの白紙って感じです」


「では」


 グラン先生は別の紙を出した。


 そこには短い文章が書かれていた。


『火、水、風、土、光の五つにより結界を整える。――――。以後、支点の増設は不要とする』


 真ん中だけ、意図的に空けられている。


 昨日の記録を簡略化したものだ。


 アリシアの胸の奥が、小さく揺れた。


「……少し、反応しました」


「黒布ではなく、白紙でもなく、文脈の中の空白に反応している」


 グラン先生は記録する。


「やはり、色ではなく『欠落した情報』への反応かもしれません」


「欠落した情報……」


「はい。もちろん、あなたが昨日の資料を思い出して心理的に反応している可能性もあります。ですが、確認する価値はあります」


 グラン先生はその紙をすぐに伏せた。


「今日はここまで。無理に見続ける必要はありません」


 アリシアは息を吐いた。


 短い確認だった。


 でも、少し疲れた。


 グラン先生は水を差し出す。


「空白を見た時、あなたは呼ばれているように感じる。しかし、普通の黒や普通の白紙では反応しない。これは重要です」


「はい」


「今後、空白や欠落に反応した場合は、必ず記録してください。ですが、空白を探し回らないこと」


「はい」


「あなたが見つけるべき時に見つけるものと、無理に探して見つけてしまうものは違います」


 アリシアはその言葉を胸に刻んだ。


 見つけるべき時に見つけるもの。


 無理に探して見つけてしまうもの。


 その違いを、まだ自分はうまく分からない。


 だから、手順が必要なのだ。


 研究室を出ると、ノアが隣で言った。


「よく話せたわね」


「うん……ちょっと疲れた」


「今日は図書館では無理しすぎないこと」


「うん」


「リーネに全部細かく話したら、また記録が増えるわね」


「たぶん……」


 アリシアは少し笑った。


 図書館へ行くと、リーネ、メリル、シオンが待っていた。


 アリシアはグラン先生との確認内容を共有した。


 黒布には反応しなかった。


 白紙にも反応しなかった。


 文脈の中の空白には反応した。


 リーネは予想通り、すごい速度で記録した。


「つまり、単純な黒色反応ではなく、欠落情報への反応可能性」


「グラン先生も、そう言ってました。でも、心理的な反応の可能性もあるって」


「当然です。両方記録します」


 シオンが言う。


「空欄担当、ますます本格的だね」


 アリシアは少し困ったように笑った。


「本格的……なのかな」


「欠落情報に反応するって、なかなか珍しいと思うけど」


 メリルが心配そうに言う。


「でも、疲れない?」


「少し疲れた。でも大丈夫。今日は無理しない」


「うん。それがいい」


 リーネも頷いた。


「今日は資料確認を軽めにします。昨日の空白に関する追加調査は、司書から次の資料が出てからにしましょう」


 アリシアはほっとした。


 リーネがそう言ってくれるとは思わなかった。


「ありがとうございます」


「調査対象が疲弊しては、調査が続きません」


「調査対象……」


 メリルが苦笑する。


「リーネさん、言い方」


「失礼しました。共同研究者が疲弊しては、調査が続きません」


 アリシアは少し笑った。


「そっちの方が嬉しいです」


 リーネは少しだけ視線を逸らした。


「では、今後はそう言います」


 夜。


 部屋に戻ったアリシアは、練習帳を開いた。


『今日は、空白に呼ばれている感じについて、グラン先生に相談しました。黒い布には反応しませんでした。白紙にも反応しませんでした。でも、五属性支点の文章の中に空白がある紙を見ると、胸の奥の夜が少し揺れました』


 続ける。


『グラン先生は、色ではなく、欠落した情報に反応している可能性があると言いました。でも、心理的な反応の可能性もあります。両方を記録することになりました』


 さらに書く。


『戦闘基礎では、逃げ道を一つ残して管理する練習をしました。止めることは、全部塞ぐことではないと分かりました。空白も、全部埋めるのではなく、距離を取って管理するものなのかもしれません』


 アリシアはペンを止める。


 今日もいろいろあった。


 怖かった。


 でも、相談できた。


 確認できた。


 無理に見続けなかった。


 リーネたちにも共有できた。


 ノアが机の上へ飛び乗る。


「今日は?」


 アリシアが聞くと、ノアは少し考えた。


「九十七点」


「あ、少し下がった」


「空白への反応で疲れた分、少し集中が揺れたわ。でも、相談できたし、実験でも無理しなかった。図書館でも無理しないと言えた」


「減点は?」


「グランの紙を見た時、少し身を乗り出した」


「う……」


「でも、すぐ止まった」


「うん」


「だから良し」


 アリシアは小さく頷いた。


 窓の外の夜を見る。


 今日の夜は、少しだけ呼んでいるようにも見えた。


 でも、アリシアは窓へ近づきすぎなかった。


 見えるものと、自分の距離を測る。


 それが今の自分に必要なこと。


 練習帳の最後に、一行を書き足す。


『呼ばれるものほど、私は一人で近づかない』


 ノアはその一文を見て、静かに頷いた。


「いいわ」


 アリシアは練習帳を閉じた。


 夜は深い。


 空白も深い。


 でも、その深さへ落ちるのではなく、縁に立って記録する。


 今の自分には、それができる最初の一歩なのだと思った。

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