23. 黒い炎
「サ、サイフリッド様……」
「アルマ・ヘンレッティ――」
地を這うような低い声音に、今すぐ逃げ出したい衝動に駆られたとして、いったい誰がアルマを責められるだろうか。幸いにも、側にいるレイの存在がそれを押し留めてくれる――本当に幸いなのかどうか、少々判断に困るところではあったが。
ベンチに腰掛けた膝がブルブルと震える。その動きを鬱陶しいとでも思ったか、シャーリーズが一際きつく睨んだ瞬間、アルマは「ひくっ」と喉を引き攣らせた。
ご令嬢の眼差しは怒りに満ち、今にもアルマを焼き尽くしそうだ。その苛烈さは、夏のパーティーの比ではない。あれは三ヶ月程前のことだったが、シャーリーズにとってその期間は怒りを減衰させるものではなかったということか。
いずれにしろ、クラリッサらに対して罪悪感を抱えるアルマには、シャーリーズの怒りに抗う術がない。真っ青な顔で俯く彼女に、シャーリーズの視線が容赦なく突き刺さる。
もともと、シャーリーズ・サイフリッドは苦手だった。臆病で自尊心の低いアルマとは、対極に位置する女性だ。嫌い、ではない。体の小さな生き物が、自分よりはるかに大きな生き物に対して本能的に脅威を覚えるのに近い。
加えて、悪いのは自分だ、という自覚がアルマにはあった。彼女に嫌われて当然のことをした。本当は謝らなければならないのに、久しぶりに真正面からぶつけられた彼女の激情はまさしく烈火のようで、見えないものに上から押さえつけられているようなプレッシャーを感じていた。
が、レイにはそんなこと関係ない。彼にはシャーリーズを怖れる理由などないのだ。そのため、堂々とアルマとシャーリーズの間に立った。アルマを背に庇うようにしてシャーリーズを向き合う。この時アルマが顔を上げていれば、僅かに怯むシャーリーズの表情が拝めたかもしれない。
「何か用か」
レイの声は、ひどく不機嫌に聞こえた。アルマに向かって冗談を言う時とは声音が違う。淡々としているのだ。本当にレイの声だろうかとアルマは少し不安になり、シャーリーズはと言えば、一層機嫌を損ねたらしかった。
「何か用か、ですって? よくもそんなことが言えたわね。人が気晴らしに出歩いた先で、なんてものを見せてくれるのよ。レイ、あなた、この女とこんなところで何してたの? 答えなさい」
「何って。話をしてた」
レイは肩を竦めて端的に答える。それ以上言うことはないと、態度が物語っている。
「話って?」
「ただの世間話だ。取り立てて説明することでもねぇよ」
「ただの世間話にしては込み入ってたようだけど? その女、泣いてたじゃない」
「そこ、突っ込むのかよ……」
はぁぁ、と深い溜め息が聞こえた。
面倒くさそうに呟いた一言は、シャーリーズにも聞こえただろう。なのに彼女は少しも動じていない。アルマには剣呑に聞こえるやり取りだが、シャーリーズにとっては気安い会話なのだ。どちらの解釈が正しいのか、それはレイに問うしかない。アルマは、ただただ縮こまって二人の問答を聞いていた。
「オレがアルマと何を話そうが、お前には関係ないだろうが。こいつの涙を気遣おうってわけでもないんだろ」
「当たり前でしょ。なんで敵に同情しなきゃならないのよ」
「敵って。あれはもう終わった話だろ。今更蒸し返すなよ」
「終わった話でも、無かったことにはならないのよ。その女はクラリッサを傷つけた。それは事実。二度目がないって言い切れる?」
「言い切れるさ。こいつは二度と殿下にもクラリッサにも近付かない。絶対に」
「あなたが見張っているから?」
「お前なぁ……っ」
敵意を隠そうともしない態度にいい加減我慢の限界が訪れたのか、レイは大きく息を吸ってシャーリーズの方へ半歩踏み込んだ。アルマは咄嗟に彼の腕を掴んで引き止める。その力は思いの外強く、振り返ったレイの驚いた目と合うと、ぶんぶんと頭を振った。
自分を庇ってくれているのは分かるが、彼に声を荒らげてほしくなかった。――自分のせいで、誰かと諍いを起こしてほしくなかった。
レイはアルマを見下ろし、言葉の外に潜む思いを読み取る。僅かな逡巡の後、溜息を堪えた様子で握っていた拳を解いた。
一方。言葉を交わさない親密なやり取りを見せつけられたシャーリーズは、一人下唇を噛む。
なんで、どうして、この女が。よりによってレイの信頼を得ているのだ? 留守の間に泥棒に入られた気分。しかし、レイは自分のものではない。それがよく分かっているだけに、悔しさに拍車がかかる。
「アルマ・ヘンレッティ――」
ぞくりと、アルマは背筋を這う寒気に肩を竦めた。おそるおそる見上げると、黒い瞳の奥に嫉妬の炎を滾らせたシャーリーズの姿が目に映る。
「あ……」
一気にアルマは理解した。
シャーリーズがなぜ怒っているのか。なぜ自分に憎悪を向けるのか。セドリックやクラリッサとのことだけではない。それ以外にも、いや、それ以上に、彼女にはアルマを嫌う理由があった。いや、できたのだと。燃えたぎる瞳が全てを物語っていた。
「サ、サイフリッド様、わた、私……」
その時、アルマの視線を遮るようにレイの背中が視界を覆う。
何も言うな――そう言外に言われているようで、アルマはこれは良くないと思いながらも口を閉ざす。閉ざしたが、その歯は全く噛み合っていなかった。秋の寒さのせいなのか、それとも他に原因があるのか、頬も唇も冷え切って生きた心地がしない。レイの背に庇われている自分が、とても卑怯者に思えた。
シャーリーズはそんなアルマを睨み――実際には、レイが身を挺して庇ったために、どんな顔をしているのかすら分からなかった――感情を押し殺すような声で、言った。
「覚えておきなさいよ。私は絶対認めないから」
ふんっと鼻を鳴らし、ヒールを鳴らして身を翻す。控えていた侍女が一歩下がり、主のために道を開ける。そして、苛烈な印象だけ残して去っていった。
「何言ってんだ、あいつ。認められなきゃいけないことなんか、一つもないっての」
レイは首を傾げたが、アルマには最後の言葉が自分に向けられたものだと正しく理解していた。
シャーリーズは、アルマの内側に芽吹いた女としての感情に気付いたのだろう。アルマが彼女の気持ちに気付いたように。だから牽制したのだ。あなたが過去にしたことを忘れない。あなたはレイに相応しくない、と。
(どうすればいいって言うの……)
シャーリーズは意志が強く、はっきりと物を言う勝ち気な性格の持ち主だ。敵は多いが、誰に対しても臆することのない姿勢は一目置かれている。友達も多い。アルマとは何もかも正反対の人物。そんな人に敵意を向けられて、どんな手が打てるだろう。例のパーティーでも一方的に言い負かされたし、敵うわけがない。
レイとは疑われるような関係ではないのだと、弁明すべきか。実際、友人の域を出ないのだし。告白するつもりも、ないのだし。そもそも、レイはいずれ王都を出て行くのだ。そうなれば、アルマとは永遠にお別れだ。シャーリーズが不安になるようなことは起きない。そう、絶対に。
「…………う、うぅぅ」
「あっ、また泣く。だからもう拭くもんないんだって」
頬に伸ばそうとするレイの手を避けて、アルマは自分の両手で目元を拭う。何度も何度も。赤くなろうが構わない、むしろ消えずに残ってしまえばいいと、強く擦った。
***
屋敷へ戻る馬車の中、シャーリーズは斜向かいに座った侍女と一度も目を合わせることなく、不機嫌な顔を窓の外に向けていた。
苛立ちが全身から滲み出ている。物事をはっきり口にする彼女にしては、珍しい事態だ。
それもそのはず。四年近く寄せ続けていたレイへの恋心を、一方的に踏みにじられたのだから。
踏みにじったのは、あのアルマ・ヘンレッティ。シャーリーズの大の親友、クラリッサとセドリックに無礼を働いた愚か者だ。学園を退学し、屋敷に引き篭もっていると聞いていたが、まさかレイとあんな場所で堂々と会っていたなんて。
いったい何がどうしてそんなことになったのか、想像もつかない。知りたくもない。腸が煮えくり返るような怒りが、無限に沸いてくる。
言うまでもなく、シャーリーズはアルマが大嫌いだ。彼女に対する感情は先のパーティーで終わったものと考えていたが、ここに来ていきなり再燃。前回よりはるかに激しく燃え盛っている。
膝に置いた手は白くなるほど強く握られ、噛み締めた唇からは血が滲みそう。頭の中は怒りで沸騰していた。
(殿下の次はレイってわけ? 本当に節操のない女。許せない……!)
上位者への礼儀に欠け、貴族の娘としての自覚もなく、己の欲望のためなら他人を虚仮にすることも厭わない。それが、シャーリーズのアルマに対する認識である。そんな女がレイの側にいる。許せるはずがなかった。
(好き勝手振る舞って私達に迷惑かけてたくせに、今さら小さくなって震えちゃって。何よあれ。か弱いつもり? レイもレイだわ。なんであんな女を庇うのよ。……気に食わない!)
握った拳で腿を叩きつける。じんじんと鈍い痛みが広がるが、そんなことはどうでもいい。じっとしている方が、気が狂ってしまいそうだ。
次にどう動くか、シャーリーズはもう決めていた。
レイは間違っている。おそらくはアルマの上辺に騙されているのだろうけど、たとえ一時の気の迷いだとしても、過ちは過ちだ。友人を裏切るなんて、決してあってはならないことなのだ。
過ちは正さなければ。友として、彼のために。
きっと皆も賛同してくれるだろう。
(絶対に取り戻すわ。たとえ結ばれなくったって、レイのことを一番想ってるのは私なんだから)
レイと初めて出会ったのは、十二歳の頃、親友となったクラリッサが殿下と共に連れてきた日だった。その時は、随分無愛想な人がいるなと思ったものだ。正直に言って、第一印象はよくなかった。
彼に対する印象ががらりと変わったのは、とあるパーティーでの出来事がきっかけだ。隅で一人佇んでいたレイに、他家の貴族が絡んでいたのだ。どの顔も上位貴族の嫡男ばかりで、伯爵家の三男坊のくせにセドリックの信頼を得ているレイが気に食わないらしかった。
シャーリーズは正義感に燃えた。その時点ではまだレイとはそれほど親しくなかったが、クラリッサという共通の友人がいたことが正義感に火をつけた。
そして、身分と正論を振りかざして嫡男たちを追い払ったのだった。
友人の友人の窮地を救い、満足感を得たシャーリーズだったが、レイの反応は芳しくない。一応謝意の言葉は貰ったが、心からのものではなかったように思う。
なぜ喜ばないのだろうと、その時のシャーリーズは不思議に思った。厄介事から解き放たれたのだから、感謝くらいしてもいいのに。
率直に尋ねたシャーリーズに、レイは答えた。
「あんなの、どうでもいい」
受け取り方によっては、子供の虚勢とも思える返答だ。シャーリーズももしこの話を又聞きしたのなら、男の子って強がりたがるわよね、くらいにしか思わなかっただろう。
しかし、彼女は目の前で見ていた。上位貴族の嫉妬と嫌味をそよ風のごとく受け流し、泰然自若として立つ彼を。だから分かった。その口から出てきたのは強がりなどではなく、ただの本心だということが。
虚実にまみれた貴族社会で、虚を取り払ったレイの姿が、その瞬間シャーリーズの心に鮮明に焼き付いた。
あの日から、シャーリーズはずっとレイだけを見てきた。夫となる者がやがて別に選ばれることは分かっている。
シャーリーズの家は名門中の名門。カーライル家も名家だが、三男である彼を婿に取っても恩恵はそれほど得られない。父が欲しいのは、次期当主となるに相応しい能力を持つ婿だ。レイは父の理想像からかけ離れている。
それでも、彼から目を離すことができなかった。
友人として、なんて建前だ。
レイに誰も選んでほしくない。彼の隣に立つのが自分でないのなら、せめて、そこは空席であってほしい。
それが、シャーリーズの偽らざる本音だった。




