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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第297話 古い箱の記録に残された、もう一つの番号


 翌朝、アリシアが目を覚ますと、窓の外には薄い雲が広がっていた。


 雨が降りそうなほど暗い空ではなかったが、昨日まで庭を明るく照らしていた日差しは柔らかくなり、石畳の上には木々の影が淡く落ちている。開けた窓から入り込む風には少し湿り気があり、遠くの森では鳥たちが朝の声を交わしていた。


 アリシアは寝台の中で身体を起こし、机の上へ視線を向けた。


 昨日、資料室で確認した受入記録について書き留めた帳面が、説明用紙と一緒に置かれている。


 古い六欄の目録は、現在の資料室へ収められた時、ほかの文書と同じ保管箱に入っていた。けれど、それ以前から同じ箱に保管されていたのか、移管のためにまとめられたのかは分かっていない。


 原分類名も未詳であり、目録の作成場所や本来の用途も確定していなかった。


 昨日は、その事実を知るだけで精いっぱいだった。


 今朝になって落ち着いて考えると、もう一つ気になることがある。


(……受け入れた時の記録が残っているなら、その前に使われていた番号も、どこかに残っているのかな)


 アリシアはそう考えたものの、すぐに帳面を開くことはしなかった。


 昨日、エレナ・ヴァイスから長時間文字を読み続けないように言われたことを覚えていたからだ。


 朝の身支度を整え、食事を取り、学院へ向かう準備をする。


 調べたいことがあるからといって、いつもの生活を後回しにする必要はない。


「珍しいな。今日は起きてすぐに紙へ飛びつかねえのか」


 寝台の足元で丸くなっていたノアが、片目を開けて言った。


 アリシアは振り返り、少しだけ頬を緩めた。


「……昨日、エレナ先生にも目を休めるように言われたから。朝ご飯を食べてから、少しだけ考えようと思って」


「ほう。人の忠告を翌日まで覚えていられるとは、立派な進歩だ」


「……ノア、それだと私がいつも忘れてるみたいだよ」


「忘れてるとは言ってねえ。気になることができると、ほかのことを後回しにしがちだと言ってるだけだ」


 ノアは悪びれる様子もなく伸びをし、寝台から床へ降りた。


 アリシアは小さく笑いながら立ち上がった。


 確かに、以前の自分なら、疑問が頭から離れなくなると、答えを見つけるまで落ち着かなかったかもしれない。


 今でも気になる気持ちはある。


 それでも、分からないことを抱えたまま朝食を取ることも、友人たちと授業を受けることもできるようになっていた。


 それは、思っていた以上に大きな変化だった。


     ◇


 学院へ向かう途中、アリシアは中庭の噴水のそばでフィオナと出会った。


 フィオナは薄い青色の表紙をした教科書を抱え、少し急ぎ足で歩いていたが、アリシアに気づくと足を緩めた。


「おはよう、アリシア。今日は少し曇っているわね」


「……おはよう、フィオナ。うん。でも、風が気持ちいいね」


 フィオナは微笑み、アリシアの隣へ並んだ。


 二人は石畳の道を歩きながら、今日の授業について話した。


 午前は魔力の流れを記録する基礎演習があり、午後には過去の事故報告を使った安全管理の講義が予定されている。


 フィオナは昨日の授業で使った記録用紙について、教師から返却された評価を気にしていた。


「私たちの班、確認したことと確認していないことは分けられていたけれど、引き継ぐ相手が誰なのかを書き忘れていたでしょう。今日はそこも意識したいの」


 アリシアは頷いた。


「……そうだね。次に読む人が分からないと、記録の目的も少し曖昧になるかもしれない」


 フィオナは少し驚いたようにアリシアを見た。


「昨日の資料室でも、似たようなことを考えた?」


「……うん。古い目録が、どうやって今の資料室へ来たのかを教えてもらったの。その途中で、誰が何を整理したのか分からなくなっている部分もあるんだって」


 アリシアは、昨日確認できた範囲だけを簡単に説明した。


 同じ保管箱に入っていたこと。


 原分類名が分からないこと。


 受け入れた時の分類が、資料の本来の用途を証明するわけではないこと。


 フィオナは最後まで聞き、少し考え込んだ。


「それなら、昔の人が間違えたとは限らないのね。途中で資料を受け取った人が、分かる範囲で整理しただけかもしれない」


「……うん。私も、そう思った」


 アリシアは歩きながら、鞄の肩紐を握り直した。


「……それでね、今日はもう一つ気になることがあるの。受入記録に、昔の番号が残っていないかなって」


 フィオナはすぐに答えず、アリシアの顔を見た。


「昔の番号?」


「……うん。今の資料室へ来た時に新しい番号が付いたなら、その前にも何か番号があったのかなって。でも、そういうものが残っているかどうかは分からないから、まず先生に聞いてみたいの」


 フィオナは穏やかに頷いた。


「いいと思う。ただ、今日は授業もあるから、無理をしないでね」


「……ありがとう。授業が終わってから、時間があれば相談するつもりだよ」


 二人はそう話しながら、教室へ向かった。


 廊下には学生たちの声が響き、窓際では当番の生徒が花瓶の水を替えていた。


 アリシアはその光景を眺めながら、今日もいつもどおりの学院生活が始まることに、小さな安心を覚えた。


     ◇


 午前の基礎演習では、五人一組で魔力の流れを観察し、担当者が交代した時の状態を記録する課題が行われた。


 使用するのは、学院で長く使われている標準的な訓練用魔導具だった。


 魔力を流すと内部の細い導線が淡く光り、流量が変化すると光の強さも変わる仕組みになっている。


 教師は演習を始める前に、安全確認の手順を説明した。


「今日は魔導具の性能を競うのではありません。担当者が交代しても、同じ条件で観察を続けられるように記録を残すことが目的です。無理に出力を上げる必要はありませんし、異常を感じた場合はすぐに停止してください」


 アリシアたちは頷き、それぞれの役割を決めた。


 最初の操作はエドガーが担当し、メリルが記録を取る。テオは時間を確認し、フィオナが安全状態を見守る。アリシアは全体の流れを確認しながら、必要な時に交代の記録を補うことになった。


 演習が始まると、魔導具の内部に細い光が灯った。


 エドガーは決められた範囲で魔力を流し、メリルがその変化を書き留める。


 テオは時計を確認し、一定の間隔で時刻を伝えた。


 フィオナは魔導具の表面温度や周囲の状態に注意を向け、異常がないことを確認していた。


 アリシアはその様子を見守りながら、記録用紙の空欄を確認した。


 担当者が交代する時刻。


 交代前の状態。


 交代後に確認した内容。


 昨日の授業で学んだことを思い出し、必要な項目が揃っているかを確かめる。


 やがて教師の合図で、操作担当がエドガーからテオへ交代した。


 エドガーは魔力の供給を止め、魔導具が安定した状態へ戻るのを待った。


 テオはその後で操作位置へ移動し、記録用紙を確認する。


「交代前の状態は、ここまででいいかな」


 テオが尋ねると、メリルは記録用紙を見直した。


「うん。出力は基準範囲内で、温度も変化なし。ただ、最後の確認時刻を書いておいた方がいいね」


 アリシアは頷き、時刻を記入した。


 その時、フィオナが小さく手を上げた。


「少し待って。交代後の最初の確認は、まだしていないわ」


 テオはすぐに操作を始めず、魔導具の状態をもう一度確かめた。


「そうだね。交代前の記録があるからって、今も同じとは限らない」


 エドガーはそのやり取りを見て、静かに頷いた。


「引き継いだ情報を信用することと、自分で確認することは別だな」


 アリシアは記録用紙へ視線を落とした。


 そこには、交代前の状態が丁寧に残されている。


 けれど、交代後の確認欄はまだ空白だった。


 その空白は、誰かが忘れたものではない。


 まだ確認していないから、書かれていないのだ。


 アリシアは少し考え、記録用紙の端に『交代後確認待ち』と書き加えた。


 フィオナがそれを見て、穏やかに微笑んだ。


「それなら、次に何をするのか分かりやすいわね」


 アリシアは小さく頷いた。


 演習はその後も落ち着いて進み、予定された範囲で終了した。


 魔導具に異常はなく、五人とも無理をすることなく課題を終えることができた。


 教師は提出された記録を確認し、交代時の情報が明確に残されている点を評価した。


 アリシアはその言葉を聞きながら、少しだけ胸を張った。


 以前の自分なら、誰かに言われたことを間違えずにこなすだけで精いっぱいだったかもしれない。


 今は、自分で必要だと思ったことを考え、仲間へ伝えられるようになっている。


 その変化は、特別な力を使わなくても感じられるものだった。


     ◇


 昼休み、五人はいつものように食堂へ集まった。


 今日は温かいスープと焼きたてのパンが用意されており、食堂の中には香ばしい匂いが広がっている。


 窓際の席では上級生たちが授業の課題について話しており、少し離れた場所では下級生が友人同士で笑い合っていた。


 アリシアは食事を始める前に、午前の演習で感じたことを話した。


「……交代後の確認欄が空いていた時、最初は書き忘れたのかなって思ったの。でも、まだ確認していないから空白だったんだよね」


 メリルはパンをちぎりながら頷いた。


「そうそう。空いてるからって、全部同じ理由とは限らないんだよね」


 テオは少し考え込んだ。


「でも、あとから記録だけ見た人には、書き忘れたのか、まだ確認していなかったのか分からないかもしれない。だから、確認待ちって書いたのはよかったと思う」


 エドガーも同意した。


「記録の空白には、少なくとも幾つかの可能性がある。未確認、記入漏れ、意図的な保留、それから記録そのものの欠損。どれなのか分からない時に、一つへ決めつけるのは危険だな」


 アリシアは静かに頷いた。


 その言葉を聞きながら、古い目録の六番目の欄を思い出した。


 あの空白が、どの理由によるものなのかは分からない。


 けれど、今日の演習では、空白の理由を記録することができた。


 その違いが、彼女には大切に思えた。


 フィオナはアリシアの表情を見て、少し微笑んだ。


「資料室のことを考えていた?」


 アリシアは少し照れたように頷いた。


「……うん。でも、授業のこともちゃんと考えてたよ」


「分かってるわ。今日の記録は、アリシアが気づいてくれた部分も多かったもの」


 メリルは嬉しそうに笑った。


「それに、こういうことってつながってるんだね。授業で覚えたことが、昔の資料を読む時にも役立つなんて」


 アリシアはその言葉に、少し安心した。


 六つ目の神器の謎を調べることと、学院で学ぶこと。


 以前は、その二つが別々のもののように感じられることもあった。


 けれど、今は少しずつつながっている。


 ただし、それは神器の研究を進めるためだけに授業を受けているという意味ではない。


 学院で学ぶことには、それ自体の大切さがある。


 アリシアはそのことを忘れないようにしながら、温かいスープを口へ運んだ。


     ◇


 午後の講義が終わると、アリシアはノアとともに資料室へ向かった。


 今日は昨日よりも少し早い時間だったため、室内には数人の学生が残っていた。


 公開展示の前では二人組の学生が古い地図を眺めており、窓際の机では上級生が資料を写している。


 アリシアは受付へ近づき、昨日と同じように相談を申し出た。


 しばらく待つと、エレナ・ヴァイスが奥の整理室から姿を見せた。


「こんにちは、アリシアさん。今日も資料について質問があるのですね」


 アリシアは丁寧に頭を下げた。


「……こんにちは。昨日はありがとうございました。今日は、受入記録に昔の番号が残っていないか、少し気になって来ました」


 エレナは静かに頷いた。


「以前の管理番号ですね。よいところに目を向けました。ただし、残っている場合と、残っていない場合があります」


 アリシアは頷き、案内された机へ腰を下ろした。


 ノアは足元へ座り、周囲を見渡している。


 エレナは昨日使用した受入記録の索引を取り出し、該当する資料番号を確認した。


「昨日見た目録については、現在の資料番号とは別に、受入時の整理番号が記されています。こちらですね」


 アリシアは示された欄へ視線を向けた。


 そこには、現在の分類記号とは異なる番号が書かれていた。


 ただし、それが目録の作成当時から使われていた番号なのかは分からない。


「……これは、昔の番号なんですか?」


「正確には、資料室へ移された時に使われていた整理番号です。さらに古い時代の番号かどうかは、別の記録が必要になります」


 エレナは慎重に説明した。


「古い資料を受け入れる際、箱ごとに番号を付け、その中の文書へ枝番号を振ることがあります。今回の番号も、その形式に近いものです」


 アリシアは番号の並びを見つめた。


 同じ箱に入っていたほかの文書にも、似た番号が付いている。


 最初の部分は共通しており、最後の数字だけが異なっていた。


「……同じ箱に入っていた資料だから、最初の番号が同じなんですね」


「その可能性が高いですね。ただし、番号を付けた時点が受入前なのか、受入作業中なのかは、記録からは確定できません」


 エレナは別の欄を指さした。


「ここに、整理担当者の記号が残っています。ただ、担当者の氏名を示すものではなく、当時の作業区分を表しているようです」


 アリシアは少し驚いた。


「……人の名前じゃないんですか?」


「ええ。古い管理記録では、担当者の名前ではなく、作業班や整理区分を記号で示すことがあります。今回もその可能性が高いと考えられていますが、対応表が残っていないため、正確な意味は分かっていません」


 アリシアは帳面へ書き留めた。


 番号が残っている。


 けれど、その番号がいつ付けられたのかは分からない。


 担当者らしい記号がある。


 けれど、それが誰を示すのかは分からない。


 新しい情報が増えるたびに、確かめられない部分も見えてくる。


 アリシアは少しだけ眉を寄せた。


 エレナはその表情を見て、穏やかに声をかけた。


「難しく感じますか?」


「……少し。でも、昨日よりも、何が分からないのかははっきりしてきた気がします」


 エレナは微笑んだ。


「それは大切なことです。古い資料を調べる時には、分からない部分を無理に埋めず、どこまで確認できたのかを残していく必要がありますから」


 アリシアは頷いた。


 そして、もう一度番号の並びを見つめた。


     ◇


 しばらくして、アリシアは一つの違いに気づいた。


 同じ保管箱に入っていた資料の番号は、ほとんどが連続している。


 けれど、その途中に、一つだけ使われていない番号があった。


 アリシアはすぐに何かを言おうとしたが、そこで言葉を止めた。


 番号が抜けている。


 ただ、それだけだ。


 その理由は、まだ何も分かっていない。


 彼女は一度息を整え、エレナへ視線を向けた。


「……先生、この番号の並びなんですけど」


 エレナはアリシアの指先を追った。


「はい。何か気づきましたか?」


「……ここだけ、番号が一つ飛んでいるように見えるんです。でも、これは本当に欠番なんでしょうか。それとも、別の資料があったんでしょうか」


 エレナは索引を確認し、少し考え込んだ。


「確かに、公開されている一覧では一つ番号が抜けていますね。ただし、番号が飛んでいる理由については、このページだけでは判断できません」


 アリシアは頷いた。


 エレナは別の冊子を取り出し、同じ整理番号の記載がないか調べ始めた。


 アリシアはその作業を静かに見守った。


 周囲では学生たちが資料をめくる音が続いている。


 窓の外では雲がゆっくり流れ、時折差し込む日差しが机の上を明るく照らした。


 やがてエレナは冊子を閉じ、アリシアへ顔を向けた。


「公開されている受入一覧には、該当する番号の資料は記載されていません。ただし、欠番として処理された記録も、ここには見当たりません」


 アリシアは少し考えた。


「……じゃあ、その番号に何かがあったかどうかも、分からないんですね」


「そうです。番号を付ける途中で飛ばした可能性もありますし、後から整理方法が変わった可能性もあります。別の資料が存在したと考えるには、まだ根拠が足りません」


 エレナは慎重に言葉を選んだ。


「もし気になるなら、同じ時期に整理された別の箱の記録を比較する方法があります。番号の付け方に同じ特徴があるかどうかを確かめれば、今回の並びが特別なのか、それとも一般的なものなのか考える材料になります」


 アリシアは静かに頷いた。


 六番目の空白。


 そして、受入記録の番号の抜け。


 その二つを結びつけたくなる気持ちが、胸の奥に小さく生まれていた。


 けれど、今はまだ何の関係も確認されていない。


 アリシアはその気持ちを自覚しながら、帳面へ書き留めた。


『受入一覧に一つ番号の抜けがある。ただし、欠番かどうか、資料が存在したかどうかは未確認。六欄の目録との関係も不明。』


 書き終えると、少しだけ肩の力が抜けた。


 ノアが足元から声をかけた。


「ちゃんと分けて書けたみたいだな」


 アリシアは小さく頷いた。


「……うん。気になるけど、まだ答えじゃないから」


 エレナはそのやり取りを見て、穏やかに微笑んだ。


「その姿勢なら、次の比較も落ち着いて進められると思います。ただし、今日はここまでにしておきましょう。短い時間でたくさんの資料を読むより、一つずつ確かめた方がよい場合もあります」


 アリシアは素直に頷いた。


「……はい。今日はありがとうございました」


 エレナは公開索引の利用方法をもう一度確認し、必要なら次回、同時期の別の受入記録を閲覧できることを伝えた。


 ただし、それは公開資料の範囲で行う比較であり、研究制限記録の閲覧や新しい実験とは別であることも説明した。


 アリシアはその違いを理解し、丁寧に礼を言って資料室を後にした。


     ◇


 資料室を出ると、廊下には夕方の光が差し込んでいた。


 アリシアは窓際で少し足を止め、鞄の中の帳面を確かめた。


 今日、新しく分かったことは多くない。


 受入時の整理番号が残っていたこと。


 同じ箱の資料には共通する番号が付いていたこと。


 その一覧の途中に、一つ番号の抜けがあること。


 けれど、それが何を意味するのかは分からない。


「どうした。まだ考えてるのか?」


 ノアが隣から尋ねた。


 アリシアは頷いた。


「……うん。でも、今日はもう調べないよ」


「そりゃ結構。で、何がそんなに気になるんだ?」


 アリシアは少し考えてから答えた。


「……番号が一つ抜けてるのを見た時、六番目の空白と関係があるんじゃないかって思っちゃったの」


 ノアは黙って聞いていた。


「……でも、数字が抜けてることと、名前が書かれていないことは別だよね。何も確かめてないのに、同じ理由だって考えたら駄目だと思って」


 ノアは少しだけ目を細めた。


「思いつくことまで禁止する必要はねえだろ。問題は、思いついたことを確かめもせず事実扱いすることだ」


 アリシアは顔を上げた。


「……そうなのかな」


「そうだろ。気になるから調べる。調べて違ったら考え直す。それでいいんじゃねえのか」


 ノアは歩き出しながら続けた。


「ただし、何でもかんでも六つ目の神器につなげようとしたら、俺が止めるぞ。お前の頭の中まで研究室にするつもりはねえからな」


 アリシアは思わず笑った。


「……うん。ありがとう、ノア」


 ノアは返事の代わりに尻尾を揺らした。


 二人は並んで生活観測区画へ向かった。


     ◇


 談話室へ戻ると、子供は昨日の三枚の絵を机の上に並べていた。


 家と庭の絵。


 森と川の絵。


 そして、その間に置かれた白い紙。


 昨日は何も描かれていなかった真ん中の紙に、今日は小さな線が一本だけ引かれていた。


 アリシアが近づくと、子供は嬉しそうに顔を上げた。


「アリシア、おかえり!」


「……ただいま。今日は、真ん中の紙に何か描いたんだね」


 子供は頷いた。


「うん。でも、まだ道じゃないの」


 アリシアは椅子へ腰を下ろし、紙を眺めた。


 線は短く、少し曲がっている。


 道にも見えるし、川の一部にも見える。


 けれど、子供はまだ何にするか決めていないようだった。


「……じゃあ、何になるか考えてるところ?」


「うん。最初は道にしようと思ったんだけど、描いてみたら小さな川にも見えたの。それで、どっちにしようかなって」


 子供は線の上を指でなぞり、楽しそうに笑った。


 アリシアはその様子を見守った。


 昨日、子供は何も描かないことを選んだ。


 今日は一本の線を描き、そこから何が生まれるか考えている。


 その変化は、誰かに指示されたものではなかった。


 子供自身が、昨日とは違うことをしてみたいと思った結果だった。


「……どっちにしても、楽しそうだね」


 アリシアが言うと、子供は大きく頷いた。


「うん! でもね、もし川にしたら、おうちから森まで行く時に橋が必要になるかもしれないでしょう?」


「……そうだね。橋があったら、向こうへ渡れるね」


「でも、橋を描かなくてもいいかもしれないの。川のこっち側で遊ぶ場所があってもいいし」


 アリシアは微笑んだ。


 子供は、自分でいろいろな可能性を考えている。


 どれか一つを選ばなければならないわけではない。


 今はまだ、選べる道が幾つもある。


 その時間を、子供は楽しんでいた。


 少し離れた場所では、顔のない存在が静かに過ごしていた。


 胸元の十一の光は安定しており、覆われた木箱にも変化はない。


 アリシアは一度だけそちらへ視線を向けたが、何かを読み取ろうとはしなかった。


 今、目の前にあるのは子供の絵と、子供が自分で選んでいる時間だ。


 それを大切にしたかった。


 やがて職員が近づき、子供へ声をかけた。


「今日は、その線を残しておきますか?」


 子供は少し考えた。


「うん。まだ何になるか決めてないけど、今日はこのままにする」


 職員は頷き、昨日と同じように紙の裏へ短い記録を残した。


 アリシアはその様子を見ながら、今日の資料室で見た番号の抜けを思い出した。


 古い記録では、番号が一つ飛んでいる理由が分からなかった。


 けれど、目の前の子供は、自分が何を決めていないのかを言葉にしている。


 その違いは、いつか誰かが絵を見返した時にも大切になるだろう。


 アリシアは子供へ微笑みかけた。


「……明日、どんなふうになるか楽しみだね」


 子供は嬉しそうに頷いた。


「うん! でも、明日も決められなかったら、またその次に考える!」


 アリシアは小さく笑った。


「……それでも、いいと思うよ」


     ◇


 夜、アリシアは自室で日記帳を開いた。


 窓の外では雲の切れ間から月が見え、庭の石畳を淡く照らしている。


 ノアは寝台の上で丸くなり、時折尻尾を揺らしていた。


 アリシアは今日の出来事を思い返しながら、ゆっくり筆を動かした。


『今日は資料室で、古い目録の受入時の整理番号を見せてもらった。同じ箱に入っていた資料には共通する番号が付いていたけれど、その途中に一つ番号の抜けがあった。』


『ただし、その番号が欠番なのか、何か別の資料があったのかは分からない。六番目の空白との関係も確認できていない。』


 そこまで書いて、アリシアは一度筆を止めた。


 今日、番号の抜けを見つけた時、胸の奥に小さな期待が生まれた。


 もしかしたら、失われた六人目につながる手がかりなのではないか。


 けれど、その期待だけで結論を出すことはできない。


 アリシアはその気持ちを否定せず、日記へ書き加えた。


『私は、何かが隠されているのかもしれないと思った。でも、それは私の想像であって、記録から確かめられた事実ではない。次に調べる時は、同じ時期の別の箱にも似た番号の抜けがあるか確認したい。』


 書き終えると、少しだけ心が落ち着いた。


 ノアが寝台から声をかけた。


「今日はずいぶん真面目な日記だな」


 アリシアは微笑んだ。


「……うん。でも、子供の絵のことも書くよ」


「そりゃいい。古い番号の話だけじゃ、寝る前まで頭が固くなりそうだからな」


 アリシアは小さく笑い、続きを書いた。


『子供は、昨日白いままにしていた紙へ、今日は一本の線を描いた。その線を道にするか川にするか、まだ決めていない。けれど、決めていないことを楽しんでいるようだった。』


『私も、分からないことを急いで埋めようとせず、確かめながら考えていきたい。』


 最後の一文を書き終えると、アリシアは筆を置いた。


 今日も、六つ目の神器の謎が解けたわけではない。


 失われた六人目の名前も、古い目録の空白の理由も、まだ分からない。


 けれど、資料がどのように整理されてきたのかを調べる中で、新しく確かめるべきことが見えてきた。


 それは、まだ答えではない。


 ただ、次にどこを見ればいいのかを考えるための、小さな手がかりだった。


 アリシアは日記帳を閉じ、机の引き出しへしまった。


 明日は、同じ時期に整理された別の保管箱の記録を比較できるかもしれない。


 その結果、番号の抜けが珍しいものではないと分かる可能性もある。


 あるいは、別の理由が見えてくるかもしれない。


 どちらであっても、確かめられたことを大切にしたい。


 アリシアは灯りを落とし、寝台へ入った。


 ノアはいつものように隣へ移動し、丸くなって目を閉じた。


 窓の外では夜風が木々の葉を揺らし、遠くの森から小さな虫の声が聞こえている。


 アリシアはその音を聞きながら、今日見た古い番号の並びを思い出した。


 そこには、一つだけ使われていない数字があった。


 けれど、その数字が何を意味するのかは、まだ分からない。


 今は、分からないままでいい。


 明日また、確かめられることから始めればいいのだから。


 そう考えると、胸の奥にあった小さな期待も、不安も、少しずつ静かになっていった。


 アリシアは穏やかな呼吸を続けながら、ゆっくりと眠りへ落ちていった。


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