39. 奇跡ならここに
一年が過ぎた。
父、弟と和解した後も、アルマは引き続きアパルトマンで暮らした。マーチスの代筆屋で代筆士として働く傍ら、時折ユアンの務める新聞社に王都の散策をテーマにした記事を寄稿し、そこそこの好評を戴いていた。
以前と違うのは、週に一、二回は男爵家に顔を出していることだ。
アルマは学園を中途退学したので、修めるべき単位を修めていないままだった。それらの勉学と、料理や掃除などごく普通の家事の練習。金銭感覚は一人暮らしの中で身につけているので、今度はもっと詳しい運用方法――などなど。ロバートやクリスを通じて、知らない人と接することも格段に増えた。なかなかに忙しい一年だった。
一方、レイはレイでこれまた多忙な毎日で、仮入団先のトールス騎士団では生傷の絶えない生活を送っていた。
会いたくても会えない日が続く。
アルマは暇ができるとアパルトマンの庭に降りて、来るはずのないレイを待ったりもした。そんな時は寂しすぎて死にそうになりつつ、たまに送られる彼からの手紙を何度も読み返して、胸の痛みをやり過ごした。
会えない分、彼を思う気持ちは日に日に募っていった。
そして、もうすぐ春がやって来ようという季節。
アルマに、一つの別れが訪れた。
「ううう。ルイスさん、本当に行っちゃうんですか……?」
アパルトマンの正面ポーチ。道路脇には二頭立ての幌馬車が横付けされており、後部からはみ出た椅子だか机だかの脚を、ユアンが必死の形相で中に押し込もうとしている。
今日は彼らの引っ越しの日。二人に目出度く子供ができたのをきっかけに、隣町に一軒家を借りて移り住むことにしたのだ。
新しい住居とこのアパルトマンは、それほど遠いというわけではない。だが、新生活に伴って身の回りも忙しくなるだろうし、あと二週間もすれば、次はアルマがアパルトマンを出ていく番だ。それも王都から遠く離れたトールスに。当然、簡単に会える距離ではない。実質、今日が別れの日である。
背後では、家具と格闘する夫の叫び。そんなユアンに背中を向けて、ルイスは実の妹のように思いはじめていたアルマを強く抱き締めた。
「泣かないの。今生の別れってわけじゃ、ないんだから」
「でも……でも!」
駄々っ子のように言い募るアルマに、ルイスは深い笑みを刻む。
最近、随分と大人びてきたと思っていたが、やはりアルマはアルマのようだ。純粋で素直で泣き虫。そこが可愛いところでもあるのだけど、ちょっと心配。まあけれど、頼もしい騎士が側に付いているから、きっと大丈夫だろう。
「また会えるわよ。いいえ、会いましょう。せっかく縁が出来たのだもの。これで終わりだなんて勿体ない。でしょう?」
「…………!」
アルマはルイスの胸に縋り、涙でボロボロの顔で彼女を見上げた。
「ぜったい、ぜったいですよ!」
「ええ。ぜったい、ぜったいよ。いつかウチの子も見てほしいし、仲良くしてあげてほしいわ」
「はい! ぜったい、会いに行きます!」
ルイスは笑って、ぽんぽんとアルマの背を叩いた。すると、幌馬車の後部で奮闘中のユアンが顔だけこちらへ出して叫ぶ。
「アルマくーん! トールスに会社の支部があるから、絶対顔出してね! そこの所長にも伝えとくからー!」
「はいっ! ありがとうございます!」
仕事仲間とも言えるユアンに、アルマは涙を拭って返事する。泣き顔のままでは、春の別れに相応しくないと思ったのだろうか。改めて顔を上げたアルマの表情は、未熟ながらも気概の片鱗を宿している。
――大きくなった。
ルイスは初めてアルマと言葉を交わした日のことを思い出し、懐かしさと嬉しさ、そして寂しさから、じんわりと目に涙を浮かべる。アルマには泣くなと言っておきながら、自分がこれでは示しがつかない。そう思い、気付かれぬようそっと袖口で目元を押さえる。それからポンッとアルマの背を叩くと、名残惜しい気持ちを堪えて体を離した。
「さあ、もう行かなくちゃ。レイ君によろしくね、アルマちゃん」
「はいっ」
「さようなら」
「はい……っ、さようなら……!」
ようやく家具との激闘を終えたらしいユアンが、御者台で手を振っている。アルマはそれにも応えながら、泣くまいと必死に唇を噛んで堪える。
ルイスがユアンの隣にスカートをたくし上げながら乗り込み、こちらを振り返った。そして、声に出さず「またね」と口を動かす。アルマは大きく頷いて、一際強く手を振った。
ガラガラと車輪が石畳を噛み、ゆっくりと馬車が走り出す。次第に遠のいていく荷台の後ろ姿。その影が街角に消えて見えなくなるまで、アルマは手を振り回し続けた。
* * *
「いやぁ、水魔法って便利なもんだな」
物が少なくなってかなりスッキリした室内を見回し、レイがしみじみと口にする。
机や椅子、ソファなど、備え付けの家具はそのままだが、一年半で増えたアルマの私物はほとんどが男爵家に運ばれた。その内の何割かは、売って生活資金にする予定だ。レイは必要ないと思うのだが、アルマは頑として聞き入れなかった。最初の頃に比べて、積極的になったものである。
床の絨毯は剥がされ、隅々まで埃を取り除いた後、綺麗に雑巾がけを行った。やったのは雑巾だ。アルマの水魔術でまるで生きてるみたいに動き回る様は、本当に奇怪というか不思議だった。
魔術で生み出した水や風は術者が自在に動かせるので、簡易な自動雑巾がけ機を作るのも容易なのだ。こういった魔術の利用方法は、レイには思いつきもしなかった。せいぜい風で埃を吹き飛ばすくらいだ。
ベッドや棚などの重いものも水魔法で滑らせて移動させるので、驚くほど手間が掛からない。正直手伝い必要だったかな、という感じである。
しかし、使った後は結構疲れるものらしい。大量の魔力と、細かな操作をするための集中力が必要なのだとか。そんなわけで、アルマが床にへたり込む前に止めるのがレイの主な役目だった。
「ほら、もうその辺にしておけ。こんだけやりゃあ十分だろ。片付けはオレがやっとくから、お前は休んでいろ」
「うん。ありがと、レイ」
レイは風を繰り、埃と湿気を孕んだ空気を開け放った窓から追い出す。それでいて部屋の中の小物はそよとも動かさないから、これはこれで繊細な腕前だ。騎士団でしこたま扱かれた成果である。
水拭きを終えた雑巾が自力でバケツに戻っていくのを胡乱な目で眺めていると、とっとっと、と軽い足音が聞こえた。
真横へ目を向ければ、アルマが小さな足でこちらに駆け寄ってきて、何やらうずうずした顔でレイを見上げる。
彼女はレイの注意が自分に向いたのを察すると、
「ん!」
と、目を瞑って顎を少し上げた。
ぴんと背筋を伸ばして、手は後ろで組んで。身長差を補うため、踵はちょっとだけ浮いている。
「…………」
レイは頭ごなしに叱りつけたい気持ちをぐっと抑え、アルマの頬に右手を添えた。背を屈めて、自分より頭ひとつ分小さな彼女の唇に接吻する。数秒間、押し付けるだけのキスをした後、アルマは恥ずかしそうにしながらも満足気にもじもじと手指を絡めた。
そんな可愛い婚約者の姿に、レイは内心身悶える。
(なんでこんな初心なのに、キスの強請り方だけは上手いんだろう……)
人前でしないからいいものの、もしキスを求めるアルマを誰かに見られようものなら、その者の記憶をどうにかして消したくなるのは容易に想像がつく。今だって、理性を見失わないように必死でトールス騎士団での地獄のような日々を思い出そうとしているところだ。
まったく、アルマといると自分は我慢のし通しだ。彼女は天が遣わした試練なのではないかとさえ思う。
そう言えば一昨年の灯夜祭で、アルマは空を見上げて神様の姿を探していたなと、レイの記憶が蘇る。
残念ながら、去年の灯夜祭は一緒にいられなかった。それもこれも、「お前は俺様がじきじきに扱いてやる」などと言って、苛めのような訓練を課した地獄団長、もとい騎士団長のせいである。それに耐えたおかげで、カーライルのお坊ちゃまがと理不尽な目で見ていた騎士たちの評価が一変したのは幸いだったが。
ともあれ、そろそろ会話なしでは手を出してしまいそうだと追い詰められていたレイは、何気なさを装って切り出した。
「今年の灯夜祭は一緒にいような。神様がトールスに来るかは知らねぇけど」
「トールスでも灯夜祭、やるの?」
「当たり前だろ。あっちは魔道具開発が盛んだから、面白いランタンがたくさん見られるぞ。歩くヤツとか。喧嘩するヤツとか」
「それはランタンなの……?」
「うん? たぶん?」
不安そうに言われると、違うような気がしないでもない。子供の頃からそういう景色を見慣れていたので、今まで疑問に感じなかったが。
「まあ、ランタンは置いといて……。今度は神様、見つかるといいな」
「神様?」
「え。アルマ、探してたろ。一昨年の祭りで。見張り塔の上から、空を仰いでさ」
「あー……」
間延びした声を出して、アルマはそわそわと視線をそよがせる。思ったより芳しくない反応に、レイはなんだなんだとアルマを見下ろす。そのままじっと見つめていると、アルマは観念したように口を開いた。
「奇跡が起きたらいいな、って思って。あるでしょう? 言い伝えの……」
「ああ、空の神の奇跡か。あったな。そんなの」
「神様に直接会えたら、奇跡起こしてくれるかなって。そう思って、探してたの。現金だよね……」
なんだ。そんなことか。心配しなくても、幻滅なんかしないのに。
それよりも、自分じゃなくて神様に頼ろうとしていたのがちょっと悔しい。奇跡は起こせなくても、彼女のためなら何だってする。その覚悟はある。だけど、やっぱり人間よりも神様の方が頼りになるというのか。
「何か叶えたい願いでもあるのか?」
少し意地悪な気持ちになって聞くと、アルマは笑って首を横に振る。
「いいのか?」
「うん。だって、奇跡はもう必要ないから」
ほっそりとした白い手が、レイの胸の上に置かれる。
思わず、レイは息を呑んでアルマを見つめた。アルマもまた、甘やかな紫水晶の瞳で彼を見上げた。いつにない甘え方に、その頬は真っ赤に染まっている。
――ああ、愛おしくて堪らない。
奇跡はここにあるのだ、と。
強く抱き合う二人の髪を、窓から入り込む風が優しく扇いで行った。
*おしまい*
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