12. ロドリック街へ
アルマは、その日の朝を緊張と共に迎えた。
昨夜はあまり眠れなかった。ベッドに入って目を閉じようとしても、耳鳴りがぐわんぐわんと主張して、まるで大きな鐘の中にいるような感覚だった。
それでも二、三時間は眠れただろうか。
時計を見やると、いつもの目覚めより一時間ほど早い時刻。
もう起きよう、とアルマは鈍った体を起こした。
ルームシューズに足を突っ込むと、冷たい板張りの床をパタリパタリと歩いて、洗面所へ移動する。洗面ボウルに栓をして蛇口を捻り、水が溜まっていくのをアルマは無言で見守った。
今日は特別な日だ。レイと約束した、お出かけの日である。楽しみにしていた、というのは嘘ではない。日数を数えてはワクワクしたり、どこへ行くのだろうとか、どんな話をしようだとか、色んなことを妄想しては一人でニヤニヤしていた。
で、現実の自分が妄想みたいに上手くやれるはずがないと落ち込むまでがセットだった。
当日が来たら覚悟も決まるかと思ったが、そんなことはない。アルマはすっかり今日のお出かけが失敗した気分になって、波紋の立つ水面を見つめながらハァと溜息を零した。
洗顔を終えると、部屋に戻ってブドウを数粒摘んだ。アルマの少食っぷりは相変わらずで、朝食は果物やナッツのみで済ませることも多い。しかも今朝は生来の少食に加えて、緊張で食べ物が喉を通らない。
食事もそこそこに、アルマは姿見を覗き込んだ。
日に焼けることのない白皙の肌。魔女のような黒髪は真っ直ぐで癖がなく、櫛を通さなくてもサラサラしている。紫水晶を嵌め込んだような瞳はよく言えばミステリアス、悪く言えば不気味。ニコリともしなければ誰かを呪っているようにも見える。
以前なら、この容姿を可愛いと思えた。でも今は全然自信が持てない。この姿は"ヒロイン"の持ち物で、自分のじゃない。自分が"ヒロイン"を演じたって、可愛いはずがない。そんな考えがグルグルと頭の中を回っている。
顔を見られたくなくて、前髪を伸ばした。目立たないよう、黒い服を着るようになった。そしたら亡霊女なんてあだ名を付けられて、いつの間にか悪い意味で噂されるようになっていた。
見られないようにした努力が、結果的に見られる事態を招いている。
かと言って、前髪を切るには勇気が要る。俯くのをやめられない。顔を上げたら、彼らの目を見てしまうから。どんな顔で私の噂を言っているのか知ってしまったら、二度と外に出られないような気がする。
(本当、可愛くないな)
黒い毛先を弄りながら、瞳に影を落とす。しかし――この時勇気を出さなかったことを、後にアルマは強く後悔することになるのだった。
この世界の暦は、地球と同じ太陽暦を用いている。七曜も全く同じで、一般的に休日と言えば日曜日を指す。サントレナ学園も休みとなるので、外出をするには適した日取りだった。
レイは、約束の正午ぴったりにいつもの中庭に姿を現した。今日は学校がないからか、制服ではなく私服だ。庶民が着るような、遊びのない落ち着いた衣服。これは庶民に紛れるためというよりも、単に彼の好みだろう。全体的に着慣れている感じがするのがその証拠だ。
一方、アルマは白いブラウスに厚手の黒スカート、灰色のケープという、平生と変わらない地味な出で立ちである。数十年前なら、お固い職業と間違えられただろう。
レイが掌を上にして差し出すと、アルマは大きく仰け反った。決して、触られるのが嫌なわけではないのだが……。
群青色の瞳が、明確に不機嫌を示して細められる。
「……んだよ、その反応は」
「や、その、特に、深い意味は……」
「だったら、そんな嫌がることないだろ。いいから、手ェ貸せ」
「きゃっ」
戸惑うアルマの手を掴み、強引に引き寄せる。ひ弱なアルマは簡単に引っ張られ、勢いよくレイにぶつかった。驚いたのはレイもだった。
「お前、軽いなぁ。ちゃんと飯食ってるか?」
「た、食べてますもん」
「嘘つけ。どうせ果物とか木の実とかだろ。そんなの飯とは言わねぇ」
「う……」
見抜かれている。
アルマの食生活を、おそらく最も不安視している人物がレイだ。その彼を前に、中途半端な誤魔化しは通用しない。
まさかさらにツッコまれるのではないかと恐れるアルマに、レイはふんと鼻を鳴らす。
「とにかく、なおさら安心できねぇ。はぐれないように手繋ぐぞ」
「うぅ、はい」
渋々、アルマは差し出されたレイの手に自分の手を重ねた。その瞬間、痛くない程度にぎゅっと握りしめられる。
アルマは悲鳴を上げそうになったが、すんでのところで喉の奥に飲み込んだ。心臓がドキドキ鳴っている。レイが驚かせたせいだ。自分は何も悪くない、と、アルマは謎の自己弁護を頭の中で繰り返した。
* * *
目指すは隣町、ロドリック街。王都の西を南北に分断する大通りを挟んで、イーゼル街の北にある。貴族上街とも道で繋がっており、そのためか、イーゼル街よりも中流階級層が厚い。
賑やかさも、イーゼル街と比べて段違いだ。通りに並ぶ店はどれも凝った看板を掲げ、店の前面には通行人に見えやすいように大きな板ガラスが張られている。ショーケースには商品が見栄え良く飾られていて、その前で立ち止まる人も多かった。
休日とあって、数え切れないほどの人が歩道を歩き、その間を黒塗りの馬車が行き交う。色んな音が右から左から入ってきて、アルマは目が回りそうだった。
(こっ、こんなとこ歩いて、平気なの? 平気なの??)
すっかり萎縮して、レイの腕に縋り付いてしまっている。そんな彼女を気にしてか、何か言いたげな顔をしているレイには全く気付かない。人混みが怖くて、それどころではないのだ。
「……人目を避けたいなら、下手に人通りの少ない道を行くより、人混みに紛れた方が目立たないと思うぞ」
「そ、それは分かるんですけど、慣れてなくて……」
「だったら慣れろ。オレと一緒なら、ちっとはマシだろ」
「は……はいっ」
容赦がないと見せかけて、その実アルマを労ってくれている。彼の優しさを感じ取ったアルマは嬉しさに上擦った声をあげ、繋いだ手を大切そうに握り締めた。
「あー! 亡霊女だ! 亡霊女が出たー!」
突然、甲高い声が喧騒を切り裂いた。
アルマはほぼ無意識に、声のした方をさっと振り返った。道行く人々の合間から、こちらを真っ直ぐ指差している子供と目が合った。子供は無邪気に笑い、「亡霊! 亡霊!」とはしゃいでいる。親らしき女が子供の言動を止めさせようとするが、子供の無邪気な笑顔をまともに見てしまったアルマは、全身が凍りついたみたいに動けなくなった。
「亡霊女?」
レイが不可解そうに顔をしかめている。まるで初めて聞く言葉だと言う風に。
後で思い返してみれば、彼がはっきりとアルマを"亡霊女"だと認識しているような発言はなかった。"亡霊女"と呼ばれる人間がいることは知っていても、それがアルマだとは思っていなかったのだ。
しかし、この時のアルマはそこまで頭が回らず、レイの前で"亡霊女"と名指しされたことに激しく動揺した。
子供は明らかにアルマを指差している。レイでも他の通行人でもなく、アルマを。
(どうしよう。まさか、そんな。こんなところで)
少し想像力を働かせれば、簡単に予想できることだった。いつもの陰気な姿で外を歩けばこうなることくらい。
けれどレイと約束したことですっかり浮かれてしまって、自分の身なりまで気を使う余裕がなかった。アルマの格好について、レイが全く気にしなかったことも要因の一つだろう。
アルマは怖くて隣を見ることができなかった。「なるほど、亡霊女か。言い得て妙だな」などと言われた日には、二度と立ち直れないだろう。たとえ言葉にされなくても、少しでも理解する顔を見たくなかった。アルマを取り囲む人たちの中に、彼をみつけるのが怖かった。
「亡霊女がつかまったぞ! 悪霊たいじだ! 兄ちゃん、その悪霊どこに連れていくの?」
「も、もうやめなさいったら。失礼でしょ」
母親が子供の口を塞いで、アルマたちに苦笑いで会釈する。その顔は申し訳ないというより、早くここから立ち去りたい一心なのがありありと見て取れた。
アルマは顔を真っ青にし、レイの腕から震える指を離した。自分と一緒にいるとレイがどういう風に見られるのか、この時初めて思い至ったのだ。無思慮にも彼に縋り付いていたことに、後悔と申し訳無さを覚える。亡霊女の連れなんて、良い印象を与えるわけがないのに。
ところが、レイは離れようとしたアルマの手首を掴んで、怒りの滲む声で吐き捨てるのだった。
「何が亡霊だ。馬鹿馬鹿しい」
剣呑に言い返されたことにポカンとする親子を捨て置き、アルマを引っ張って横を通り過ぎる。大声で子供が騒いだことで周囲の人々は一瞬彼らを注視したものの、すぐに雑踏の波間へと散る。アルマが思っていたほど、大きな騒ぎにはならなかった。
レイが壁になってくれたおかげだ。無言で直進する彼の背中を見るアルマの目に、じわりと涙が滲んだ。
自分が情けない。パーティーでシャーリーズたちに返り討ちにされた時だって、こんなに惨めな気持ちにはならなかった。あの時はアルマを守る盾なんてなかった。ただ自分が叩かれていればよかった。だから、ある意味気が楽だったのだ。
今はどうだろう。レイが守ってくれる。レイが怒ってくれる。嬉しいことのはずなのに、アルマに喜びは一切ない。むしろ、前よりもっと苦しいくらいだ。
レイに、嫌な気持ちをさせてしまった。自分がしっかりしていたら、そんな気持ちさせなくて済んだのに。
後悔ばかりが胸を苛む。
滲んできた涙を、レイに掴まれたのとは反対の手でこっそり拭いていると、レイが唐突に立ち止まった。アルマは勢い余ってレイにぶつかってしまい、戸惑いを帯びた目で彼を見上げた。
レイは顔を進行方向から逸れた方へ向け、何かを思案している様子だった。
やがて、好奇心の浮かんだ眼差しでアルマを見下ろすと、親指を立てて脇道を示した。
「ちょっと寄り道するか」
その顔からは怒りがすっかり消え去っていたので、アルマはちょっと拍子抜けした心持ちで、彼に手を引かれついていった。




