38. 愛し子
レイが訪れてから数日後、ようやくアルマの謹慎が解かれた。リモーネ侯爵家とベルタント公爵家の話し合いが終わっていないため、屋敷の外に出ることはまだ許されないが、敷地内であれば自由に動けるようになった。
だが、すっかり庶民の暮らしに慣れてしまったアルマには、どこへ行くにも侍女が付いてくるのが気になって仕方ない。入浴だって一人でゆっくりしたいのに、侍女が外で着替えを持って待っていると思うと却ってストレスが溜まる。かと言って拒む強さもないので、完全に事件が落ち着くまでの辛抱と自分に言い聞かせていた。
そんな中、アルマは父であるロバート・ヘンレッティ男爵と面会することになった。
父に会うのは、およそ一ヶ月前――いきなり何の説明もなく屋敷へ連れ戻された時以来、初である。もし、レイから父の本心について何も聞かされていなければ、アルマは緊張と恐怖で倒れていたかもしれない。父の書斎の前に立った今だって、カチコチに固まって足が震えている。できることなら、一時間後に跳んでしまいたかった。
今日、呼び出したのは父の方だ。レイのプロポーズを受けてから今日まで、数日間の猶予があった。その間に気持ちの整理をつけておけ、という意味の数日間だったのだと思う。
だが、雑多に散らかった心の中をたった数日で整理整頓できたかと言われると、実のところ全く自信がない。人生初のプロポーズは、それだけの破壊力があった。
ともあれ、もう書斎の前まで来てしまった。振り返っている暇などない。
執事長のリヴが重厚な扉をノックするのを震える面持ちで見つめながら、アルマはスカートの裾を我知らず掴んでいた。
「入りなさい」
「し、失礼致します」
つっかえてしまったが、声は出た。
スカートについた皺をさり気なく伸ばすと、リヴが開いてくれた扉をくぐり、入り口のすぐ近くで足を止める。背後で扉の閉まる控えめな音がし、アルマは一人、いや父と二人、本棚がひしめき合って迫ってくるような書斎に取り残された。
ロバートは大きな書斎机の向こう側、明るい窓を背にこちらを向いて立っていた。
文官の割りにがっしりとした体格。年は四十を過ぎたところで、髪はまだ黒黒としている。同じく豊かな髭はよく手入れされており、一家の長に相応しい風情を醸し出している。
ロバートの姿を目にした瞬間、アルマは時が遡ったかのような錯覚を覚えた。
――笑っていたのだ。遠い記憶にあるのと同じ、優しい微笑みをアルマに向けていたのだ。
アルマはくしゃりと顔を歪めた。
目頭が熱い。鼻の奥がツンとなって、泣き虫が声を上げようとしている。
まだ何一つ言葉を交わしていないのに、何千もの言葉を掛けられたような錯覚を覚えた。
不通だった半年が。意図の見えなかった一ヶ月が。それ以上の長い長い年月が。アルマの目の前を通り過ぎて、あっという間に過去へと押し流されていった。
「ごめんなさい、お父様。迷惑や心配をいっぱいかけて。私、悪い娘で。頭も悪ければ性格も悪いし、暗いし、可愛くないし。他の子みたいに、普通にできなくて。別の人生を歩んでみたかったの。嫌われたくなかったの。自分じゃない人間になれば、誰かに好きになってもらえると思ったの」
――誰かに言われた。お前は悪い娘だと。
誰かに言われた。お前の母親は最低だと。
誰かに言われた。お前が憎くて仕方がない、と。
もう記憶は薄れてしまって、言った人の顔も名前もぼやけて思い出せないが、言われた言葉だけは心の壁に染み付いて、いつまでも消えてくれない。そのせいで、アルマとしての子供の頃は、いつも上から押さえつけるような見えない力を感じていた。下ばかり向いて、だから周りが見えなかった。
こんなにも――。
「誰が嫌うというのだね? 私の可愛い娘なのに」
こんなにも優しい父が、すぐ傍にいたのに。
間違っていたんだ。
誰からも愛される子なんていないように、誰からも愛されない子だっていないんだ。
傍までやってきたロバートに抱き締められて、アルマは切なさと温かさに涙した。孤独を抱え過ごした時間を惜しいと思う。やり直したいとも、少し思う。だけどもう十分だ。不幸な人生は終わり、これからは自分の手で幸せを掴んで行ける。だから、もう十分だ。
一頻り泣いたアルマは、父の両手に優しく抱き起こされた。
「まだお祝いを言っていなかったね。婚約おめでとう、アルマ。君は自分の目で、足で、愛する人を見つけ出した。父としては少し寂しいが、とても誇りに思うよ。それに、彼もまた君のことを心から愛している。先日直接話して、そのことを確信した」
アルマは涙とは別の理由で頬を染め、コクンと頷く。肉親にレイとのことを言及されるのは、隠し事を覗かれるような恥ずかしさがある。疚しいことは何もないのだから堂々としていればいいのかもしれないが、それとこれとは別なのである。
そんなアルマの肩にロバートは手を置き、少し背を屈めて視線を合わせた。年の割に老成した眼が、照れるアルマを見つめ諭す。
「だが――敢えて聞くが、本当にレイ君で良いのか?」
「えっ」
「レイ君が順調に騎士になったら、君と居られる時間は、君が思っているよりもずっと短くなるだろう。トールスの騎士というのは、激務だからね。彼はトールス育ちだから、その辺りのことはよく分かっているはずだ。君は必ず寂しい思いをする」
「…………」
「不安になったかな?」
アルマは無意識に自分の胸を押さえ、はっきりと頷いた。そして、そんな自分を否定するように言い募る。
「でも、私、大丈夫。寂しいのは慣れてるから、平気」
「……そういう悲しいことをサラッと言わせてしまうのも、親の罪なのかな」
「え? 何?」
ロバートが何か言ったが、小声でよく聞き取れなかった。それよりも、もしかしたら父はレイとの結婚に反対なのかもしれないと焦りが生まれる。貴族社会では現代の地球と違って、親に反対されればその結婚は叶わない。だから、もし反対されるのであれば死活問題だ。さっきはおめでとうと祝福してくれたのに、ロバートの考えが分からないと、アルマの頭は混乱を極めた。
「あ、あのね、お父様。レイは、変わってるけどすごく良い人なのよ。私が街で男の人たちに絡まれた時に――」
「そういうことじゃなくてだね、アルマ。……いや、ちょっと待ちなさい。絡まれた? 男の人たち? いつ、相手はどこの誰だ? 何かされたのか? 怪我は?」
「お、お父様。大丈夫。ずっと前の出来事だし、怪我とかもなく済んだから」
「ずっと前? 聞いていないぞ、そんな話は!」
すごく怒っている。眦を吊り上げ、肩を怒らせ、天変地異でも起こしそうだ。
父が聞いていないのは当たり前である。月に一度様子を見に来る使用人にも、アルマは報告しなかったのだから。言うと迷惑をかけると思って、躊躇った末に沈黙を選んだ。この調子では、通り魔に襲われかけたことを知ったらどうなることか。絶対に言わない方がいいだろう。
なんとかして父を宥めすかし、落ち着きを取り戻させた頃には、ロバートはかなりお疲れの様子だった。
「……お前はまだ子供だ」
「う」
「精神的に未熟だし、人馴れもしていない。そのような有様で人の妻となっても、波のように襲いかかる諸問題に右往左往するだけだ。さっきも言ったが、愛だけでは上手く行かないのが結婚生活というものなのだから」
「…………」
いきなり何を言い出すのかと思ったが、どうやら先程の続きを話しているらしいと気付き、アルマは神妙な面持ちになった。
「だから、学びなさい。あと一年で。私が安心して君を送り出せるように。私は君の母ではないから、きっと満足には教えてあげられないだろう。それでも、君のためにしてあげられることは山程あると信じている。どうか私を頼ってくれないか」
「お父様……」
アルマは、家に戻ってからもう何度目か知れないが、温かいもので胸がいっぱいになった。
アルマは愛情を渇望していたが、一番欲しかったものは家族からの愛だった。不運にも、今までそれが得られないでいた。だが、ここへ来てようやく器が満たされようとしていた。愛情という名の、空っぽだったガラスの器が。
「はい――はい、お父様。目いっぱい精進して、必ずお父様やクリスを安心させてみせます」
父親譲りの紫水晶の瞳に、強い決意をみなぎらせて。それを見たロバートが優しげに一つ頷くと、堪えきれなくなった涙がアルマの頬に一筋流れた。




