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怪物少女の無双奇譚《フォークロア》  作者: あかなす
怪物少女の無双奇譚 第三章 衆合地獄篇

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衆合地獄 27

 ノアの箱舟。独特な名を冠するこのホテルは、基本的に二人以上の利用を想定され、宿泊よりも短時間の休憩の為に利用されることが多い施設――所謂、ラブホテルである。


 ちなみに現世におけるラブホテルとはその定義が法律で明確に決められている。その定義を満たす建築物は風営法に則り、規制区域内に指定されている場所に建てることが出来なくなる。

 具体的には第一種住居地域、第二種住居地域及び準住居地域は規制区域となっており、学校、公民館、図書館、病院など、それらの二百メートル以内も規制区域と定義されている。

 そしてこのノアの箱舟の周辺はと言うと、当たり前のように()()()()――()()()()()――が建っていた。本来このような場所にラブホテルを建てるのは法律違反にあたるはずなのだが――ここは地獄。法律など存在しないし、有ったところで意味が無い。ラブホテルどころの騒ぎではなく、西区の居住地域は違法建築だらけの有様である。そもそもなぜ地獄に学校や病院が在るのかという話だ。


 話を戻そう。問題はつい先刻のこと。如月暁星に行き先を尋ねられた愛達は、このノアの箱舟に行くのだと、声高らかに宣言してしまったわけだ。


「あー……ひょっとして誤解されちゃいましたかね」


「……最悪だな……」


 揃って溜息を漏らしながら、二人は正面玄関から建物内へと侵入した。まだ此処が例の手掛かりが隠された場所であるという確証は無いが、ここまであからさまだと調べないわけにもいかない。

 エントランスホールは無人。天井高は三メートル程。壁に埋め込まれた、部屋の空き状況が解る液晶モニターだけが薄暗い空間の中で淡く主張している。


「これ……ハリボテじゃないです。電気が通ってますよ、このモニター……」


 中央のモニターから右隣にはエレベーターのような自動開閉の扉が設置されていた。それ以上の特筆すべき物は何も無い、現世のそれと遜色ない、至ってシンプルな造り。しかし現世と遜色ない造りという時点で、地獄においては異常だという事は最早言うまでもない。


「しかもタッチパネルです……! 一周回って新鮮ですね……」


「もうそれくらいじゃ驚かねえぞオレは……」


 タッチパネルのモニターを慣れた手付きで操作する愛。モニターに映った部屋の番号を指で押すと、その部屋の間取りと簡単な説明文が表示される。そして表示された間取りの下には、決定とキャンセル、二つのボタンもまた表示されるのだった。


「おい、このエレベーター……ボタンが無いぞ。開かねえ」


 一方でちりはエレベーターの方を確認していた。しかしエレベーターには開閉ボタンのような物が見当たらず、ちりが前に立っても何の反応も示さない。


「あぁ、でしたら……恐らくこちらのモニターで先に入る部屋を選ぶことで、エレベーターも連動して動く仕組みなんだと思います」


 ラブホテルの利用方法は各施設によって大きく異なる。フロントが無人のタイプはこのように、モニターから自分の手で部屋を選ぶ仕組みであることが多い。


「詳しいな、おまえ……」


「それは、まあ」


「……言っとくが、入るつもりは無いぞ」


「わかってますよ……あら?」


 各部屋の間取りを確認していた愛だったが、液晶の上を滑らせていた指を不意に止める。その視線は、とある部屋の説明文に釘付けになっていた。愛の様子に気付いたちりもモニターの前に移動する。

 モニターに映し出されていたその部屋の番号は、433号室。表示上の間取りに変わった点は見られない、ごく普通の部屋のようだが――


「この部屋の説明文だけ、少し……変じゃないですか?」


「あ……?」


 他の部屋の説明文は、具体的な間取りの実寸値、配置された家具やアメニティ類の紹介など、利用客が求める一般的な情報が記載されている。しかしこの433号室だけは、他のそれとは少々様子が異なるようであった。


「ええと、何々……『これをご覧の皆様。当ホテルはお楽しみいただけておりますでしょうか? 喜んでいただけたのなら、この施設を造営した甲斐があったというものです』……」


 その説明文は説明にあらず、まるで私信のように淡々と文章を綴っているものだった。怪訝な表情を浮かべつつも、ちりはそれを音読していく。


「『さて。この度は予てよりご要望を頂き『()()()』にて製作を進めてまいりました、こちら――()()()()()()()()()()()()()()に関しまして。無事、改装工事が終了致しましたことを、ここにご報告させていただきます。皆様の今後より一層のご発展を、心より祈念申し上げます』……? なんだこりゃ……」


 要するに、433号室は「()()()()()()()()()()()()()()」らしい――が、それ以上の情報は一切記載されていない。社交辞令的な文章に、肝心の部屋自体に関する情報はどこにも含まれていないのだった。


「あっ……見てくださいこれ」


 胡散臭い文章に眉を顰めているちりに、何かに気付いた様子の愛が声を掛ける。よく見ると説明文の下部、画面端に小さく記載されている一文があった。愛がそれを指差しながら音読する。


「注意事項……『こちらの部屋は必ず二人以上でご利用ください。()()()()()()()()、誤って単身で入室されてしまったお客様に関しまして、『工務店』は一切の責任を負いかねます。予めご了承ください』……」


「…………」


 ほとほと溜息が出る。意味深な部屋に意味深な文章。あからさまに怪しい。十中八九、何らかの怪異ないし異能が絡んでいると見ていいだろう。だがこの際、それは問題ではない。罠だろうと何だろうと、見つけてしまった以上、彼女達に他の選択肢は存在しないのだから。


「……入るしかねェか」


「ですね……」


 愛の人差し指が決定ボタンをタップする。モニターが切り替わり「エレベーターをご利用ください」という文字が表示されてすぐ、小気味良い鐘のような音が鳴り響いた。エレベーターの扉が自動的に開け放たれる。箱舟の中へ乗り込む愛とちり。その扉は二人が収まると再び自動で閉じ、重い駆動音と共に上昇を始めるのだった。


「…………」


「…………」


 エレベーター内、二人の間で会話は無い。致し方ないとは言え、二人でこんな場所に来るなんて思ってもみなかったことである。先程までセックスがどうとか茶化していた愛でさえ、流石に戸惑っているようではあった。その表情はどこか神妙で、ともすればそれは『あの人』への罪悪感のようなものを抱いているのかもしれなくて――


「……ハッ、くだらねェ」


 そんな静寂を打ち破るように、一ノ瀬ちりは大袈裟に舌打ちをしてみせた。誰よりも動揺しているはずなのだが、それをおくびにも出さないように、露骨なほど不機嫌を装って。


「手掛かり捜すだけだ。頼まれたって何もしてやらねェからな」


 どことなく流れていた緊張の糸を、軽く嗤い飛ばすように。ちりの赤い瞳は挑発的に愛を見上げる。煽るようなその視線に、愛は思わずその口角を上げていた。


「……バカですかあなた。それともなにか期待でもしてます?」


「誰が。こっちから願い下げだっつの」


「まあ、デリカシーの無いひと」


「オマエが言うなオマエが」


 売り言葉に買い言葉。しかしそのおかげで、すっかりいつもの調子を取り戻す二人。そんな彼女達を乗せたエレベーターは、数秒後にはその動きを止めていた。再び鐘のような音が鳴り、扉が自動的に開かれる。エレベーター内を出てすぐ、真っ直ぐに通路を進むと、左右の分かれ道へと突き当たる。しかし迷うことはない。よく見ると壁に張り付けられた左矢印の看板が点灯しており、それの通りに行けばすぐ433号室の前まで辿り着くことが出来た。


「……ここだな」


 先陣を切るちりが不意に歩みを止め、眼前に立ち塞がる冷ややかな金属のドアノブへと鋭い視線を落とした。ちりは短く鋭い呼気と共に肺の中の淀んだ空気を吐き出すと、恐る恐る右手を前へと伸ばし、体温を一切感じさせないその無機質な機構を固く握り締める。微かな力を込めて手首を捻り込んだ瞬間、重厚な見た目とは裏腹に予期していた物理的抵抗は全く発生せず、扉は呆気ないほどの軽快さを伴って内側へと滑らかに開かれた。

 乾き切った蝶番が擦れ合う微小な金属音が重苦しい静寂を唐突に切り裂き、開かれた暗闇の奥底から正体不明の生温かい空気がゆっくりと漏れ出してくる。背後で息を呑む愛と無言のまま視線を交わし合い、互いの目の中に宿る僅かな緊張と決意を確認し合った二人は、重い足取りで慎重にその未知なる領域へと足を踏み入れていく。


「ほう……?」


 玄関から続く短い廊下を抜け、張り詰めた緊張感の中で視界が一気に開けたその直後、愛の口から感嘆とも戸惑いともつかない奇妙な声が漏れ出た。眼前に広がる光景は、先程まで彼女たちが抱いていた暗く凄惨な予感を根底から覆すほどに、極めて異質で暴力的な色彩に満ち溢れていたのである。空間を構成する四方の壁面、床に敷き詰められた柔らかな絨毯、頭上の天井に至るまで、視界に飛び込んでくる全ての面積が狂気的なまでの鮮やかなピンク一色によって完全に塗り潰されていた。

 壁面の等間隔に配置された装飾過多なランプシェードからは、爛れた桃色の光が空間全体へと粘着質に降り注ぎ、本来ならば薄暗いはずの室内を毒々しく、どこか淫靡な雰囲気で彩っている。部屋の重心を占める中央部分には、周囲の強烈な色彩から完全に浮き上がった純白のシーツが眩しい、過剰なまでに巨大で豪奢なダブルベッドが圧倒的な存在感を放ちながらどっかりと鎮座していた。安価な人工芳香剤の甘ったるい香りと、微かに混じる消毒液の匂いが鼻腔の奥を強く突き刺す。

 それはどこからどう見ても何の変哲もない、ただの俗悪なラブホテルの一室が構築されていたのである。


「なんだか……実家のような安心感がありますね……!」


「どんな実家だよ……」


 あまりにも陳腐で、むしろその俗っぽさが彼女の感覚を麻痺させたのか、愛はその思いのほか清潔に保たれた室内を感心した面持ちで見回している。忙しなく視線を泳がせながら、無邪気なまでの安堵を口にする愛の傍らで、ちりは重く溜息を漏らしていた。愛の的外れな冗談に鋭く突っ込みを入れる気力すら持ち合わせていない。深い溜息と共に泥を思わせるほど重い足取りでベッドへと歩み寄り、そのまま自身の体重を支えることを放棄して崩れ落ちる動作を伴って、豊かな弾力を持つダブルベッドの縁に深々と腰を沈めたのである。


「……あれ? でもこの部屋……」


 しかし。沈み込むスプリングの柔らかい感触に自身の体重を預け、束の間の休息を見出そうとしていたちりの耳に、再び愛の疑問を含んだ声が届いた。しばらくの間、珍しい玩具でも見つけたかというほどの熱心さで部屋の隅々まで観察を続けていた愛の横顔から、先程までの呑気で弛緩した色が微かに剥がれ落ちている。


「シャワールームが……見当たりませんね。いや……というか……」


 彼女の大きな瞳は特定の方向を忙しなく彷徨い、脳内でこの異常な空間の設計図を組み立て直している思考の変遷を、微細だが確かな困惑の兆候としてはっきりと示し始めていた。この手の宿泊施設において、汗や汚れを洗い流す為の水回りの設備が一切存在しない事実は、構造上の致命的な欠陥である。

 しかし、直面している問題は単なる水回りの不在だけに留まらなかった。壁から壁へと視線を滑らせる愛の表情が、気付いてはならない真実に触れてしまった恐怖を帯びて、徐々に血の気を失い青ざめたものへと変化していく。


「……()()()()……?」


 指摘されて初めて、ちりもまたこの部屋の決定的な異常性を強烈に認識させられることとなる。そう、この部屋には在るべきはずのものが無い。


「……は? ちょっと待て……!」


 その瞬間、ちりの背筋を悍ましいほどの悪寒が駆け抜け、全身の産毛が総毛立った。愛の言葉に誘発され、無意識の内に部屋全体の構造を再確認しようと自身の背後を振り返ったちりの網膜に、決して受け入れることの出来ない信じ難い光景が焼き付けられたのである。


()()()()()……ッ!? さっきオレ達が通った扉が……玄関に繋がる廊下が……()()()()()()()()()()()()()()ッ!」


 つい数分前、確かに自らの手で冷たいノブを回し、通り抜けてきたはずの玄関への入り口。それが気配すら残さず、空間ごと綺麗に切り取られたと錯覚するほど完全に消え去っているのである。そこにあるのは、他の面と寸分違わず連続した、平坦で悪趣味なピンク色の壁のみであった。

 ちりは弾かれた動作でベッドから立ち上がり、壁面へと突進してその両掌を乱暴に押し当てる。皮膚から伝わってくるのは硬質な冷たさと僅かな壁紙の凹凸のみであり、隠し扉の継ぎ目や空間の歪みといった、異常を示す感触は全く得られない。


「もしかして……閉じ込められた……?」


 完全な密室。常人であれば直ちに呼吸を乱し、発狂の縁に立たされる絶対的閉鎖状況の中、二百年の時を生き抜いてきた一ノ瀬ちりの闘争本能は瞬時に覚醒する。つい先程まで身体を支配していた重い疲労は一瞬にして脳の隅へと追いやられ、代わりに極限まで研ぎ澄まされた五感が、空間の全容を無慈悲にスキャンし始める。筋肉を硬直させ、重心を低く落とした獣特有の低い構えで、見えない敵の微かな気配を探り、仕掛けられた罠の有無を血走った鋭い目で執拗に探求していく。


「…………は?」


 そんな彼女だからこそ、その異質な存在に真っ先に焦点を合わせてしまったのだろう。全方位を警戒する視線がベッドの南側に位置する壁面を捉えた際、そこにだけ周囲の狂騒的なピンク色の色彩と全く調和しない物体が存在している事実に気付いたのだ。

 純白のベッドの足元側に位置するその壁には、簡素な木造の額縁が孤立して、確かな自己主張を持って掲げられている。その内側には美しい絵画が飾られているわけではなく、冷ややかな光沢を放つ金属の鉄板が埋め込まれており、表面には何らかの文字列が深く、鮮明に刻み込まれていた。


「……これは……」


 ちりの視線の先にある奇妙な装飾品の存在に、遅れて愛も気が付いた。二人はもはや引き寄せられるように額縁の傍へと歩み寄り、そこに記された無機質な文字の羅列を視神経が捉えた瞬間、絶句へと追い込まれる。

 何故なら。その冷たい鉄板には、一切の比喩も冗談も交えない極めて直接的な表現で――この異常な空間を支配する、絶対的なルールが宣言されていたのである。


 たった一行。()()()()()()()()()()()()()()()()、と。


「なんだそりゃあァッ!?!?」


 断末魔のような悲鳴が部屋中に響き渡る。恐怖や警戒心といった感情を遥かに通り越し、純粋な混乱が極限まで圧縮された絶叫が、逃げ場のないピンク色の壁に何度も反響し、部屋の空気を小刻みに震わせた。


「うわ……なるほど。そういうことですか……」


 一方で全てを悟ったように、全身の筋繊維から一気に力が抜け落ち重力に逆らう動作すら完全に放棄して、純白のシーツの上へと力なく仰向けに倒れ込む黄昏愛。その双眸に映るのは、絶望すら通り越した完全なる虚無の感情。一切の感情を剥奪された空虚な顔貌を浮かべ、細く長い、酷く乾いた溜息だけを、天井の毒々しい光に向かって延々と吐き出し続けている。


「ざけんなコラァッ!! 出せやオイッ!!」


 ただ無言で立ちはだかる壁面に向かって、血を吐く響きを伴った咆哮を叩きつける一ノ瀬ちり。だが当然のことながら、その無機質な障害物は少女の怒声に対して一切の応答を示すことはない。


「この……ッ!!」


 言葉による威嚇が全くの無意味である事実を悟るや否や、ちりの身体は既に一切の躊躇いなく物理的な破壊行動へと移行していた。血肉が千切れるほどの強い力で握り込まれた右の拳が、空気を鋭く裂き、爆発的な怒りに任せて壁面へと真っ直ぐに撃ち込まれる。骨と硬質な壁が激しく衝突する鈍い衝撃が走るが、立ちはだかるピンク色の障壁は微小な亀裂一つすら許さない。反作用として返ってきた圧倒的な暴力が、ちりの拳の骨格を砕け散る直前の限界値まで軋ませ、神経束を焼き切る鋭い痺れを伴う痛みが脳髄へと伝達される。

 それでも彼女は諦めない。ならばと、今度は左手を前方に掲げ、指先から血の色に染まった爪を刀剣に匹敵する鋭さと長さを持って一気に伸長させる。空気を切り裂く微かな振動と共に、鋼鉄すらも容易く両断する絶大なる破壊力を持った斬撃が、躊躇いなく憎き壁面へと連続して振り下ろされた。


「チッ……!」


 しかし、壁紙の表面を僅かに抉る手応えすら全く得られず、ただ硬質で不可視の盾に強引に弾き返された強烈な反発だけが、耐え難い不快な反動として腕に重く残される。無傷のまま平然と立ち塞がるピンク色の絶壁を前に、ちりの口から激しい苛立ちと深い焦燥が色濃く混じった鋭い舌打ちが、密室の淀んだ空気の中へと虚しく溶けていった。


「……退いてください」


 何の成果も得られないまま無意味に壁を攻撃し続けるちりの背中を、ベッドの上から静かに眺めていた黄昏愛がゆっくり、その表情から一切の感情を読み取らせることなく立ち上がった。ちりが先程まで爪を立てていた平滑な壁面へと鋭利な視線を真っ直ぐに突き刺し、その細くしなやかな右腕を躊躇いなく天へと掲げる。


「魔腕……構築……!」


 その身に宿る『ぬえ』の怪異としての異能が、その意思に呼応して脈動を始める。彼女が魔腕と呼ぶそれは、複数の動物の特異な筋肉構造をヒトの規模サイズで再現した人体改造の産物。右腕を構成する細胞の一つ一つが変異を遂げ、筋繊維を繋ぎ合わせた怪物の腕へと成っていく。

 少女の華奢な右肩の関節を起点として、重力に逆らうかのように黒光りする巨大な筋肉の塊が周囲の淀んだ空気を激しく押し除けながら異常な速度で膨張を続け、四メートルはあろうかという高い天井にまで悠々と到達する。圧倒的な質量と熱量を備えたその巨大な腕が、空間の圧力を乱し熱風を巻き起こしながら、目標を粉砕すべく豪快に後方へと振りかぶられた。


「うおっ……!?」


 肌を焼く熱の余波に気が付いたちりが、目を見開き慌てて絨毯の敷かれた床を強く蹴り飛ばし、愛の背後を安全圏と定めてその場から大きく跳躍し退避行動を取る。視界の端からちりの姿が完全に消失した事実を冷徹に確認した直後、愛は床材の構造を内部から粉砕するほどの力強い踏み込みを見せ、限界まで引き絞られた魔腕の巨大な拳を、忌まわしいピンク色の壁面に向けて一切の容赦なく激しく殴打した。

 凄まじい破壊の衝撃波が密室の空気を激しく叩き、逃げ場を失った震動が鼓膜を破らんばかりの暴力的な暴風となって部屋中に何度も何度も木霊する。その一撃に込められた圧倒的な運動エネルギーは、かつて対峙したあの無類の膂力を誇る悪魔であり、あらゆる障害を力のみで捻じ伏せてきた芥川九十九の暴威にさえ肉薄するほどの破壊力を秘めており、通常の建築物の壁面であれば瞬く間に粉塵へと変え、空間そのものを崩壊させてしまうものであった。


「…………むむ」


 しかし、それほどの極限的な暴力の嵐が部屋を蹂躙し過ぎ去った後でさえ、桃色に塗られた平坦な壁面は微小な亀裂すら生じることなく、ただの掠り傷一つ負わずに平然とそこに存在し続けていた。


「これは……どういうことでしょう」


 自らの放った一撃の確かな手応えと、目の前に厳然として存在する不変の現実とのあまりの乖離に、愛は信じられないものを見る目で沈黙する壁面を見つめ、静かに困惑の声を漏らした。


「……異能だ。この部屋そのものが異能によって構築された……現実改変系の『人造呪物オブジェクト』なんだ……!」


 怪異が操る多種多様な異能という枠組みの中には、世界の摂理を無視して新たな概念や独自のルールを創造し、それを強引に現実世界へと反映させてしまうといった類の、極めて特異で理不尽な規格外チート――現実改変能力が存在する。

 例えば、かつて愛達が戦ったシスター・アグネスの『八尺様』は、自分よりも年下の相手には『絶対に』負けないというルールを相手に押し付けることが出来る、現実改変能力の一種。

 この部屋もそういった現実改変能力に分類される異能なのだと一ノ瀬ちりは推測する。条件を満たさない限り『絶対に』出られないというルールの具現化――人造呪物オブジェクトとして、この部屋は成立しているのだと。

 さらにこの場合、先程ベッドの傍らの壁に飾られた額縁に記されていたあの無機質な文字列を思い返せば、その脱出のための条件と言うのが恐らくは――


「それじゃあ、本当に……セックスしないと出られないんですか……?」


 ――そういうことに、必然としてなってしまうわけなのである。


「嘘だろ…………」


 愛の口から淀みなく発せられた、その直接的で身も蓋もない言葉が耳の奥深くに届いた瞬間、ちりの全身から急速に血の気が引いていく。認めたくない現実に直面した彼女の思考回路は、その先の推論を拒み、活動を完全に停止したがっていた。ちりの焦点の合わない視線は特定の対象を結ぶことなく、ただ薄暗い桃色の虚空をあてもなく彷徨い揺れ続けている。


「あれ……というか私達……暴力を振るったのに……」


 一方で、己の右腕を構成していた禍々しい黒き筋肉の塊を瞬時に分解し、細胞の並びを組み替えて元の華奢な少女のそれへと完全に復元させた愛が、自身の白い手のひらをまじまじと見つめながら、何か重大な事実に思い至った表情で静かに口を開く。


「酩酊、してませんよね? 何の制約も感じません。普通に異能が使えてますよ、私」


「……確かに。どういうことだ……何なんだこれ……」


 酩帝街が齎す盛者必衰の理は、その影響カにある全ての暴力行為を禁止し、また異能の使用も一部制限されてしまう。万能な『ぬえ』の異能も、この街では本領を発揮出来ずにいた。身体を巨大化させるような変身は出来ないし、超音波を利用した分身達との意思疎通も距離が離れすぎると叶わない。

 しかしその制約を、この部屋の中では一切感じないのだ。愛もちりも全く酩酊していない。頬は白いままだし、暴力も異能も全力で振るうことが出来ている。


 ……ただしこの八方塞がりの密室状況において、意識を麻痺させる心地よい酩酊を享受することが出来ないという事実は、現実と一切の逃げ場なく鮮明に向き合わされるという意味で、返って最悪の事態なのかもしれないが。


「と、とにかく……結論を出すには早計だ。他にも脱出する方法が……まだあるかもしれないだろ……!」


「……それは、そうですが……」


 僅かに震える声で根拠のない希望的観測を口にするちりの言い分にも確かに一理はあるのだが、しかしその線が絶望的なまでに薄いことも、今の愛の怜悧な頭脳は既に正確に勘付いていた。お互いがこの理不尽な空間の真の答えに薄々気付いていながらも、そこから逃避するために敢えて焦点をずらし、視線を合わせることを避けている。真実を明確な言葉にしてしまえば二人の関係性すらも崩壊してしまうという得体の知れない恐怖から、二人はお互いの顔を直視することが全く出来ないでいた。


「まずは冷静になりましょう……そもそもここに来たのは手掛かりを捜す為です」


「そうだ……それすらまだ見つかってねえ……! 探すぞ……部屋中を調べるんだ……!」


 本来の目的である情報の探索という大義名分を必死に引っ張り出すことで、直面したくない真実から一時的に意識を切り離そうとする二人。こうして、完全なる異能の密室に閉じ込められてしまった愛とちりは、逃避行動の一環として、狂気的なまでに桃色に染まったその部屋を隅々まで物色し始めたのだった。


 継ぎ目一つ見当たらない平滑な壁、足元に敷き詰められた柔らかな絨毯の繊維の奥、ランプシェードが怪しく照らす天井の四隅、そして部屋の中央に鎮座する巨大なベッドの下の暗がりに至るまで、目で見て指先で触れることの出来る箇所は片っ端から執拗に確認していく。


「つーかどんな異能だよ……! セッ……しなきゃ、出られない……とか……ッ! クソが……本体の怪異見つけ出して絶対にブッ殺す……!」


 理不尽極まりない密室のルールに対する怒りと屈辱が、ちりの口から呪詛のような恨み言となって絶え間なく吐き出される。彼女は毒づきながらも、その両手は狂気的なまでに桃色に染まった壁面にぴったりと這わせ、秘密の抜け道や隠し扉に繋がる僅かな手がかりを求めて執拗な探索を続けていた。しかし壁の表面からは壁紙の継ぎ目一つ、針の先ほどの微小な凹凸すら感知することはできない。冷たく平滑な感触だけが、彼女の焦燥感をより一層煽り立てる。


 その一方で黄昏愛は、重力という物理法則を完全に無視した異様な姿で空間の探索を行っていた。彼女の四肢は人間としての骨格構造を離れ、八本の脚を持つ巨大な蜘蛛の性質を色濃く反映した異形へと変化しており、その両手両足を天井の平面にしっかりと張り付けて這い回っている。さらに顔面には昆虫特有の複眼を精製し、極限まで強化された視力によって、壁から床、天井に至るまでの全方位を隈なくスキャンしていく。

 だが、昆虫の驚異的な視覚機能や、蜘蛛の機動力をもってしても、この部屋に存在するはずの綻びを発見することは叶わなかった。壁紙の裏側への侵食を狙って試みた毒液の散布も、物質を融解させる強力な酸による攻撃も、この異能によって具現化された絶対的な空間の前では全くの無意味であり、完全な徒労に終わっていた。


「この街に酩酊の及ばない場所があるなんて……あきらっきーさんはご存知なんでしょうか……」


 ふざけた状況ではあるが、同時にこの部屋の存在は愛達にとって極めて重大な意味を持つ大きな発見でもあった。この無機質で悪趣味な部屋は間違いなく、酩帝街という絶対的なルールに支配された環境においては数少ない例外であり、特異点と呼ぶべき場所なのである。

 他に酩酊の影響を受けない場所といえば、ジョンの異能によって創り出される夢の世界が挙げられるが、あれはあくまで現実世界に存在しない仮想の領域だからこそ成立する裏技のようなものであった。しかしこの部屋は、ノアの箱舟という具体的な施設の中に、間違いなく現実に存在している。そういう物理的な逃げ道がこの街に存在するという事実こそが、何よりも重要なピースであった。

 つまり、現実味を帯びてきたという話である。こんな場所が存在するくらいなのだから、この街から出られる方法も間違いなく存在するはずだと、その方法に向かって着実に近付いてきているのだと、そうポジティブに捉えられる根拠になり得るのだ。


 ぺたぺたと不気味な足音を立てて天井を這い回っていた愛だったが、これ以上この手段で調べる箇所は無いと判断したのか、やがて自ら生成した強靭な蜘蛛の糸を伝って、するすると音もなく床へと降り立っていた。着地と同時に全身の細胞を元の華奢な人間の少女のそれへと急速に戻しながら、深い徒労感を含んだやれやれといった風の長い溜息を吐き出す。


「……セックスしなければ出られない部屋、だなんて。そんなの……」


 床に降り立った愛の冷ややかな視線の先には、純白のベッドの足元に位置する壁に立て掛けられた、あの忌まわしい額縁が真っ直ぐに捉えられていた。簡素な木枠に飾られたその暴力的な文字列は、真っ黒な墨汁のような液体で乱暴に書き殴られており、無駄に勢いのある太い筆さばきが、制作者の低劣な悪意をこれでもかと強調しているように感じられる。その文字の羅列に視線を向ける愛の白磁の如き表情は、深い怒りと嫌悪感によってむすっとした不機嫌さを露わにしていた。


 愛の内に渦巻く激しい怒りの真の矛先は、脱出条件そのものよりも、この部屋に入る前にモニターで確認したあの欺瞞に満ちた説明文に対して向けられていた。この空間を、あの下劣な説明文は「想いが必ず成就する特別な部屋」などと、甘美で美しい言葉で偽装し表現していたのである。


 つまりあの謳い文句の真意は、「相手を無理矢理にでもこの密室に閉じ込めてしまえば、脱出の条件を満たすためになし崩し的に性行為に及ぶことになり、結果として身勝手な欲望を叶えられる」という、極めて暴力的で吐き気を催すようなシステムを意味している。それは相手の意思を完全に無視した、願いの叶え方としては最悪の手段であり、著しく歪んだ自己中心的な想いの結実に他ならない。


「……なんて、悪趣味」


 無論、この施設が純粋に互いを慈しみ、愛を育むための真っ当な場所として利用されるケースもあるのだろう。しかし、もしこの部屋の絶対的なルールを、邪悪な欲望を抱く何者かが知ってしまったらどうなるか。そのルールを悪用した者によって、逃げ場のない密室で望まぬ行為の餌食にされてしまう無力な誰かがいるとしたら。相手の尊厳を踏みにじるその行為は、あまりにも不誠実であり、万死に値する罪悪である。

 そんな暴力的な搾取を、決して()などという尊い言葉で呼ぶことはできない。()に狂い、その果てに自ら命を断った過去を持つ彼女にとって、この部屋のシステムは自身の存在意義すらも冒涜する、断じて許容できない唾棄すべき所業であった。


「……ふんっ!」


 次の瞬間、愛の身体は弾かれたようにあの忌まわしい額縁に向かって跳躍し、激しい怒りに任せて殴りかかっていた。異能によって創られたこの空間の物体を物理的に破壊することが不可能であると、これまでの検証で痛いほど解っていても、そうして怒りを外へと発散させなければ精神が破綻してしまうとでも言うように。彼女の右腕は瞬時に巨大な熊のそれへと変異し、凄まじい剛力と質量を備えた怪腕が空気を引き裂きながら高く振り翳される。

 爆発的な踏み込みと共に勢いよく壁へと突き立てられた愛の剛腕は、標的である額縁の中央に深くめり込み――凄まじい破壊の衝撃音と共に、壁に立て掛けられていたそれは無様に床へと叩き落とされた。


「……え?」


 激しい衝突の余波が収まった後、確認されたのは予想通りの結果であった。壁面は勿論のこと、直撃を受けたはずの額縁も全くの無傷である。だが、床に落下した額縁は裏側の板を上にして仰向けに倒れており――その裏面の構造を見た愛は、怒りを忘れ、不意を突かれたように大きく目を丸くしていた。


「は? おまえ何して……」


 密室に突然響き渡った凄まじい炸裂音に、反対側の壁を調べていたちりも驚いて弾かれたように愛の方へと駆け寄る。そして愛の視線が固定されている先――床に転がった額縁の裏側を覗き込んだちりもまた、驚愕に目を丸くして言葉を失うのであった。何の変哲もないはずの額縁の裏面の板には――見覚えのある黄色い台紙のカードが、一枚だけ静かに埋め込まれていたのである。

 その奇妙なカードは、まるで最初からその場所に存在するように額縁の木材と完全に一体化して嵌まり込んでおり、指先で引っ掛けて取り出すことは不可能であったが、表面にはやはり、彼女たちが血眼になって探し求めていたあの見慣れた文字列が深く刻み込まれていたのだった。


「……『437222■』……」


「……見つかりましたね、手掛かり……」


 その暗号は間違いなく、四つに分割された座標の一部だった。それを図らずも発見した愛とちりであったが、本来であれば手を叩いて喜ぶべきこの劇的な成果を前にしても、二人の顔には言葉にし難い極めて複雑な表情が浮かんでいた。愛は無言のまま床にしゃがみ込み、拾い上げた額縁をもう一度、元あった壁の定位置へと重々しい動作で掛け直して――訪れた、沈黙。


「後は、ここから出るだけ……か……」


 ちりの口から絞り出されたその呟きに引かれるように、愛の視線がごく自然な動きでちりの横顔へと吸い寄せられていく。ちりもまた、同じタイミングで愛の方へと首を巡らせていた。


「…………」


「…………」


 赤と黒の視線が、逃げ場のない密室の中央で静かに交じり合う。数秒という時間が永遠にも感じられるほど、重苦しく息の詰まるような静寂が二人を包み込んだ後――


「…………嫌です」


 ――とうとう、既に限界まで張り詰めていた黄昏愛の堪忍袋の緒が、音を立てて千切れ飛ぶ。


「絶対に嫌です……っ!! こんなの……納得いきませんっ!!!」


 それはこの理不尽な状況に対する、積もりに積もった恨みつらみが存分に籠もった、文字通り魂からの絶叫であった。薄暗いピンク色の部屋全体にビリビリと響き渡る程の凄まじい怒りの叫びに、不意を突かれたちりの身体はびくりと大きく跳ね上がる。


「おッ……オ、オレだって……嫌だっつーのッ!! でもッ、だからって……ど、どうすんだよこれェ!? この状況ォ!!」


 愛がはっきりと口にしたことで、これまでどこか冷静に振る舞おうと必死に努めていた自分の我慢が急に馬鹿らしく思えてきたのか――堰を切ったように、続けてちりもまた己の本心のままに荒々しい声を張り上げるのだった。


「ていうかオマエさあ!! 効率がどうこう言って、九十九と一緒に風呂入るのは気にしねーくせに……お……オレとそういうことすんのは……気にするんだなッ!? ぶっちゃけ、オレとシたところで……べ、別に……オマエにとっちゃ蚊に噛まれたようなもんだろッ!? さっさと襲ってヤっちまったほうが効率的なんじゃねーのッ!?」


「嫌ですよそんなこと、はしたないっ!! それに、それとこれとは話が別です!! セックスは愛し合う者同士じゃないとシちゃ駄目なんですっ!!!」


「そッ……!? そんなの、オレだって……!! ぐ……くッ……ええい、クソッ!! だったら何が何でもここから出る方法見つけるぞッ!!」


「ちゃんと真剣に捜してくださいよッ!?」


「そりゃこっちの台詞だコラァッ!!」


 顔を真っ赤にして喚き散らし、騒ぎ立て、激しく怒鳴り暴れ回る二人の少女。普段から軽口を叩き合う仲ではあるがいつも以上に容赦なく、売り言葉に買い言葉を重ねる少女達。それは最後の悪あがき。彼女達にとっては必要な儀式であった。


 かくして彼女達が、無機質な部屋の中の再調査と称した不毛な口論を始めてから、更に数時間という長い時間が無情にも経過し、当然のようにろくな成果も挙げられないまま――窓のない密室の外では黒い太陽が沈み、夜の闇に赤い月が昇ろうとしていた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 酩酊街で察してたけど。まさか如月工務店が出てくるとは!他にも出てくるかな?楽しみ
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