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03_黒猫(1)

「ごめんなさい、まだ気分が優れなくて……」


 翌朝、わたしはベッドの上で上半身だけ起こした状態で口元に手を当て、わたしを起こしに部屋に入ってきたメイドに申し訳なさげに告げる。


 メイドは一瞬顔をしかめたが、構わず続ける。


「お父さまとお義母さま、お義姉さまとの朝食よね。でもどうしても食べられる気がしないの、申し訳ありませんと伝えてもらえないかしら?」


「……かしこまりました」


 けっして納得したようには見えない険しい表情でメイドはそう言うと、部屋から出ていった。


 部屋から遠ざかる足音が聞こえなくなったあとで、わたしは何事もなかったかのようにベッドから起き上がる。


 部屋に備えつけられている衣裳部屋を覗き、簡素なドレスを手に取ると、手早く着替える。


 昨晩から何も食べていないため、お腹はかなり空いているが、あの三人と食事をする気にはなれない。


 それに、いやでも今日の晩餐には参加しなければならないだろう。


 あの人たちは、このあとの計画を滞りなく進めるためにも、本当に家族として迎え入れたとわたしに信じ込ませる必要があるのだから。


「……まずは、これからのことを考えなきゃ。でもひとまず、あのメイドには少しは軽んじられない態度は取れたかしら」


 わたしの世話をするように指示されているのは、昨日この部屋にわたしを案内し、今朝部屋に来た先ほどのメイドひとりだけだ。


 死に戻る前のわたしは誰かに世話をされる経験などなかったため、始終恐縮した態度を取っていたせいで、早い段階からメイドには軽んじられるようになった。あからさまに父や義母、義姉の態度が変わり、いまの客室から屋根裏部屋へと部屋が移されたあとは、屋敷の中では使用人以下の存在として扱われた。


 使用人たちから、庶子のくせにと陰で嘲笑されていたうちはまだいいほうで、そのうち堂々と悪口を言われるようになってからは、食事に虫を入れられたり、食器をわざと床に落とされたり、掃除や洗濯、不要な雑用を言いつけられたりするのが日常茶飯事になった。


 使用人たちにしてみれば、元メイドの母が生んだ庶子のわたしがこの屋敷の娘として居座るのは許しがたいことだったのだろう。


 でも過去と同じように、また使用人たちからいやがらせを受ける事態になるのは避けたかった。


「とりあえず、言葉遣いはあんな感じでいいかしら」


 母はメイドとして貴族の屋敷に勤めていた経験からなのか、平民にもかかわらず読み書きもできた上、ある程度の言葉遣いやマナーが身についていた。


 母はわたしが生まれる前の話はあまり話したがらなかったが、いま思えば、このウィルクス伯爵家以外の貴族の屋敷でも働いたことがあったのかもしれない。自分が働きながら得た経験や知識を、わたしがいずれ働きに出る年齢になったとき、働き口に困らないようにと読み書きだけでなく、言葉遣いやマナー、邸宅ごとに違う注意事項などさまざまなことを日常生活の中で教えてくれた。


(まさかそれがこんな形で役に立つとは思いもしなかったけど……)


 もう会うことができない母を思い出し、鼻の奥がツンとして、涙がじわりとあふれそうになる。


 ぐっと堪え、首をぶんぶんと左右に振る。


 はあー、と息を深く吐き出すと、わたしはソファに腰を下ろす。


 すると、さわりっと何かが足元をかすめた気がした。


 思わず立ち上がる。


 四つんばいにしゃがみ込むと、ソファの下を恐る恐る覗き込む。


 暗闇の中で、キラリと何かがふたつ光った気がした。


「……猫?」


 すると、するりとソファの下から、一匹の猫が這い出てきた。


 薄汚れているのか、なんだか輪郭がひどくぼんやりして見える猫だった。


「……黒猫? どこから入ってきたの?」


 室内を見回し、ガラス窓を確認するも、鍵は閉まっていた。


「メイドと一緒に入ってきた、とか……? でも、この屋敷で猫を飼ってたなんて話、過去でも聞いたことないわ……」


 わたしが考えている間にも、黒猫はわたしの足元にすり寄ってくる。


 ずいぶん人懐こい猫だ。


「迷い猫、かしら……?」


 首輪はしていないものの、ガリガリにやせ細ってはいない。


 どこかの飼い猫が屋敷に迷い込んで来たのだろうか。


 それにしても……。


 わたしは、じっと黒猫を見下ろす。


 黒猫はピタリと足を止め、じっとわたしを見上げる。


 漆黒の毛並みに、満月を思わせる吸い込まれそうな金色の瞳──。


「……エバン?」


 なぜか、ふいに言葉が口をついて出た。


 すると、黒猫はピクンッと耳を立てる。


 しばらくしたあとで、


「ニャー」


 とひと鳴きし、目を細めた。


 わたしはふふふっと、頬をゆるめる。


「ああ、お前、似てるのね。エバンに……」


 幼い頃、村の孤児院にいた少年を思い出す。


 少しくせのある黒髪に、この黒猫と同じくきれいな金色の瞳をしていた。


 ぶっきらぼうで口が悪くて、面倒くさいと言いながらも、いつもわたしを助けてくれた。


 わたしは無意識に手を伸ばし、前髪の上から自分の額に指先を当てる。


 前髪に隠れているが、額の左側、そこには小さな傷がある。


 はっきりと思い出せないが、村の近くにある山の中で原因不明の嵐が起きたことがあった。


 まるで、猛烈な嵐が巻き起こったかのように木々がなぎ倒され、あたり一面はぽっかりと穴でも開いたように、その周辺だけがなにもなくなっていたのだ。


 わたしはその嵐に巻き込まれたものの、奇跡的に助かったらしいが、その際に負ったと思われる額の傷は完治せず、こうして小さな傷跡として残ったままだ。


 この傷を負ったとき、母は『女の子なのに傷が残ってしまって……』とわたし以上に悲しんだ。


 適切な治療を受けられれば跡が残らずに済んだらしいのだが、その日その日を生き抜くだけで精いっぱいのわたしたち母娘にそんな余裕はなかった。


 でもそれでよかったと、わたしは思っている。


 前髪に隠れる程度の小さな傷のために、母が無理をすることだけは避けたかったから。


 そして、傷以上にわたしが悲しかったのは、その日を境にエバンがわたしの前からいなくなったことだった。


 嵐に巻き込まれたわたしは、三日三晩うなされ、一時は命も危うかったそうだ。


 それでもなんとか回復し、歩けるようになってから孤児院を訪ねてみると、エバンが忽然といなくなっていたのだ。


 もしやわたしと同じように嵐に巻き込まれたのではと、心配した孤児院の院長や孤児院の子どもたち総出で数日間ずっとエバンを探すものの、手がかりすら見つからなかった。


 わたしは体力が回復したあと、森の中を探して回ったが、結局なにも見つけられなかった。


 あとでわかったことだが、ほかにもあの嵐に巻き込まれたと思しき若者が数名いたようだった。しかし、いずれも森の外で倒れており、突然とてつもない突風が起こった以外、何があったのか覚えていないという。


 まるで、あの嵐がエバンだけを連れ去ったかのようだった──。


 それでも、どこかで生きていてくれればいい。


 そう願いながらも、何も言えないまま別れてしまった現実をわたしは受け入れられず、いつしか記憶にふたをして思い出さないようにしていた。


 わたしは、足元の黒猫をそっと抱き上げる。


 数度なでてやると、少しだけ毛艶がよくなったのか、先ほどよりもぼんやりした印象が薄れた気がした。


 黒猫はゴロゴロと喉を鳴らす。


 それがうれしくて、


「ふふ、あなたの名はエバンよ、いい名でしょう?」


 迷い猫かもしれないのにという思いが頭をよぎったが、誰ひとり味方のいないこの広い屋敷の中で、少しでも心を許せる相手がいると思うと、それだけで救われるような気がした。



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