03_黒猫(3)
幼い頃、その日わたしは、村外れの道端にある石の上に腰かけているひとりの老人を見かけた。
白くて長いひげを蓄えたその老人は、眠っているのか目を閉じ、微動だにしない。
すると、カツンッと音がして見れば、老人の足元に一本の白い杖が倒れている。
歩くときに体重を支えるための杖だが、どうやら座っている石に立てかけていたものが倒れたようだった。
しばらく待ってみても、老人は起きる気配がなかったので、わたしは静かに近づいて、その杖を拾い上げる。
白樺でできた杖は、するりと滑らかで、とても触り心地がよかった。
老人を起こさないように、老人の腕に杖をそっと立てかけておく。
そうして、ゆっくりとその場を離れようとしたとき、
「──ああ、これはすまんの、ありがとう、お嬢ちゃん」
いつの間にか目を開けた老人が、わたしを見ていた。
わたしは驚きのあまり飛び跳ねる。
老人はほっほっほと笑いながら、しわくちゃの手でわたしを手招きする。
わたしは、おずおずと前に出る。
老人はじっとわたしを見つめたあとで、そっと手を伸ばし、わたしの額に手を当てる。
その瞬間、なぜかとてもあたたかく感じ、一瞬淡く光ったようにも見えた。
「ふむ、ふむ、なるほどな」
老人は、何やら独り言のようにつぶやく。
わたしはわけがわからず、ただ目をぱちくりさせる。
ややあってから、老人は、
「お嬢ちゃん、魔塔に入る気はあるかの?」
と言った。
「まとう……?」
聞いたことのない言葉に、わたしは首を傾げる。
それが何を意味するかすらわからないのに、なぜかとても惹かれる気がした。
「そう、お嬢ちゃんのような魔力持ちが大勢いる。みな、魔術の研究をしているんじゃ」
「まりょく、もち……?」
「ああ、そうか、それも知らんか。まあ、いずれ、わかるじゃろう」
老人はゆったりと微笑む。
しかし、すっと真剣な表情を見せ、
「──ただし、魔塔に入るにはいまの生活のすべてとお別れしなければいかん」
とたんにわたしは不安になり、訊き返す。
「……お母さん、とも?」
老人は言いにくそうに、
「そうなるの」
と一言だけ言った。
わたしは、小さく首を左右に振る。
老人の言葉の意味はよくわからなかったが、大好きな母と別れるほど悲しいものはない。母もわたしがいなくなれば、きっと悲しむ。
老人はやさしく微笑むと、
「そうか。なら、いつかまた考えが変わったら、魔塔を訪ねるといい。いつでも歓迎するぞ」
わたしは意味がわからず、ただじっと老人を見つめる。
そのとき、シュルリ──、と何かが動く音がした。
音がしたほうを見れば、ただの白い杖だと思っていたものが白いヘビに変わり、老人の腕に巻きついていた。
驚きのあまり、わたしは目を大きく見開く。
白いヘビはまるであいさつでもするように、ゆらゆらと尻尾の先を揺らす。
「その杖──」
わたしが老人に話しかけようとしたとき、さっと一陣の風が吹き、次にまぶたを開いたときには、老人の姿はどこにもなかった。
まるで夢でも見ていたかの出来事に、わたしはしばらくその場で呆然としていた。
家に帰ってからもその不思議な出来事が忘れられず、母に話そうとしたが、わたしが母のそばからいなくなるかもしれない心配はかけたくなくて、老人の杖を拾ってあげたとだけ伝えた。
すると母は微笑んで、
「そう、偉いわね」
と言って、わたしの頭をなでて、額にキスを落としてくれた──。
母のことを思い出したせいで、わたしは無性に母が恋しくなった。
エバンをぎゅっと抱きしめる。
漆黒の毛並みに頬を寄せたあと、その丸い額にそっとキスをする。
その瞬間、じんわりとあたたかくなった気がした。
エバンは、金色の瞳をわたしに向けている。
わたしはにっこりと微笑む。
「ただの平民の娘よりも、仮でも伯爵家の娘としていられるいまの立場のほうが、魔塔に関する情報を得やすいはずだもの。それに過去を変えるには、あの人たちの動きを把握しておく必要もあるし。そのためには……」
わたしは死に戻る前の出来事を思い出しながら、考えを巡らせた。