09_エバン(3)
それからの二年は、あっという間だった。
じじいの見立てで四年かかるところを、二年でやり遂げようとしているのだから、生半可なものではなかった。
それでも、ステアに会えるという希望が俺をかり立てる。
「急にやる気を出したのは、そういうことでしたか」
そう言ったのは、魔塔のあるじの右腕にあたる”魔塔の管理人”だ。
俺が魔塔に連れてこられる数年前に、この男に代替わりしたと聞いている。
椅子に腰かけている管理人は、片眼鏡をくいっと指先で持ち上げたあと、静かに本を閉じ、こちらを見た。
「あなたは権力や立場などそういうものを欲しなさそうなのに、どうして魔塔のあるじになりたがるのか気になっていました」
俺は細長いガラス瓶に入っている青色の液体を、黄色の液体が入っている別の丸いガラス瓶に注ぎ入れる。さっと色が変わり、虹色に輝く。それを観察しながら、羽ペンを走らせ、手元の筆記帳に細かく記録していく。
俺は顔も上げず、
「ああ、だから悪いな。本来なら、魔塔の管理人のあんたが次の魔塔のあるじになる可能性が一番高かったのに」
管理人は、くくっと喉を鳴らす。感情をあまり表に出さない管理人にはめずらしいことだった。
俺はちらりと顔を上げ、管理人に目を向ける。
「それは気にしていません。そもそも私が魔塔の管理人の立場を得たのも、道端に落ちていた四葉のクローバーを偶然拾っただけのようなものですから」
管理人は淡々と言う。表情はそれが本心であると物語っていた。
管理人は俺のことを権力や立場を欲しないと評したが、この男のほうこそ、研究の邪魔だと言って辞退しそうだった。
詳しいことは知らないが、管理人が代替わりしたのは、先代の管理人が何か不祥事をやらかして魔塔を追い出されたからだと噂では聞いている。
それでも、いまの魔塔に所属している魔術師たちの力量を見れば、じじいの次に実力があるのはこの男だとわかる。
(まあ、それでも魔塔のあるじを譲るつもりはないけどな……)
しかしそこで、ふと気になった。
「……あんたにはいないのか? 会いたいやつは」
管理人はふっと微笑む。管理人の微笑みまで目にするなど、今日はつくづくめずらしいこと続きだ。
「ええ、いますよ」
俺は驚く。いないと決めつけていたからだ。
「妻と娘です。でも妻はもうこの世にはいないでしょう。娘は私の年をもうとっくに追い抜いているでしょうね。どちらも私にとって、かけがえのない大切な人たちです」
「大切──?」
俺の手がぴたりと止まる。
思わず、訊き返していた。
管理人は、にこりと笑い、
「エバン、つまりその少女は、あなたにとってとても大切な人だということなんですね」
管理人は続けて言う。
「大切な人は、好きな人、とも言いますね」
俺の握っていた羽ペンの先が盛大に折れる。
管理人はくすくすと笑いながら、意味深な目をこちらに向けていたが、言い返す言葉が何も出てこなかった。
そのときはじめて、俺はステアへのこの感情がなんなのかを自覚した──。
***
「まさか本当に二年で成し遂げるとはの。もうお前さんに教えることはないじゃろう。これでわしもようやくのんびりできる」
俺が魔塔のあるじを正式に引き継いだとき、じじいはあっけらかんと言った。
「いつからだ」
俺はじじいの言葉には構わず、訊く。
じじいはとぼけたように、
「はて、いつからとは?」
「しらばっくれんな! いつから外界と行き来してもいいんだ?」
「ああ、そうじゃな。なんなら、いまからにするか?」
「──はっ?」
「ほら、さっさと行ってこい」
じじいは追い払うように手を振る。
俺はすぐさま、魔塔をあとにした。
風の魔術を使い、かつて住んでいた孤児院がある村へと向かう。
(やっとステアに会える──)
しかし、そう思って訪ねた先のステアの家には、まったく別の家族が住んでいた。
訊けば、一年ほど前にステアの母が亡くなり、その後、ステアもどこかに引き取られたのだろうということだった。
もしかすると孤児院の院長なら知っているのではと思ったが、俺はあの出来事で行方不明になっているはずだった。
外界との行き来を許されたとはいえ、余計な混乱は避けなければいけない。
姿を偽り確認したが、院長もステアの詳しい行き先は知らないようだった。
それからというもの、俺は時間が許す限り外界へ行って、ステアを探した。
しかし、どれだけ探しても見つからない。
国中くまなく探したあとで、もう一度孤児院がある村へと足を運んだ。
そこで、ふと孤児院のそばにある教会が気になった。
教会から少し外れたところにある共同墓地を見て回る。
すると、共同墓地に並ぶ暗灰色の墓標のひとつに、覚えのある名前を見つける。
「……メリンダ」
ステアの母の名だった。
俺は教会へと向かう。
礼拝堂の中はやけにしんとしており、礼拝者はひとりもいなかった。
司祭を探そうと歩き出したとき、異質な気配がして、はっと後ろを振り返る。
礼拝堂の奥から、禍々しい気配が漂っていた。
隠された階段を下り、異質な気配を追っていくと、地下の空間にたどり着く。
通路の向こう側からは、赤黒い光が漏れていた。
魔術に思えたが、あまりにも禍々しかった。
そっと中を覗くと、白いローブの男が数人立っていて、聞き慣れない呪文を唱え、石の床の上に線と文字で構成された魔法陣を赤く発光させていた。
その魔法陣の中には、ひとりの少女が力なく横たわっている。
少女の体から抜け出た魔力が、かたわらに置かれている小さな赤い石に吸い込まれていく。
(まさか、魔力が取り出されているのか──?)
俺は表情を険しくさせる。
そんな術は確立されていないはずだが、もし可能だとすれば、魔術師しかいない。
しかし、魔法陣を出現させている男が身にまとっているのは、教会に所属する者を示す白いローブだ。
魔術師なら、金の刺繍が入った黒いローブを身につける。黒と金は古の魔術師を表す色だからだ。
「──さようなら、ステア」
そう言って、魔法陣のすぐ横に立つ銀髪の女が嘲笑した。
その瞬間、俺は我を忘れた。
(ステア──?)
急いで駆け寄る。
魔法陣を消し、横たわる少女を抱き寄せる。ひどくやせ細っていた。
薄闇でよく見えなかったが、ぼんやりと浮かび上がる少女の髪の毛は、少しだけ陽の差す冬の空みたいな落ち着いた銀髪──。
まぶたがきつく閉じられているせいで、やさしげなチェリーブラウンの瞳は見えない。
それでも、少女がまとう気配に覚えがあった。
これが魔力だと気づいたのは、魔塔に入ったあとだ。
(──ステアだ)
俺は、ステアの手を握りしめる。
指先は凍えるように冷たかった。
(くそっ──! このままじゃもたない)
本能でそれを悟る。
考えている余裕はなかった。
俺は自分の魔力をすべて使い、時間を巻き戻す術を発動した。
一年前に偶然思いつき、風の魔術を組み合わせることで理論上は可能だというところまでは編み出したものの、時間をゆがめる禁忌だけにそれ以上は手を出さないようにしていた。
成功する確率は限りなく低い。
それでも考えるよりも先に、俺はすべての魔力を解放していた──。