明智光秀、運命の分岐点へ
初夏の湿った風が、明智光秀の頬を撫でていった。
山々の稜線は霞み、遠くで鳥の声が響く。
だが、光秀の胸中はその穏やかな景色とは裏腹に、重く沈んでいた。
秀吉への援軍として中国地方へ向かう道中。
その静寂を破るように、馬の蹄が土を蹴り上げる音が近づいてきた。
「光秀様ぁっ!!」
汗と埃にまみれた早馬が駆け込み、馬上から声を張り上げた。
「戦はほぼ終息しました! あとは毛利との調印を残すのみ!援軍は不要とのことで、急ぎ報告に参りました!」
光秀は眉をひそめた。
「……そうか。しかし、ここで引き返すわけにもいかぬ。信長様から、また叱責を受けてしまう」
「本日、信長様は本能寺にご滞在の予定。そちらにも報告に向かいます!」
早馬は再び馬を走らせ、本能寺の方角へと消えていった。
その背中を見送りながら、光秀はふと、胸の奥にざらつく感覚を覚えた。
(ここから本能寺までは馬で半日……往復なら一日。このまま足止めを食うより、直接本能寺へ向かった方が早いのではないか?)
秀吉のもとへ向かうにしても、信長と合流してからでも遅くはない。
むしろ、信長の判断を仰ぐのが筋だ。
だが――
(……いや、早馬の言う通りなら、援軍は不要。我らは引き返すことになるだろう)
そう考えた瞬間、光秀の胸に、言葉にできない“違和感”が生まれた。
それは、まるで誰かが背中を押しているような、あるいは、見えない手が運命の糸を引っ張っているような――
そんな感覚だった。
光秀は馬上で静かに息を吐いた。
「……進路を変える。本能寺へ向かう」
その一言で、明智勢の空気が揺れた。
家臣たちは驚きつつも、主の決断に従い、隊列を組み直す。
だが、光秀自身は気づいていなかった。
この“わずかな判断の揺らぎ”が、後の世に語り継がれる大事件の引き金となることを。
馬が進むたび、光秀の胸のざわつきは強まっていく。
(信長様は……本当に本能寺におられるのか?秀吉殿の戦は本当に終息したのか?早馬の報告は……真か、偽か?)
疑念が疑念を呼び、光秀の思考は渦を巻く。
ふと、信長の顔が脳裏に浮かんだ。
あの苛烈な叱責。
あの冷たい眼差し。
あの、容赦のない言葉。
(……わしは、信長様にとって何なのだ?)
忠臣か。
駒か。
それとも――使い捨ての道具か。
胸の奥に、黒い影が落ちた。
その影は、光秀の心を静かに侵食していく。
家臣の一人が声をかけた。
「殿……本能寺へ向かわれるのは、何かお考えが?」
「……いや。確認を取るだけだ」
光秀はそう答えたが、自分でもその言葉に確信が持てなかった。
馬の蹄が土を叩く音が、妙に大きく響く。
まるで、運命の鼓動のように。
この時の光秀はまだ知らない。
この“進路変更”が、後世に語り継がれる「本能寺の変」へとつながる第一歩であることを。
そして――
その運命の渦の中に、俺(大和尚輝)も巻き込まれていくことを。




