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怪物少女の無双奇譚《フォークロア》  作者: あかなす
第三章 衆合地獄篇

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衆合地獄 28

 長い回想がようやく終わって。物語は冒頭――彼女達が部屋に閉じ込められて丸三日が経過した今日に戻ってくる。


 構成する壁も天井も全てがピンク一色に染まっている、その部屋。四方の壁に掛けられたランプが、薄暗いこの部屋全体を桃色に淡く照らしている。そんな場所で黄昏愛は今日も一日、部屋の中央にどっかりと置かれたダブルベッドの上で制服を着たまま、いつの間にか眠りこけていたのだ。


「――……呑気な奴だな」


 愛が目覚めたのを見計らったように、不意にその声は愛から対角線上に離れたベッドの片隅から聞こえてきた。苛立ちを隠そうともしないその声色に愛が視線をやると、そこに一ノ瀬ちりの姿を確認する。


 かくして地獄の第三階層、衆合地獄に愛達が訪れてから、ちょうど一ヶ月目となる今日。黒縄地獄での死闘で左手を失っていた一ノ瀬ちりだったが、怪異特有の自然治癒能力によって、今ではほぼ元通りにまで左手を再生させている。

 そんな彼女は今、自分の膝を自分で抱えて縮こまり、ベッドの隅に収まっている。初めて出会った時から変わらないそのギラついた赤い瞳と灼熱のような赤い髪を目視にて確認し、愛はこれみよがしに深く溜息を吐いていた。


 軋むベッドの上で身体を起こし、重い頭を持ち上げるようにして、愛は改めて周囲を見渡した。愛がこの部屋に訪れた時から何も変わらない。桃色の壁、桃色の天井、桃色の床、白いシーツのダブルベッド、ただそれだけが配置された四角形の空間に、黄昏愛と一ノ瀬ちりが一緒に居る。そこに芥川九十九の姿は無い。ふたりきりである。


「この状況で……よく寝てられるよな、オマエ」


「……退屈だったもので」


 床に両足を下ろし、愛は疲れた表情で前髪を掻き上げる。腰元まで伸びた長い黒髪は地獄に堕ちて以来その美しい艶を保ったまま揺れ動く。視界の端でその様子を捉えていた一ノ瀬ちりもまた、疲れ切った顔で何度目かの溜息を溢すのだった。

 あまりにも奇妙な状況。ふたりとも心ここにあらずといった様子で、所作の一つ一つにどこか苛立ちの色が垣間見える。しかしそれも当然のことだと言えるだろう。


 なぜならば――冒頭にも告げた通り。この場所にふたりが閉じ込められて――丸三日が経とうとしているのだから。


「なんでこんな事に……よりにもよってオマエなんかと……」


「それはこっちの台詞ですよ……」


 いつものようにお互いの言葉に噛み付き合うふたりだったが、しかしその声にいつものような迫力は無かった。此処に来てから何度も同じようなやり取りがあったのだろう、もはや飽きてしまったと言わんばかりにふたり揃って覇気の無い溜息を吐くのだった。


 桃色の壁、桃色の天井、桃色の床、白いシーツのダブルベッド、ただそれだけが配置された空間。窓も扉も存在しない其処は、通称『ノアの箱舟』。此処は、その433号室――俗に言う、セックスしなければ出られない部屋、である。


 ◆


 今日に至るまでの三日間、彼女達はおよそ考え得る限りのあらゆる手を尽くした。その甲斐もあって、未だ外に出られてはいないものの、全くの無収穫という事もなかった。


 例えば、このホテルの部屋は意外と壁が薄い。閉じ込められている間、よく耳を澄ますと隣の部屋の話し声が微かに聞こえてくるのが解ったのだ。

 ちりにはその内容までは聞き取れなかったが、異能により聴力を強化した黄昏愛ならば問題なく聞き取れるようだった。

 そして愛達の声も、どうやら隣の部屋に届いているらしいということも解った。しかし当然、向こうもこちらと条件が同じでその内容は聞き取れない。どんなに助けを叫んでも、ただの怒鳴り声かそういうプレイにしか聞こえていないようで、総じて無反応だった。


 例えば、黄昏愛は自分の分身を部屋の中で生成し、分身と性交渉に及んだ。しかし分身との性交渉は自慰であると判断されたのか、部屋には何の変化も見られなかった。


 例えば、一ノ瀬ちりは赤いクレヨンの異能を使い、拠点の天井に救援のメッセージを遠隔で書き記した。黒縄地獄でも試したことのある手だ。拠点に待機している愛の分身に、自分達が部屋に閉じ込められていることを報せ、分身に外側から扉を開けさせようとした。

 実際これが一番可能性があった。この手を思い付いたのは二日目の朝になってからだったが、思い至ってすぐに実行した。しかし、そこから丸一日以上が経過した三日目の今日になっても、助けが来る気配は無い。


 ちりの異能、赤いクレヨンの遠隔操作には発動条件がある。ちり本人が一度行った事のある場所であること、そしてその場所が動かない物体であること、この二点。

 条件さえ満たせば、後は書きたいメッセージの内容を思い浮かべるだけ。成功すれば文字の量に応じた血が体内から失われ、自分の意志で異能を解除しない限り血文字が消えることは無い。


 基本的に建物の天井は動くことはない。もしも建物自体が崩れるなど不測の事態が起きた場合、つまり血文字の書かれた場所そのものに変化が生じた場合、その時点で異能の効果は例外的にキャンセルされる。

 そして異能が解除あるいはキャンセルされた場合、文字として使用した血液は全て体内に還ってくる。これでちりは異能発動の成功失敗を判断することが出来る。


「…………おかしい」


 だからこそ、今の状況は異常だった。異能の発動は成功している。体内に血液はまだ還ってきていない。つまり拠点の天井に血文字は残り続けているはずなのだ。

 血文字で指示した通り、フロント階のモニターで433号室と同じ階の部屋を選べば問題なくホテル内に侵入出来るはずだし、433号室の扉の前にまで辿り着けるはずである。

 もし外側から扉が開かないのなら隣の部屋に移動してもらい、壁越しにでも聴力を強化した愛同士で意思疎通が出来るはず――


「…………来ませんね、助け」


 ――だが、肝心の助けが来ない。まさか拠点のあの部屋で丸一日以上、天井を見ないで過ごしている……というのは現実的ではないだろう。考えられるのは、既にメッセージは読んでいて助けに向かっているが、何らかの理由によって辿り着けない可能性。あるいは、メッセージを読んでいない、読めていない、読むことが出来ない。そういう状況下にある、という可能性。

 いずれにせよ――向こうでも何か緊急事態が起きている可能性がある。ならば――早々に出なければならない。この部屋から。出る方法は最初から解っているのだから。


「…………」


「…………」


 だが、ここにきて未だ両者、最後の踏ん切りがついていない。たかがセックスくらいで、と考える者もいるだろう。しかし彼女達は、そう考えられない。それだけの話である。

 目覚めて早々、助けがまだ来ていない状況に眉間を指で押さえる愛。その仕草を目で負いながら、ちりもまた溜息を漏らしていた。


「……あとどれくらい待てる?」


 体育座りしていた足を崩し、胡座をかきながらちりが言う。その表情は限りなく無に近い。


「……そうですねぇ……」


 愛は唸りながら両手を頭上に伸ばし、起こした上半身の姿勢を正す。ちりの問いかけに愛は逡巡するような表情を見せて――


「まぁ……いざという時は、私が死にますので……大丈夫でしょう」


「…………あ?」


 やがてなんでもないように口にしたその言葉を、ちりは数瞬遅れて聞き返していた。


「今の私なら簡単に自分の身体を壊せますし、復活までの再生速度も調整出来ます。だから私が死にますので、その間に私の身体を使()()()、あなたが――」


「やめろ」


 咄嗟に愛の言葉を遮るちり。その声色はまるで、獣の唸り声のようだった。


「……ごめんなさい」


 ばつの悪そうな顔を浮かべながら素直に謝ってみせる愛。外的要因が重なると極端な思考に追い込まれやすいところが彼女の最大の弱点とも言える要素だが、しかし今の彼女は独りではない。こうして手綱を握る誰かがいれば、彼女が暴走することはない。

 とは言え、ここにきて自分を犠牲にするような発言が出てくるあたり、追い込まれているのもまた事実であって――「いよいよ腹を括るべきか」と、一ノ瀬ちりは密かに決意を固めつつあった。


『――――――――』


 そんな矢先のこと。隣の部屋から聞こえてきたその微かな物音に、ふたりは揃って僅かに顔を上げる。


「……隣に誰か入ったみたいだな」


「ですね……」


 音のする方向からしてどうやら右隣の部屋、432号室に誰か入ってきたようである。


『――――――――』


 音のする方へ、愛は静かに耳を澄ませる。それは此処に来てから幾度となく繰り返した確認作業。その度に彼女達はがっくりと肩を落としてきた。


「……………………」


 そしてこれが、恐らく最後の確認になるだろうと。愛自身もそんな予感に、どこか覚悟を決めたような面持ちで――


『――――――――聞こえますか、本体わたし


 閉じかけていた瞼が、見開く。


「……! 私の分身です……! 拠点に待機していた、三号の……!」


「…………マジか!?」


 隣の部屋から聞こえてきた声は、間違いなく黄昏愛のものだった。つまりは愛の分身ということである。


「三号、メッセージは確認しましたか?」


『――――はい。状況は把握しています。ですが……』


 壁越しに会話する、ふたりの愛。ようやく訪れた救援に本体の愛の声色は僅かに弾んでいる。


『――――まずは、申し訳ありません。メッセージの確認が遅れてしまいました。それどころでは無かったもので……』


「……それどころでは無かった。メッセージの確認が遅れたのは、何か理由があったんですね?」


 その一方で、もうひとりの愛は、その声にどこか焦燥めいた不安の色を滲ませているのが壁越しにも伝わってきていた。どうやら大方の予想通り、この三日の間に緊急事態が起きていたようだ。


「まずはそちらの状況を教えてください。何が起きているのですか?」


 壁の前に並び立ち、目配せをする愛。そのアイコンタクトを受け取り、ちりもまた神妙な面持ちで息を潜める。努めて冷静に、愛は向こう側に語り掛けた。


『――――…………九十九さんが』


 そうして、僅かな沈黙の後、出てきたその名前に――愛の心臓は嫌な音を立て、大きく震える。


『――――九十九さんが、()()()()()()()。同行していた分身の二号わたしは――()()()()。この三号わたしも――――()()()()()()()()()()


 それは、考え得る中で最悪の可能性と言ってよかった。


『――――お願いします。九十九さんを、助けてください』


 どうやら、今更セックスがどうこう悩んでいる場合では無さそうである。


 ◆


 再び、時を遡ること、三日前。


 二人一組の部隊に分かれ、拠点を出発した少女達。残りの調査対象は、暗号の二行目、第二の座標――西区にある『ノアの箱舟』付近。そして暗号の三行目、第三の座標――南区南西郊外にある『廃墟』付近である。


 そして此処は、酩帝街の南区。最南端には黒縄地獄行きの駅があり、そこを出ると中央区まで一直線、出店や飲食店が建ち並ぶ大通り、通称「歩行者地獄」の存在が代表的な区画である。

 そしてこの歩行者地獄の大通りを一度脇に逸れると――其処には数多の『オブジェクト』が現れる。その様相から、この街の住民にとって南区は、最も()()なエリアとして知られていた。

 と言うのも、西区や東区のようにコンセプトが明確なエリアとは異なり、此処には種類も規模も千差万別な『オブジェクト』が思い思いに建てられている為である。


 例えば、一見して普通のテレビのようでいて、近付くと突然その画面から女性の怪異が飛び出してきたり。例えば、一見して普通の井戸のようでいて、近付くとその奥から女性の悲鳴が聞こえてきたり。

 異能により具現化された怪奇現象の一種、これら『オブジェクト』はこの街では芸術品として扱われ、表現の一種として一般公開されている。

 この街に成立している以上危険な物では無いとはいえ、しかし安易に近付くことを躊躇われるような、そういったある種の意欲的な創作物が街中に多く見受けられた。


 故に南区は酩帝街の中でも特に雑多、あるいは自由、もしくは方針の定まっていない発展途上の場所と呼ばれる。常にお祭りのような雰囲気があり、この区画ですれ違う者達は皆、酷く酔っ払っている。

 良くも悪くも現世に近い治安であると言えよう。伊達と酔狂に塗れた歓楽街――南区はそんな場所であった。


 そんな南区の大通りを南西方向に抜け、道なき道を進んでいるのは芥川九十九と黄昏愛の分身。ふたりは第三の座標が指し示す『廃墟』付近へと向かっていた。

 向かっていると言っても、歩いているわけではない。座標の場所は南西方向の郊外、区画からも外れた南区の最果てである。歩いて向かっていたのでは日が暮れても辿り着かない。よって、愛と九十九は建築物の屋根という屋根を飛び移り、全速力で駆けていた。


 九十九はパルクールでも見ない程の跳躍で数十メートル離れている屋根から屋根、いとも容易く飛び移る。そして愛もまた、蛸の触手で建物の突起になる部分を掴み、器用に宙を渡っていた。

 やがて建物が少なくなり開けた場所へ出ると、九十九は地上を走り始めた。先程までの比ではない疾さで、ぐんぐんと距離を稼いでいく。


「っ、と――」


 地上を走っていた九十九が、不意にその速度を落とした。鳥の翼で宙を飛んでいた愛が後ろから追いつく。


「あんまり本気で走っちゃうと……酩酊に引っかかるな……」


 そう呟く九十九の頬は、酩酊の朱に染まっていた。どうやらある程度までの身体能力なら発揮しても問題ないが、一定の基準以上の出力になると盛者必衰の理に引っかかってしまうらしい。九十九は息は吐きながら、徐々にペースを落としていく。


「大丈夫ですか?」


「うん。なんとか」


 空から声を掛けてくる愛に、手を振って応じる九十九。深呼吸を繰り返しているうち、次第に酩酊が収まってきて――頬に朱を僅かながら残して、再び九十九は大地を蹴った。


「……インターネットの前に、電車を造ってほしいですねぇ……」


 などと愛がぼやいていると、遙か前方に見えてくる巨人の群れ。生やした触手で愛が地図を確認すると、そこが工事現場とされるエリアであることが解った。愛達の向かっている『廃墟』はその先にある。


 工事現場には巨人の怪異が複数人常駐しており、忙しなく働いている。空から見ると、工事現場エリアはその大地にいくつものクレーターのような大穴が空いているのが解った。

 巨人の怪異によって掘り進めたもののようで、彼らは鉄骨や配線のような物資を穴の奥に居るであろう作業員に手渡ししているようだった。

 他にも大穴の周辺には巨大な施設の鉄組みと、線路のような物が地上に引かれていて、どうやら愛の希望通り電車や地下鉄のような仕組みのインフラを造ろうとしているのが解る。


「愛~!」


 そんな地上の様子を眺めていた愛に、九十九がその真下から声を上げていたことに気付く。愛が視線を九十九の方へ下げると、彼女はその場でぴょんぴょんと飛び跳ねていた。


「この先、まともな道が無いっぽい! 渡ろうと思えば渡れなくもないけど……出来れば運んでほしい~!」


「……まぁ、工事の邪魔をしてもいけませんしね。わかりました~!」


 両腕の翼を羽ばたかせ、徐々に降下していく。そうして地上に降りてきた愛の背中に九十九が駆け寄ってきた。


「おんぶ~」


「はーい」


 愛が僅かに膝を屈ませると、その背中に九十九は遠慮なく飛び乗った。そして九十九を背に乗せた愛は、再びゆっくりと上昇していく。


「おー……」


 上空から工事現場の全容を眺める九十九、感心したように声を漏らす。その吐息を背中で感じながら、羽ばたく愛は巨人たちの頭上を超えていった。

 西の果てへと近付いていく。ここまでくると建っている建築物の数も少なくなり、地上には山道のような凸凹とした起伏が目立つようになる。

 それでもヒトの姿は道中ちらほらと見られ――そこにはなんと、畑で田植えのような作業をしている者達の姿が空から確認出来た。


 しかし地獄の土壌は栄養皆無の死の大地。農作物は育たないはず――なのだが、人類とは逞しいもので。恐らく死体や排泄物などを利用して土壌の再生を目指しているのだろう。

 だが実際に歩行者地獄の商店街で、愛達は米を見かけていない。つまり地獄特有の何らかの問題が、土壌の再生を邪魔しているのだ。未だ試行錯誤の段階なのだろう。


「……そういえば、こっちに来てからお米食べてないなぁ……」


「おこめ……? それも食べ物? おいしいの?」


「おいしい……そうですね、おいしいです」


「どんな味?」


「どんな味……うーんそうですね……うーん……お米の味、としか……」


 のんびりと他愛も無い会話をしながら、愛達は田んぼの群れをも飛び越えていって――


「……到着、です」


 拠点を出て数時間後、そうして彼女達は辿り着いた。南区の郊外。西区の居住区と混じり合った南西郊外には、区画を西と南に別ける明確な境界線が存在する。それが、今まさに愛達が向かおうとしている座標――『廃墟』の存在。


 廃墟とは、文字通り廃れた場所。南西郊外に位置する其処は、誰も棲んでいないボロボロのあばら家が幾つかと、そこら中に捨てられた雑多なゴミによって構成されていた。有り様としては等活地獄の廃棄場に近い。どういう理由があって、此処がそうなってしまったのか。今の愛達にそれを知る術は無い。

 地上に降り、ヒトのそれに戻した腕で愛は改めて地図を確認する。座標はこの廃墟の奥を示している。


「さて、行きましょうか――」


 折り畳んだ地図をスカートのポケットに入れ、愛は足を一歩前に出し――


「……………………」


 ――その先へ進もうとした歩みを、思わず止めていた。


 廃墟の周辺は、無数の、黒く褪せた鳥居によって囲まれていた。しかしその殆どが劣化し、形は崩れ役割を正しく果たせていない。それら鳥居には立入禁止を表した黄色いテープがびっしりと張り巡らされている。

 廃墟自体の規模はそこまで大きくはないものの、他のあらゆる場所とは明確に一線を画したような雰囲気を纏っていた。

 それは直視が躊躇われるような、訪れた者をぞくりとさせる冷たい何か。周囲に漂う酩酊の白霧も相俟って、まるで別の世界に来てしまったかのような、恐怖を煽るカタチをしている。


 そんなものを前にした愛と九十九が今抱いている感情は、恐怖よりも警戒の色が勝っていた。明らかに今まで見てきたどの場所とも違う存在、そこから滲み出る、粟立つような悪意に――思考が戦闘時のそれへと切り換わっていく。


「……気をつけて進みましょう」


「……そうだな」


 二人揃って息を潜め、ようやく進めた歩み。黄色いテープを無視し、目の前の鳥居をくぐり抜けた。目標の座標へ向かい、廃墟の奥へと進んでいく。まるで整備されていない獣道のような足場の悪さに手間取りながらも、二人はなだらかな坂を登っていく。


 周囲にヒトの気配は無い。酩帝街という場所においては異常な程の静謐さを伴っている。この静けさは黒縄地獄のそれに近いだろうか。ともすれば、ヒトでは無い何かに視られているような――本能に訴えかけてくるような悪い予感が、彼女達に警戒を緩めさせない。


 ほどなくして、彼女達は到達する。座標の示す場所。この周辺のどこかに、手掛かりが隠されてあるはず。


「…………あ」


 しかし探すまでもなく、それは見つかった。座標の示す場所に、建物は一軒のみ。それ以外、周辺には何も無い。まるでその建物を避けているかのように、一軒の空き家のみが其処に在ったのである。


 そう、空き家だ。やはりヒトの棲んでいる気配は無い、二階建ての一軒家。しかし廃墟の中にある建物としては珍しく、ちゃんと建築物としての体裁が保たれている。材質は劣化し古ぼけた外観に映るが、目立った外的損壊は見られない。壁に取り付けられている窓は白く澱んでいて、中の様子を覗くことは出来そうにない。

 この空き家を除いて、周辺には何も無い。ならば、この空き家の中に手掛かりが隠されていると見ていいだろう。調べる必要があるだろう。


 しかし、肝心の()()()()。その空き家には、出入り口となる()()()()()()()()


 それに気付いて、愛はすぐ両腕に翼を生やし上空に飛翔した。空き家の屋根には煙突のようなものはなく、もちろん入り込めるような隙間が開いているということもない。そのままぐるりと家の周囲を一周するが、やはり扉らしき物は見当たらなかった。


「……この家、変だね」


 空き家に近付いていった九十九もまたその違和感に気付き、慎重にその手で壁に触れる。感触に異常は無い。続いて愛も空き家の壁をぺたぺたと触り始め、隠し扉の類が無いかチェックしていく。が、そういったものもやはり見つからなかった。


「扉が無いと……入れませんよね……」


「うん……」


 確かにその通りである。だが、何も扉だけが家に入る唯一の手段というわけではない。


「……窓から侵入するしかありませんね」


 扉の無いこの空き家には、窓があった。一階と二階の壁にそれぞれ取り付けられていて、鍵こそ掛かってはいるものの、窓ガラスを壊して中に侵入することは出来そうである。


「もしこの建物を所有している方がいたら、申し訳ないですが……」


「その時は謝ろう。一緒に」


 これも脱出の手掛りを手に入れるため――愛と九十九は頷き合い、東側の壁の前まで移動した。そこの壁に取り付けられた、一階の窓ガラス。それを愛は極力大きな音を出さないよう、慎重に――熊の拳でブチ破る。

 窓ガラスは呆気なく割れ、破片が音を立てて崩れ落ちていく。直後、酩酊によって自身もまたその場に崩れ落ちかけた愛の身体を、傍に居た九十九が咄嗟に支えていた。


「っ……では……行きましょうか」


「……うん」


 落ち着いて、息を整えて――あくまでも慎重に。警戒を決して緩めることなく。割れたガラスの窓枠に、彼女達はその足を掛け、空き家の中へ身を投げ入れるのだった。

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