050.エディとヘリンの美味しいご飯
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朝は、拍子抜けする。
なあんだ、という気になる。
それは夢を見ていても、見ていなくても。
「ヘリンさま、朝ご飯です。冷めないうちに下りてきてください」
これまた、なあんだなエディの声。ベッドのあちら側。階下から。はだけた毛布をかき抱いて、ちょっとの間だけ、眠っていた頃に戻りたいと願う。唾液に塗れた自分の親指をぼんやりと眺める。窓から差しこむ朝の陽が生々しくその表面を照らした。
もう甘くないんだな。
唾液で指先の唾液を舐めとって、そう思う。
エディったら、なんで意地悪するのかしら。
思い切り突き伸ばした足で、毛布がベッドからなだれ落ちる。きらきらと塵が舞い、舞い、ふうっと息を吐いてやると、また舞った。
エディが階段を昇ってくる音に、私は大慌てでベッドから体を起こした。部屋の空気や塵たちも、ほんのちょっとだけ淑やかだったのを忘れて、にわかに散らばりだす。ええっと、スリッパは……ナイトキャップは? ああ、もう。夜脱ぎ捨てたままだった。スリッパになんとか手を伸ばして、バランスを崩す。
と、
と、
「ヘリンさま」
部屋の扉が乱暴に開く音で聞こえなかったら良いな。
なんて。
扉から私をあきれ顔で見つめるエディは、なんでかな、いつもと違って逆立ちをしていた。逆立ちで階段を昇ったり部屋まで来たりってことには驚かないけれど、すごいな、元ヨウヘイだと手すら使わずに逆立ちできるなんて。
「おはよう、エディ」
「相変わらずそそっかしいですね。朝ご飯ですよ」
「わかってる」
「下りてきてください」
「……はい」
エディはちょっと辺りに視線を巡らせて(誰か入りこんじゃいないかって確かめてるんだ)、入ってきたときと同じ顔のままで廊下へ出ていった。
……助けてよ。
さらりとした絨毯が首筋をなぞる。猫のように体をねじって、ようやく私は体を起こした。
「っぷぅ」
なんとなく右に傾いた頭の中を均すように、左脚でトントンとジャンプする。下に行くためのおまじないみたいなもの。気分的な意味で。
だってエディの朝ご飯よ?
今までどれだけひどいものを食べさせられてきたかって、あー……思いだしたくもない。じわじわとよだれが染みだしてくるのも良い迷惑だ。私が世界一の食いしん坊みたいじゃない。
ぶつくさ言いながら、ぼさぼさに跳ね放題の髪を両手で押さえて階段を下りる。
「……ウソでしょ、ほんと」
食卓の上で控えめな湯気を立てて私を迎えるは。
蝶々に、玉虫に……ミミズ!?
◇
私たちの住むお屋敷は森の中に一軒ポツンと立っている。周りの森は重たげなカーテンのように折り重なってお屋敷を守る。建てるときにはきっと大勢の人が行き来しただろう道も今では見る影もなく、茂った草に覆い隠されている。壁に絡みついた草木もあって、少し離れてしまえばそう簡単には見つからないだろう。
「まるで隠れ家みたい」
実際に私がそう言ったかは覚えていないけれど、お屋敷にはずっとそんな印象があった。
亡国のお姫様が逃げ延びたアジトだったり、愛し合った男女の駆け落ち先だったり? だとしたら、エディは私の運命の王子様ってことになる。……どうかな、エディはにべもなく否定するだろうけど。
ただ『隠れ家みたい』っていう方には、きっと同意してくれるんじゃないかな。
……もしかして、さんざヘンなものを食べさせてくるのもそれが理由?
「隠れてる身分なのに、贅沢なものなんて食べてられないって?」
森はお屋敷の中とは違ってどこまでも続いている。
私の独り言は、例えばお風呂の中みたいに渦巻くこともないし、食卓みたいにお皿からお皿に響いてわたることもない。
私の独り言は、すぐに葉のざわめきに混じりあって元からなかったみたいに消える。私はそれを森が受けとめてくれているみたいだと思う。
だから私にとってはこの森が話し相手なんだ。
エディは私がご飯を食べ終わるとすぐ次のご飯の材料調達のために家からいなくなってしまうし、たまに戻ってきたと思っても厨房の奥でうんうんうなっているか、書斎で難しい顔をしてどこかと電話をするくらい。
だからエディの代わりに、森に話を聞いてもらうの。今日だって話したいことがたくさんある。
たくさん……。
え。
っえ。
奥歯の辺りがべっとりと粘ついた気がして、漏れでる嘔吐きに身を任せる。
え。ぇー。
どこか乾いた喉の奥は、しかし何も吐きだすこともなく元通りに収まる。
それもそうだ。だって、エディの作る料理を吐きだしてしまいたいなんて、思ったことないんだもの。
蝶々のソテー。
玉虫のウサギ肉詰め。
ミミズのパスタ。
食後に勧められた蜘蛛の巣ティーだって、三杯もおかわりしちゃった。
そ。美味しいの。
逆に私は『マズい』料理って、この森のお屋敷にやってきてからの十年間、食べたことないんだけどね。
……うらやましい?
もう全然。うらやましくなんてないって。
昔はあんなに気持ち悪いと思ってた虫とか、木の枝の上を走りまわる小動物を見てまず最初に出てくるのが『美味しそう』になっちゃうんだもん。
ほんっと、考えらんない。
近くに茂っていた草を蹴り上げると、一匹のバッタが弾かれるように跳んでいく。私は慌てて目をそらしながら、視線を上にやる。リスとか鳥に視線が合ってもいけないからずっと上、葉っぱの隙間から覗く空を見上げる。
空の青が筒のように世界に降る。
数秒それを見つめて、私はお屋敷ヘの道をとって返そうとして──すん──なんだろう、頭の辺りに感じる甘い感じに周囲を見渡す。しゃっくりみたいに震えるおでこに突き動かされるように、私はその甘い感じを求めてふらふらと歩きだした。
何、何……?
何の花だろう、と思う。こんな感じ、今までなかったけど。
目を閉じて、その花の感覚に集中する。自然、呼吸も止まる。
木の表面を両手で撫でながら、瞼の内側の暗闇を進む。雲のようにゆっくりと、流されるように木から木へ、手を伸ばす。
甘い、甘い、甘あい感じ。きっととっても相性が良いんだ。
誘われるままに歩いていき、ようやくというところで目を開けてみる。
あっ、あった。
木の上に控えめに咲いた黄色と緑の(勿論、真ん中が緑)小さい花がちらちらと風に揺れていた。私の背丈の二倍三倍もある高さだったので、手を伸ばしたくらいじゃ花には届かない。
私は節に洋服をひっかけないように気を付けながら木の表面に手をかけた。
ゴツゴツとした表面を機械のように柔らかく撫でる。
力を入れて、枝分かれした幹に足をかける。そのまま滑らないように丁寧に手をかけながら、木を登る。登るって言っても、ちょっとだけね。
片方の手を幹に貼りつけて、伸ばした手でどうにか花の枝を折り取る。
「っんしょ」
ゆっくりと木から下りてきて、ふうっと息を吐く。
右手に持った枝先、まばらに咲いた花にキスをした。
◇
エディのことはよくわからないけど、それでも全部よくわからないってわけじゃない。
だから多分なんだけど、毎日美味しいご飯を作ってくれるのは、私が汚れてしまわないようになんじゃないかと思う。
私はリスの肉団子を頬張りながら(とまらないほど美味しい)そんなことを考えた。
汚れるっていうのは、ほら、マズいものってほとんど食べたことがないからわからないんだけど、嫌な気持ちみたいなものに包まれるってことじゃないかな。
私はスズメのシチューをすすりながら(とまらないって、涙がね)そんなことを考えた。
嫌な気持ちっていうのは、マズいっていうそれそのものじゃなくて、もっとふわふわしてて、私たちの目からは隠れているもの。だから言葉では説明しづらい。
私はヤナギの葉のゼリーに唸る。
そういう部分でエディとわかりあえていると思えるのは、私にとって欠かせない大切なことだった。
でもだからこそ、エディのことがよくわからないとき、私は沈んだ気分になる。
どうして、虫とか小動物とか、葉っぱとか、木の根っことか、この森のものばかり食べさせるの、とか。
どうして私が森から出ていくのをそんなに強く止めるの、とか。
どうして──そんな、もしものことがあったら──なんて言うの、とか。
私は自分に、森に聞いてみる。
独り言を聞いてもらう。
エディと、私と、この森。
家族に言葉をつなぐ。
それがもう自然になっていたし──だから、今日も自然にいつも通り、私は木々の間で一人話していた。
────。
そんな私の耳が、無意識に何かをとらえた。
何だろう、この音。たくさんで、不揃いな音。こんな音、この森の中には無いはずなのに。
リスのように体を縮めて、耳を澄ます。
土を踏みしめる音。金属の擦れあう音もそこに混じっている。
なんだろう──草陰に隠れながら、私はそのままその音に集中する。……人だ。人の足音だ。私のでも、エディのでもない、人の足音。人の声も聞こえた。目をつむる。やたらに茂った木のせいであっちへ行ったり、こっちへ行ったりしながらだけど、かろうじて聞き取れる。
「ここに例の──」「やっと国のために──」「──疫学到達体が──」「見えてこねえが──」「もうすぐだって」「──おい、タマこめとけよ」「──おいッ! お前──」
その瞬間、私の暗闇を何重もの白が押し流していった。
──。
────。
うるさくて。
うるさくて、耳を塞いでしまったんだということに、かなり経ってから気付いた。
草の陰で縮こまった私の鼻に、体がふくらむようなほこりっぽい空気がやってくる。慌てて咳き込んで目を開けると、さっきまでの緑はもうなかった。
森が燃えている。
頭で理解するのと走りだすのが同時だった。どこへかって、この森で向かう場所があるとしたら一つしかない。体の覚えているお屋敷の方へ向けて、腕をバタバタと羽ばたかせながら向かう。必死だった。
何かを考えるよりも先に体が動いて、体の動きで思考はぼやけていった。
ひきつるように吸う煙が熱い。一息呼吸する度に二度、三度、咳き込む。涙が目尻に溢れた。
ようやくたどり着いたお屋敷は、森と同じように燃えていた。
なんで、とか、やっぱり、とか、そんなこと心で考えるまですらもなかった。それはずっと前、私がここにやってくるよりも前からこの時のために用意されていた、答えというよりもずっと当たり前みたいな顔をして、その赤くたぎる炎で私の頬を焼いた。
だからそんなことを考える代わりに、私はエディの姿を探した。
父さんでも料理人でもヨウヘイでもない、何と言えばいいのかわからない。少なくともこれが彼の呼称で、今の私はその彼を探していた。エディ。
エディ。
探しても、姿はなかった。
この森に、私以外の生き物がいなくなってしまった。
さっき耳にした人間たちの声も、足音も聞き取れない。この炎に巻き込まれたか。エディがどうにかしてしまったのか。
煙で鼻も利かない、焼け落ちる木に耳も利かない今の私にとってはそんなこと知ったことではなかった。
探しても、姿はなかった。
あのどうしようもなく素敵な料理をしかたなく美味しそうに頬張る私を優しげに見つめる目。
私のためを思って味見する口。しかる口。
どれだけ練習しても全く敵わなかったかけっこの足。
どれもない。
あるのは、だから、私のために料理を作って、ほんのたまに撫でてくれて、昔は色々なものを守るために使われた、そして今だって、私を守るためだけにここに残ったであろう、左腕だけだった。
エディの左腕はお屋敷のすぐ裏手に落ちていた。
誰のかもわからない血に塗れている。
私は慌ててお屋敷の火からかばうようにその左腕を抱きかかえて森の外へと向けて駆けだした。
焼け落ちる木の隙間を縫うようにして、必死に走り抜ける。
いつしか日は暮れ、夜になった。
森の火は衰えることなく、徐々にではあるけれど、その全体に広がっていった。
抱きかかえていたエディの腕を見る。
それは血が抜け落ちて、色を失って、段々とエディのものじゃなくなっていくように見えた。それはエディから段々と離れていっていた。
────。
ねえ、エディ。
なんであんなこと言ったのかなんてもう聞かない。
あなたのこと、わからなくてもいい。
いいから。
言いつけ、守るから。
から──。
から、のその先を思いつかないままに私はその腕にかじりつく。
腕は、鍛えていたエディのことだ、ただ固いばかりのような筋肉に囲まれて、焼け落ちる全てから吸った煙が血の代わりに巡っていて、あるいは表面に着いた穢れた赤が鉄のように舌に障る。しなやかに動いていた指先は動物の骨みたいにかりかりと口の中を引っ掻いて、そんなことないよね、エディ、まるで私に食べられたくないみたいに抗った。
食べていて、嬉しい以外の涙が出た。
食べていて、もっと食べたいと思えない。
食べていて、すぐに吐きだしたいと思ってしまう。
その食事は、これまでで一番マズかった。
◇
拍子抜けの朝は、それでもやってくる。
目を覚まして。
そこがお屋敷のベッドでもなければ、朝ご飯に呼ぶエディの声もないことに気付く。
なあんだ。
夢だったりしたら良かったのにな。
もたれかかっていた木の幹は、かろうじて火の手の届かないところで、だから、昨日の夜の炎がどれほどまでに広がって、森がどれほどまでに欠けてしまったのかがすぐにわかった。
頬の辺りに、何かひっかかる。
かちかちとざらざらに固まったそれを指で口まで運んでやると、塩辛かった。
炎は流れ出る涙を端から乾かして、こびりつかせたのだ。涙の筋は今になっては新しい涙の道になる。私は朝焼けに泣いた。
泣いて、それを拭うものに「え?」と震えた声を絞り出す。
左手が。
だってそれは、私の左手が、私の頬を拭うのだ。
泣いてしまわないように拭う。
私は泣きたいのに。
エディがいなくなって。
森もなくなった。
ひとりぼっちの私はせめて泣いてしまいたいのに。
私の左腕がそれを慰めた。
エディがいるんだ。
力なく木にもたれたままの体は、それだけを直感した。
私の左腕はエディの左腕になった。
同じように。
同じって、蝶々も玉虫もミミズも蜘蛛の巣もリスもスズメも葉っぱも木の根っこもバラの花もナノハナもヤナギの樹皮もモグラもカマキリもサナギもセミもカーネイションも、だから、森もそれ以外も、食べたもの全部が。
私なんだ。
同化した。
……こんな考え、どうか…………。────。ううん。
どうか、そうであってほしいと思った。
私の中に息づいたエディと、森の全てを思う。
そうとなれば、私は今から立ちあがるだろう。
そして探すのだ。涎を垂らしながら。
美味しいご飯が待っている。
CATER




