33. 雲行き怪しく
ヘンリー・マーチスは、最近笑うことの多くなったアルマ・ヘンレッティの仕事姿を眺めながら、茶色い口髭を無意識に撫で付けた。
重厚なデスクと恰幅のある体格の組み合わせはとてもお似合いだ。生まれつき円な瞳が得も言われぬ愛嬌を周囲に振りまいているが、本人は至って真面目な堅物と自負している。
彼は、二十年程前までヘンレッティ男爵家で男爵の補佐官を務めていた。平民でそこまで上り詰めた彼は言うまでもなく優秀な人材だった。が、とある子爵家のご令嬢と大恋愛の末、結婚。子爵家には目をつけられたが、男爵のとりなしもあって、現在は妻子と共に平和で平凡な暮らしを送っている。
そんな彼が数ヶ月前、男爵から面倒を任されたのが、まだ十六歳のアルマだった。
(男爵家からは、我儘で傲慢なお嬢様だと聞いていたが、そういう素振りは結局一度も見せなかったな。最初に比べてだいぶ明るくなったし、真面目で素行も良い。可愛らしい良い娘じゃないか。息子の嫁に願いたいくらいだ)
明るくなったと言っても、元が元なため、今は大人しい町娘――くらいの印象だ。それでも十分な変化である。当初のアルマは自己主張ができないくらい控えめで臆病な娘だったのだ。ここ――マーチスが営む代筆屋に来たばかりの頃、自分の名前すら吃ってしまっていたのを思い出し、マーチスはふっと笑みを零した。
(何があったのか知らないが、もう大丈夫そうだな。男爵にもそのように報告しよう)
アルマの仕事の面倒を見、それとなく態度を監視すること。そして、定期的に男爵家に報告すること。それがマーチスに下された指令だ。もう部下ではないので従う必要はないのだが、大恩ある男爵のため引き受けた。結果的に、マーチスにしてみれば良い従業員を手に入れただけのことだったので、何も言うことはない。
安心して、手元の書類に目を戻した時だった。
カランとドアベルの乾いた音が鳴り響き、小さなオフィスに一人の客人が現れる。代筆の依頼かと思い顔を上げたマーチスは、そこにいた使用人風の姿を見てぱちくりと目を瞬いた。
それぞれのデスクに着いていた他の従業員たちも、何だろう、と顔を上げる。その中にはアルマの姿もあった。
もちろん彼女は気付いただろう。現れた客人の服装がヘンレッティ家のお仕着せであることに。
どこか鋭い眼光を帯びた客人は、ぐるりとオフィスを見渡すと、マーチスに視線を定めて言った。
「失礼。私はヘンレッティ男爵家の使いの者です。男爵様より、アルマお嬢様をお連れしろとのご命令を受け参りました。アルマお嬢様はおいでですね」
マーチスを含めた視線が、一斉にアルマの方へと雪崩込んだ。
アルマは蒼白な顔で使者を見つめている。可哀想に、怯えているのか小さく震えているのがマーチスの位置からでも分かる。
使者の態度は誰が見ても強権的で、使者というよりは囚人を引き立てる看守のようだった。表面的には尋ねるという形をとっているものの、有無を言わさぬ強制力を言葉の端々に感じる。
「アルマ君」
「は、はい」
可哀想だが、このままでは話が進まない。マーチスが促すと、アルマはガタガタと椅子を鳴らして立ち上がった。
――この半年ほどの間、男爵家からアルマに何かを要求したことはない。監視はするが、何も求めず、何も望まずといった一貫した態度を取っていた。今回のように、日中、職場に赴いてまで呼び出すということは、何か急な用向きができたのだろうが……。
(使者のこの態度。主人の娘に対する態度じゃないな)
貴族の下で働いていた経験が、悪い予感を告げている。しかし、平民であるマーチスには男爵家の使いを制止する権限がない。最悪の場合、懲罰を受ける恐れだってある。あの穏健で有名なヘンレッティ男爵に限って、そんな仕打ちはまずしないだろうが。
仕事仲間たちは、机に足をぶつけながらも進み出るアルマに心配そうな眼差しを向けた。一方使者は、同情の視線を集めるアルマが気に入らないのか、嫌そうに顔をしかめるだけだった。
* * *
馬車の窓には幕が降ろされ、外の景色を見ることすらできない。ガタゴトと車輪が石畳を噛み締める音、それに混じって馬が蹄を鳴らす音。聞こえるのはそれだけである。
座っているのは、アルマ一人だけだ。彼女を迎えに来た使者は、後方から馬で付いてくる――のだが、どういうわけかアルマは、始終見張られているような気がしてならなかった。馬車に乗り込む時も。走り出した後も。注意に、もっと言えば敵意に晒されている。アルマにはそれが分かった。
無理もないかもしれない。
アルマはヘンレッティ家の品位を傷つけた。そのことは、ヘンレッティ家や彼らに仕える者にとって許しがたい愚行であったことだろう。
それにアルマは勘当寸前で、家の中に守ってくれる者がいない。市井での一人暮らしは彼女自ら願い出たことだが、家の者からは当主に見放された故の追放と見做されているらしい。そんな娘に優しくする理由なんてどこにもない。冷たい視線は、諸々の事情を鑑みればむしろ生温いくらいだろう。
帰ったらまず父と弟に、そして皆に謝らなければならない。今まで忠告に耳を貸さなかったことを。見たいものしか見なかった自分を今は恥じていると、伝えなければ。
(許してくださるかしら、お父様とクリス)
このところ、何もかもが順調だった。同じアパルトマンの住人――ルイスやユアン、ヘルマンたちとはよく話すようになったし、ユアンには副業まで世話になっている。職場の人たちとの関係も良好。よく行くトープファの屋台の親父さんとも、たまに言葉を交わすようになった。顔を出して歩くことにも慣れ、以前のように"亡霊女"と囁かれることがなくなった。どうやら、誰もアルマが"亡霊女"だとは気付いていないようなのだ。
クラリッサとセドリックのことも、全部終わったと言っていいのか分からないが、心情的にはひとまず落ち着いた。謝罪の手紙を受け取ってもらえたのがとても大きい。本当なら、アルマには気持ちを伝える機会すらなかったはずなのだ。
全てレイのおかげである。彼が"アルマ"という人間を肯定してくれる、そのことが彼女の自信を補強してくれている。他の誰よりも、彼に認められることに価値がある。勇気が湧いてきて、何でもできる気がする。
――後から思えば、それは大きな慢心だった。過去の行いを悔いて、心から反省していれば、お父様もクリスもきっと分かってくれる。だって家族なんだから、と。無意識にセドリックや父をハードルのように考え、セドリックよりも父の方が難易度が低いに違いないと決めつけた。いや、決めつけたという意識すらなかった。
慢心自体は、その後の成り行きを左右する要因にはならなかっただろう。事態は既に、アルマの知らないところで動き始めている。たとえ彼女が、屋敷を出た時と何一つ変わっていなくても、進行を止めることは不可能だ。
しかし、だからこそアルマは気付くべきだった。気付いて、構えるべきだった。他でもない自分のために。
予測して受け止める攻撃よりも、不意打ちの一撃の方が遥かに衝撃が強いのだから。
懐かしい我が家に戻ったアルマは、落ち着く暇も与えられず、当主――父の部屋へ直行させられた。
静かな長い廊下。左右に並ぶ扉はどれも固く閉ざされ、屋敷は奇妙な緊張感に包まれている。使用人たちは、アルマと目が合いそうになるとサッと素早く顔を伏せた。アルマは背後からじくじくと突き刺さる視線に耐えながら、執事長の黒い背中を追いかけた。
やがて重厚な両開きの扉が現れ、中へと通される。
空気までもが重い。
アルマは打ち鳴らされる鼓動を抑え、スカートが衣擦れの音を出さないようそっと絨毯を踏みしめた。
数カ月ぶりに見る父の姿は、全く変わっていなかった。少なくとも、アルマの目にはそう見えた。老いたということも、やつれたということもなく、口髭をたたえた威厳のある顔で書斎机に向かっている。仕事の最中らしく、手元は忙しそうにペンを動かしている。
視線を上げれば、アルマの姿が目に入る。しかし、父――ロバート・ヘンレッティは、娘の存在に気付いていないかのように、黙々と仕事を続けていた。
アルマは緊張で死にそうだった。厳格な父が発するオーラは只事ではない。質量さえ伴って、容赦なく襲いかかってきそうな威圧感がある。両足を踏ん張っていなければ、へなへなと座り込んでいたかもしれない。
なぜ家へ呼び戻されたのか、未だに見当もつかない。分からないことが、及び腰に拍車をかける。迎えに来た使者も執事長も、アルマに何も教えてくれない。余計な口を叩かないようしている節もある。
待つしかない……。
アルマは喉を通る唾がごくりと音を立てるのを恐れ、静かに、ひたすら静かに息を潜めた。
何分か経っただろうか。
ザッと、ペン先が大きく紙を削る音を最後に、ロバートの手が止まった。ロバートはしばし彫像のように固まって――不備がないかどうか確認中なのか――、その後、軽く息を吐きながら、書類の脇にペンを置く。
来る。
アルマは無意識に背筋を伸ばす。
その数秒後。ロバートは灰色の眼光を、今日初めて娘へと向け、口を開いた。
「久しぶりだな。アルマ」
「は、はい。その、お、お久しぶりです……」
言葉はつかえ、目は泳ぐ。真っ向から威厳を浴びせられれば、いくら肉親相手でも心が怯む。アルマの場合、部屋に入る前からびくびくしっ放しだったが。
そんなアルマを、ロバートはどのような境地で見ていたのだろう。表情から考えは読み取れないが、あまり良い印象は与えられなかったようだ――直感でそう悟ったアルマは、若干肩を落とした。主に、自分への失望が理由で。
「あ。あの。お父様――」
「挨拶はいい。お前を連れ戻したのは、退っ引きならない事情が出来たためだ」
アルマの言葉を遮り、父の低い声がなけなしの勇気をも挫く。
アルマは、ザッと血の気が下がる音を聞いた。
分かっていた。だが、真正面からはっきりと叩きつけられると、逃げ場のないことも相まって、絶望の淵に立たされたような気分になる。
「も、申し訳ありません。私、私」
「言い訳もいい。まったく、とんだいざこざに巻き込まれたものだ。メイサがこのことを知れば、大いに怒るだろうな」
「…………」
メイサ――母親の名を出され、アルマはぐったりと項垂れた。今生の母親はアルマがうんと幼い頃に病死してしまったため、肖像画でしかその顔を知らない。夫と子に愛を尽くす、とても懐の深い人物だったとは聞いている。
父にとって母は愛の象徴だ。その母の名を持ち出して非難するということは、それだけアルマが父の愛から遠ざかったということだ。
失った信頼を取り戻すのは、並大抵の努力では叶わない。
だけど、自分だって変わったのだ。自分はヒロインだと思い込んで周囲の忠告に耳を貸さなかったアルマも、周りの反応が怖くて顔を上げられなかったアルマももういない。
今なら自分の気持ちを自分の言葉で話せるはずだ。そう思って口を開きかけたアルマは、続くロバートの言葉を聞いて息を詰まらせた。
「ベルタント公爵のご嫡男と密通とは。あちらはつい最近、リモーネ侯爵家のシャーリーズ嬢とのご婚約が内定したという話だというのに。このことに公爵はとてもお怒りだ。このままでは、直々にお前へ罰を与えると言い出しかねない。それだけは絶対に避けなければ」
「ベ、ル……?」
言っている意味が分からず、アルマは聞き取れた最小の音を繰り返す。ロバートはアルマの呆然とした顔を瞬きもせず睨みながら、淡々と話を進める。
「詳細はこちらでも調査中だ。然るべき時が来るまで、お前には謹慎を言い渡す。一切部屋から出ることは許さない」
「ま、待ってください、お父様。私、そんな話知らな――」
「言い訳は必要ないと言ったはずだ。……リヴ、連れて行け」
「承知いたしました、旦那様」
「お父様っ」
「アルマ」
ひんやりとしたものが、一瞬にして背筋を駆け上る。見たことのないような鋭い眼光が、アルマの全身を釘付けにした。
厳格だが、家族には温厚で優しい父。彼のこんなに強い目を見たのは、生まれて初めてだった。
アルマの中で、何かがすーっと零れ落ちていく。失ったら、二度と手に入らない何か。
――いやだ。
叫べるものなら叫んだだろう。しかし、遥か遠い昔の記憶が、自分を見下ろす母の面影が、なぜだか父に重なって声が出せなかった。
そんなはずないのに。あの人と父は違うのに。
「……部屋に、戻っていなさい」
落ち着いた、しかし力のある命令に、アルマは従うより他なかった。




