衆合地獄 26
斯くして。各部隊がそれぞれ手掛かりを入手し、拠点に戻る頃には。太陽は沈み、地獄の赤い空は黒く翳りを見せ始めていた。
拠点へ一足先に戻っていたのは一ノ瀬ちり、そして黄昏愛。遅れて芥川九十九と愛の分身二号が帰ってきた。全員揃ったのを確認した後、彼女達は早速情報共有に取り掛かるのだった。
「やっぱそっちにもあったか……」
ちりが取り出した黄色い台紙のメッセージカード。それと同じ物を九十九もまた懐から取り出してみせ、互いに突き合わせる。図書館で手に入れたカードには『45●』、デスティニーランドで手に入れたカードには『037778』の数字列がそれぞれ刻まれている。
「四角の記号で区切って、前半分と後ろ半分の数列がそれぞれ緯度と経度を表しているんだったか」
「ですね。例えば図書館の座標『43●069611■141●50058』のように、四つの数値を全て集めれば一つの座標になるはず」
酩酊の霧が漂う中、テーブルの上に広げた地図を取り囲む少女達。しばらく地図と睨み合っていたちりが、不意にその赤い爪で、地図の北側をおもむろに指差した。
「『45●』ってよ……なんとなく……北区っぽくねーか? 図書館の座標の頭が『43●』で始まってるわけだしよ」
「……いえ、そうとも限りません。地図というのはそう単純なものではないのですよ、赤いひと。緯度や経度は、数字がひとつ前後にズレるだけで、全く見当違いの場所を示すのです。正直、今手元にある情報だけではまだなんとも……」
衆合地獄の地図に薄っすらと無数に書き込まれた縦横の線。これらを現世における緯度経度の基準線に見立て、線の位置を元に仮の数値を定義することで暗号化が可能。
無論、地獄と現世は空間そのものの規模が異なる。そもそも地獄は地球上のどこにも存在しない異世界。そもそも惑星であるかどうかすら解らない。
あくまで今回の地図に記載された経緯度の基準線は、この地図の製作者――フィデスが勝手に見立てた設定ということになる。
経緯度という現世の常識を知っていて、それを暗号に結びつける閃きさえあれば、誰でもこの暗号は解くことが出来る。しかし、言葉にするのは簡単だが――実際にその暗号を解くとなると、なかなかどうして難しい。
数値化できるといっても、今の愛達にはそれを自身の目算によって大まかに推測するというアナログな方法しかアプローチする術を持たない。
加えて、必要な数値が一つでも欠ければ、全く別の座標が示されてしまう。それ自体は現世においても同様だが、正確な座標を絞り込む為にはやはり、手掛かりを四つ全て集める他無さそうだった。
「ほーん……まぁこれ自体フェイクって可能性もまだあるしな。いずれにせよ、四つの場所全てを確かめる必要はあるか」
生前では学校にほとんど通わせて貰えていなかった一ノ瀬ちりにとって、この手の前提知識を必要とする計算は正直さっぱりだった。それでも持ち前の地頭の良さと勘の鋭さから、愛の説明にも素直に納得を示す。
「では明日、残り二つの場所にそれぞれ出発しましょう。組み合わせは今日と同じで問題無いですね?」
「おう」
「うん。異議なし」
「了解です、本体」
元々方針は決まっていた為、話し合いはすぐにお開きとなる。ひとまず、今日やるべきことは全て終わった。
「さて……話し合いはひとまずここまでにして。そろそろいただきましょうか」
地図を片付けたテーブルの上、愛は帰りに出店に寄って貰ってきた紙袋いっぱいの串焼き肉やたこ焼きといった食品の数々を所狭しと並べ始める。やることやったら、後は腹ごなしの時間だ。ちなみに分身も同じ事を考えていたようで――結果、倍の量がテーブルの上に並ぶこととなった。
「しッかし、夢の世界ねェ……マジで何でもありだな」
「うん。久し振りに身体動かせて、ちょっとすっきりした」
「夢の中なので実際に動いてたわけじゃないですけどね……もぐもぐ……」
愛が並べたそれらの食べ物を、各々が自由に手に取っては自らの口へと運んでいく。肴に飲むのは酒ではなくただの飲み水だが、周囲に漂う酩酊の霧のせいか、ただの水でも酔っ払ったような感覚に陥るのがこの街の罪深いところだろう。あっという間にへべれけの完成である。
「聞いた噂じゃ、映画館なんてものもあるみてーだしよ。生きてた頃でさえ行ったことねーぞオレ……」
「ふうん……貧乏だったんですか?」
「本当にデリカシーの無い奴だなオマエは!?」
言いながら蒸した芋を口いっぱい頬張る愛に、ちりはこれ見よがしに大きく溜息を吐いた。
「チッ……まァ隠すようなことでもねえ。オレぁ親に殺されたんだよ。十二のガキの頃だ」
串に刺さった肉を食い千切りながら、どこか不貞腐れたような表情でちりは語る。
「映画館どころじゃねえ、自由に外も出歩かせて貰えなかったな。学校もほとんど行けてなかった。ようするに虐待だよ虐待。今どきそんな珍しくもねえだろ」
二百年経った今でも忘れられない程、ちりにとって生前の体験は地獄以上に地獄だった。当時抱いた憎しみは未だに新鮮で、ちりの中に深く傷を残している。彼女が九十九に対して執拗なまでに『居場所』を求めるルーツは、存外ここから来ているのかもしれない。
一ノ瀬ちりの生い立ちは、不幸以外の何物でもない。憐れみを抱く者もいるだろう。無論、そんなものをちりは求めてなどいないのだが――
「……確かあなた、1997年に死んだって言ってましたよね。その時に12歳ということは……1985年生まれ?」
「あ? それがなんだよ」
しかし、相手は黄昏愛である。他者を顧みないことにかけて、彼女の右に出る者はいないのだ。
「ババアじゃないですか!」
「誰がババアだクソガキ! つーか気にすんのそっちかよ!?」
「えぇ~? 気にしてほしいんですか? 面倒くさいヒトですねぇ」
「違ッ……やんのかコラァ!?」
「ふふ……ちり、どうどう」
まるで漫才のようなやり取りを繰り広げる愛とちり。その様子を九十九にまで笑われて、勘弁してくれとぼやくちりは天を仰ぐのだった。
「でも、そういうの嫌でしょう? あなた」
「ケッ……知ったような口を利きやがる……」
しかしその傍若無人ぶりが、時として誰かの救いになることも……まあ、あるにはある……のかもしれない。
「そういうテメェはさぞ裕福な家庭で育ったんだろうな。堕ちてきた時から綺麗な身なりしやがって……別に羨ましくもねーけどよ」
まるで酒のように水の入った容器をあおる。普段あまり酔うことのないちりが、この場においては微かに頬を朱に染めているようだった。
「愛にも、親がいるの?」
九十九はそんなことを意外そうに尋ねる。ちり同様、生前の九十九もまた自身の親によって殺されたわけだが、九十九に関してはその親という概念からよく解っていなかった。
人間には誰しも自分を産んだ親という存在がいる。九十九にとっての親という概念はそれ以上でもそれ以下でもない、ただの情報なのである。
「親……ですか。うーん……いたような、いなかったような……もぐもぐ……」
そして尋ねられた愛だが、何とも言えないといった表情で、問いに答える素振りもなく咀嚼を続けていた。どうやら愛の記憶喪失は相当根深いもののようで、愛する『あの人』のことだけでなく、自分自身が普段から誰と関わりどのような生活をしていたのか、未だに何も思い出す気配が無いという状態なのだった。
「おいおい……親のことも思い出せねぇのか。難儀だな」
「そうみたいです。まあ……思い出せなくて困るようなことでもないので、別にいいんですけどね」
しかしそんな状態でいながら、あっけらかんとそんなことを言いのけてしまうのが黄昏愛という人間である。流石のちりも可笑しくなってしまったのか、思わずニヤリと口角を上げていた。
「いいのかよそれ……ッたく。おまえがそんなんじゃ親も苦労しただろうな。結構ドライな家庭環境だったりして」
「かもですねぇ」
凄惨な家庭環境や記憶喪失すらも酒の肴にしてしまう少女達。そんな、この街に来てからの彼女達の日常は、まるで――
「つーか、おまえが生きてた時代って……ひょっとしてアレか。すまーと、ほん? ってのが流行ってたんじゃねえのか? よく知らね―けどよ」
「ふっ……いやいや……本当にお婆ちゃんじゃないですかあなた……」
「すまーとほん……? なにそれ」
「便利ですよ。現代人の必需品です」
「異能より便利?」
「それは……どうでしょうねぇ……」
――まるで。普通の世界に生きる、年相応の子供のようで。
「はぁ……ごちそうさまです。先にシャワー浴びてきますね」
「お風呂? 私も一緒に入りたい」
「おまえらさあ……いい加減別々に入れよ……」
「あら、どうしてですか?」
「ちりも一緒に入らない?」
「…………遠慮する」
その日もまた、夜が更けるまで――彼女達はたらふく食べ、たらふく飲み、何でも無いことを気の済むまで駄弁ってから――各自、眠りに就くのであった。
◆
翌朝。今回も前回と同様に、二人一組の部隊に分かれ、少女達は出発した。
残りの調査対象は、暗号の二行目、第二の座標――西区にある『ノアの箱舟』付近。そして暗号の三行目、第三の座標――南区南西郊外にある『廃墟』付近である。
そして此処は、酩帝街の西区。居住区とも呼ばれるこの住宅街を――黄昏愛の本体、そして一ノ瀬ちり、二人は並んで歩いていた。
酩帝街はひとつひとつの区画がとてつもなく広大である。西区の拠点から図書館や遊園地に行って戻ってくるだけでも日が暮れてしまう。
しかし今回彼女達が向かっているのは西区にある建物。拠点にしているホテルもまた西区の建物であり、かなり近場だった。現在、愛とちりは地図を片手に、座標の示す場所へゆっくり徒歩で向かっている最中である。
縦長のビル群が立ち並ぶ住宅街。ここに衆合地獄の住人たちは棲んでいる。しかし全地獄の総人口の半数以上を占めるという衆合地獄で、一人ひとりに住む部屋を与えるというのはなかなか現実的ではない。
それでも可能な限り実現に向けて策を講じた結果、西区の住宅街はその殆どの建築物が公的な宿泊施設となっていった。個人の所有宅を持つ者は殆どいない。
あの堕天王でさえマンションに棲んでいるわけで、地獄の土地は広大だが無限ではないということである。今でも西区では増築工事が現在進行系で進められていた。
第二の座標、ノアの箱舟という名の建物は、住宅街を西に進んだ奥のエリアにある。高く積み重なった建築物の数々に囲まれた細い路地を、愛達は西へ西へと進んでいった。
「……地獄には、石油とかそういう、自然に採れる資源なんてほとんど無いはずですよね?」
「あぁ……地獄に元々ある資源なんざ川の水か、人間くらいなもんだ」
路地を並んで歩く二人。中央区ほどの忙しなさは無いが、かなりの数の通行人が路地を行ったり来たり流動している。
「黒縄地獄の大聖堂もそうでしたけど……じゃあこの街の建物に使われてる素材も……」
そんな折、愛は街の中で遠くに見える巨大な影――デスティニーランドでも見た『だいだらぼっち』の巨人怪異が担いでいる、鉄骨らしきものを指差す。
「異能による産物だろうな。例えば……等活地獄に武器の剣を具現化する怪異が居るんだが、熱を操る他の怪異がそいつの剣を溶かして、鉄として再利用しているところをオレも実際に見たことがあるぜ」
「へぇ……異能って便利ですね」
「おまえほど便利な異能を持ってるヤツをオレは見たことが無いけどな……」
地獄には何も無い。だからこそ異能という資源は他の何をおいても重要で、等活地獄ではそれを奪い合う者達の暴力が横行している。それを律する法も無い。
そんな環境ではまともな建築物も造った端から壊されてしまうわけで、等活地獄が衆合地獄に次いだ人口数であるにも拘わらず文化レベルが低いのはこれが原因である。何の制約も無い、そういう意味では等活地獄以上に自由な環境は無いだろう。
だが――自由なだけでは平和は手に入らない。自由の為には不自由を選択することも時には必要で。衆合地獄の酩帝街は、それをまさに体現しているようだった。
「西区は住宅街と聞きましたけど、建ってるのはほとんどホテルですね」
「だな……」
歩きながら、愛達は周囲に視線を配る。ホテルの隣に他のホテルが当たり前のように建ち並ぶ景色は、まるで現世のホテル街にも似た節操の無さだ。
実際、そういう目的を想定した施設が殆どだろう。どのホテルも出入りする者達は性別関係なく二人組以上であることが殆どだった。
「……最近、シてないなぁ……」
そんな道中、藪から棒に。ホテルの外装をぼうっと眺めていたかと思いきや、突然そんなことを独り呟く黄昏愛。
「……あ? 何を……」
思わず聞き返すちりだったが、聞き返して、すぐに後悔した。嫌な予感しかしない。こういう時のちりの勘はよく当たる。
「セックスです。今にして思えば……『あの人』が亡くなる前日にシたのが最期だったなあって……」
そう言って遠くを見つめる愛の目はどこか儚げで。本人にとってはふざけているつもりも無く至って真面目な話題なのだろう。だから余計にたちが悪い。
「オマエ……なんでそんなどうでもいい事ばっかしっかり覚えてんだよ……」
「どうでもいいとはなんですかぁ」
「どうでもいいだろうが……アホか急に……」
この街に来てからしばらく平和な日常を過ごしていた愛とちり、気を張ることも無いおかげか以前よりも二人の間で言葉数が若干増えているようだった。
「はぁ……人肌が恋しい……」
「知らねェよ……ひとりでヤってろ……」
しかし口を開く度に、黄昏愛という女が存外にも年相応に抜けていることが解っていく。ミステリアスなのは見た目だけで、その中身は意外なほどシンプルだ。欲望のままに、思ったことは何でも嘘偽り無く口にしてしまう。純粋であるとも言えるが、純粋過ぎるのも考えものである。
黙ってりゃただの美人なのにな――と、ちりは密かに溜息を漏らすのだった。
「あ、そうだ……この際ですからはっきり聴いておきたいんですけど。九十九さんとはどこまでいってるんですか?」
そんな、なんでもない会話の流れで――なんでもない事のように、軽やかに口にした黄昏愛のその一言に、一ノ瀬ちりの心臓は人知れず大きく跳ね上がっていた。
「ねえねえ、どこまでいってるんですか~? いくら九十九さんが鈍感で、あなたが意外なほどウブだったとしても、流石に何も無いってことはないですよね?」
「………………」
どこまで、とは。
「……なんの話だよ」
ちりの思考回路が目まぐるしく駆け巡る。思考が混濁して、息が詰まる。視線が定まらない。胸の奥がざわついている。そして、辛うじて出てきたのが、そんな取り繕ったような言葉だった。
だって――いやいや。まさかそんな。たかが数ヶ月程度、一緒に居ただけで。二百年間、誰にも明かさずひた隠しにしてきたこの想いが、バレるはず――
「え。だってあなた、九十九さんのこと好きでしょう? 見てれば解りますよ」
バレてた。
「……なんで、オレとあいつが。大体……女同士だぞ……」
「あら、昭和のヒトはお固いですね。交際において最も重要なのは、お互いの性自認と性的指向です。例えば私はレズビアンですし、『あの人』だってそうです。なので私達はお互い問題なく愛し合えていましたよ」
「……良い時代に生まれたんだな、オマエは」
「時代なんて関係ありません。大事なのは自分の気持ちです」
芥川九十九に対して抱く並々ならぬ想いを、二百年間。一ノ瀬ちりは周囲にずっと隠してきた。ちりが生きていた時代の日本では、恋愛のみならずあらゆる事柄について未だ性差別的な風潮が根強く残っていた。
それもまた一因ではあるものの、そうでなくとも一ノ瀬ちりという人間の性格上、彼女が周囲に自身の弱みとなり得る情報を隠したいと考えるのは自然だろう。
「それで? 結構長い付き合いなんでしょ? 流石に何かありますよね? ね?」
「……………………」
隠してきたつもり、だったのだが。どうやら付き合いの短い黄昏愛にすらバレる程度には、ちりの九十九に対する感情は周囲にダダ漏れだったらしい。
つまり、等活地獄に居た頃も。屑籠を始めとする周りの連中には、バレバレだったということで――
「えっ? まさか……本当に何の進展も無いんですか? うわあ……」
「ッ……うるせえなァ……!? 余計なお世話だっつの……!」
ちりは羞恥で真っ赤になった顔を隠すように腕をぶんぶんと振るう。酩酊したような千鳥足で愛から距離を置こうとするちり、その背中を愛は追いかけ回していた。
「余計な世話も焼きたくなりますよ。九十九さん、お顔がかなり良ろしいですからね……ぼやぼやしてると、他にライバルが出てくるかもしれませんよ?」
なんでこんな奴にそこまで言われなきゃならないんだ――という怒り半分。そして、図星半分。実際、そのライバル筆頭とも言える存在――黄昏愛の登場によって、芥川九十九は大きく変わり始めているのだから。たちが悪いのは、こんなことを宣っている張本人が、ライバルである自覚すらも無いことである。
「……それをテメェが言うなっつの……」
「何のことですか? それより、ねえ、いいじゃないですかもうこの際。恋バナしましょうよ恋バナ。私にノロケさせてくださいよ~!」
「テメェ自分がノロケたいだけだな!?」
デリカシー、なにそれおいしいの? といった具合に、ぐいぐい距離を詰めてくる黄昏愛。路地で騒ぐそんな二人に、通行人たちの訝しげな視線が集まっていく。
「オマエラ何見てんだゴラァ!?」
恥ずかしさのあまり、そんな視線の群れに対して一ノ瀬ちりは半ば八つ当たり気味に声を荒げていた。
「げえッ……ヤンキーだ……」
「コエー……」
獣のような鋭い瞳孔に睨まれた通行人たちは咄嗟に視線を逸し、足早に立ち去っていく。
「チッ……はァ……ったく」
そんな自分自身に対して、ちりは今一度、深く息を吐いていた。九十九の事となると冷静さを失うのが彼女の最大の弱点だ。それを自覚しているからこそ、情けなさに溜息が出る。
あるいは黄昏愛のように、自分に正直になることが出来ればそれが一番良いのだろう。好きな人に対して、好きであると、当たり前のように口にすることが出来れば、きっとそれ以上に幸福なことは無い。
だが、一ノ瀬ちりにはそれが許されない。許しては、いけないのだ。
「……マジでそういうんじゃねえんだよ。そもそも、オレには……」
そもそもオレには、芥川九十九を好きになる資格なんて――本当は無いんだから。
「え? 今なんて――」
通行人たちの雑踏に呑まれて、掻き消えてしまったちりの声。慌てて愛はもう一度、彼女の声に耳を澄まそうとして――
「あれれっ……! 愛ちゃんっ!?★」
愛の耳は別の声を捉える。一度聞いたら忘れられない、鈴の鳴るようなその声は不意に、反対側の路地から聞こえてきた。声の主に名前を呼ばれた愛が、咄嗟に意識をそちらに向けると――
「あっ……あきらっきーさん!」
「やっぱりそうだ★ 久し振り~っ★ 見かけたから声かけちゃった★ ごめんねっ、お邪魔だったかなっ?」
如月暁星がそこにいた。暁星は愛達とは逆方向に路を進んでいたようで、ぱたぱたと手を振りながらこちらに引き返してくる。
そんな今日の彼女の服装は、グレーのパーカーに黒のショートパンツ、それに白いキャップ帽にサングラスという極めて地味な格好。いつものツインテールもほどいて髪を下ろしている。それでも隠しきれないトップアイドルのオーラが彼女の全身から滲み出ているようだった。
「いえ、そんなことは……?」
そんな彼女の背後で蠢く白い人影に気付き、愛は首を傾げていた。その人影が誰のものなのか、愛は咄嗟に解らなかったが――よく見ると、その顔には見覚えがある。
「ふふん★ 今日はキョン子ちゃんとお忍びデートだよ★」
暁星と一緒に行動していたのは、意外にもあのゴスロリ少女、キョン子であった。しかし今日のキョン子の服装は、確かにゴシックロリータではあるものの、普段から着ている黒色を基調とした素材の物とは異なる白と淡い桃色を基調とした、フリルが多めの衣装を身に纏っていた。いつものキョン子とはかなり印象が異なる。
「デートじゃないしぃ……ただ一緒に映画観に行くだけでしょぉ……」
気怠そうに呟くキョン子だが、その表情からはそれほど嫌そうには見えない。いつもとメイクを変えているのだろう、頬にはチークのような赤みを帯び、普段より血色が良く映る。
「えへへ★ キョン子ちゃん、いっつもライザちゃんと一緒に居るからさ★ なかなか捕まらないんだよねー★ 今日はラッキーだったよ★」
「はぁ……ライザさま……今日はお疲れで……ずっと眠っててぇ……相手してくれないから……仕方なくですぅ……昨日いっぱい構ってもらえたから別にいいですけどぉ……」
鬱陶しそうに眉を顰めるキョン子に対し、遠慮なくその左腕にしがみつく暁星。なんとなく、普段の彼女達の日常が垣間見える風景である。
「偶然か……?」
ちりは愛の背後で息を潜め、まるで番犬のように暁星とキョン子の様子を窺っていた。あからさまに警戒している。
「流石に偶然でしょう。落ち着いてください」
愛に咎められたちりは、面白くなさそうに鼻を鳴らしてみせて――スカジャンのポケットの中で密かに鋭く伸ばしていた赤い爪を引っ込める。
お忍びとわざわざ言うくらいだから、完全なプライベートの外出なのだろう。しかし如月暁星はこの街の王であり世界的に有名なアイドルである。この地味な格好も変装のつもりなのかもしれないが――
「うおっ……生あきらっきー様じゃん……」
「ギャッ……キョン子ちゃんのレア私服、可愛ッ……!」
――案の定、まるで意味をなしていない。周囲から先程までの比ではない量の視線を感じる。周囲に視線を配ると、誰もがあきらっきーの姿に浮足立っているようだった。
誰も直接声を掛けるようなことをしないのは、マナーを守っているというより酩酊による影響が大きいようである。現に通行人たちの中には数名その場で倒れている者もいた。
「愛ちゃん達もお出かけ?★」
「はい。これから『ノアの箱舟』という場所に行くつもりです」
地図に手書きで描いた印を指差しながら愛が答える。といっても暗号の座標がノアの箱舟そのものを示している保障は無く、正確にはその近辺になるわけだが、地図上に名称が記載されている建物がその座標周辺だとノアの箱舟以外に無かった為、ひとまず其処を解りやすい目標地点として定めている。
ノアの箱舟という名称の建物、その現物を愛達は実際に見たことがない。地図で見る限り規模的にはさほど大きくないようだが、その名称だけではどういった施設なのか皆目見当もつかない。
だからこそ、警戒心の強いちりがノアの箱舟の調査を最初に名乗りを上げたことで今回の班ごとの行き先は決まったわけなのだが――
「え゛っ……のッ、ノアの箱舟っ!?★」
ノアの箱舟という名称を聞いた途端、如月暁星はその大きな瞳を更に大きく見開かせ、その場から飛び上がるような勢いで驚きの声を上げたのだった。
「……あ? なんだよ」
明らかに動揺した様子の暁星に、ちりは目を細めながら静かに吠える。
「ふぅ~ん……?」
その狂犬じみた赤い瞳孔を睨み返すのは、キョン子と名乗る可憐な少女の、瞳孔すら見えない大きな黒目。文字通りの屍体が如き、命を感じさせない冷たい視線が、愛とちりを見定めるように、じっとりと纏わりつく。
「へぇ……あんたらってそういうカンジなんだぁ……なんか意外っていうかぁ……」
「きょっ、キョン子ちゃあんっ!? あッ、あははっ、ご、ごめんねっ! 立ち入ったこと聞いちゃったねっ! ほんとごめんねっ?★」
「……?」
わけもわからず謝られ、戸惑う愛。まるで聞いてはいけないことを聞いてしまったかのように振る舞う暁星の様子は、誰の目にも明らかなほどに怪しかった。
「ささっ、キョン子ちゃん! わたしたちは映画館に行くわよっ★ それじゃおふたりさんっ、呼び止めちゃってごめんね★ じゃあねっ★」
「えっ、あの……?」
急に話を切り上げて、そそくさとその場を後にしようとする暁星。思わず呼び止めようとする愛だったが――
「だ、だいじょうぶ! 絶対、誰にも言わないからっ★ それじゃっ!」
などと、やはりわけのわからない事だけを言い残して、彼女達は愛の前からそそくさと離れていくのであった。
「何だったんでしょう……?」
「……なんか、どうしようもなく嫌な予感がしてきたぜ……」
◆
そしてやはり、ここでも一ノ瀬ちりの嫌な予感は的中する。それも彼女にとって、最悪の形で実現することになるのだった。
「これって……どう見ても……」
「ああ……こいつは……」
かくして、目標地点に辿り着いた愛とちり。目の前には『ノアの箱舟』と看板の貼られた、マンションタイプのビルが一棟。
ビルの外装は、窓を除く全てが蛍光色のピンク色に塗り潰されている。開け放たれた正面玄関を奥に進んでいくと無人のエントランスホールがあり、そこには建物内にある各部屋の番号とその空き状況が確認できる液晶モニターが壁に埋め込まれていた。
この光景を、この建物を、愛は現世で見た覚えがある。ちりでさえ記憶の片隅に、テレビか何かで見た覚えがあった。あるいは、見たことが無くても「ここがそうなのか」と察することが出来るかもしれない。
この施設について、様々な呼称が存在する。が、やはり一般的にはこう呼ばれる場合が多いだろう――
「…………ラブホテルだ」




