衆合地獄 6
楽屋として招かれたその一室は、剥き出しのコンクリートに囲まれて、ライブで使われた衣装や機材が散乱している。壁に掛けられた灯籠が、妙に煙たいその一室を淡く照らしていた。部屋の中央には鉄製のテーブルがどかんと置かれ、その四方にパイプ椅子が雑多に並べられている。
そんなどこか退廃的な雰囲気漂う楽屋の中に、彼女達の姿はあった。先程までステージの上で歌い、踊り、演奏していた彼女達――『Dope Ness Under Ground』――そのメンバー達である。
斯くして彼女達の楽屋に訪れた黄昏愛、芥川九十九、一ノ瀬ちり。そんな三人の視界に、まず最初に飛び込んできた光景は――
「おええええええええええええええええええええええええっ★」
床一面に吐瀉物を盛大にブチ撒ける、堕天王の姿であった。
「……オイ。いい加減どうにかなンねえのかヨ、ソレ」
「ううっ……ごめんねえ、フィデスちゃん……★ 久し振りのライブだったから、つい張り切りすぎちゃって……うえっぷ★」
涙目で四つん這いになっている堕天王を冷ややかに見下ろすのは、銀髪の修道女、フィデス。パイプ椅子に座り、組んだ両足をテーブルの上に放り出して。その右手には黒縄地獄の名産、煙草もどきが黒い煙を燻らせている。
「フフッ……どうか気になさらないでください、我が王」
そんな冷たい印象のフィデスとは対照的に穏やかな口調で、四つん這いの堕天王に語りかけるのは、金髪碧眼のライザ。柔らかな微笑を浮かべ、堕天王の背中を擦り続けている。
「これは貴女の努力の証であり、無事に成し遂げたという最高の結果なのです。恥じるものではありません」
「ライザちゃん……っ★ ありがとぉ……★」
「今宵も完璧なパフォーマンスでした。同じ舞台に立つ身でありながら、思わず見惚れてしまいそうになる程に……やはり貴女は私の心を掴んで離しませんね、我が王」
「え、えへへ……ほんとありがとね、ライザちゃん……でもそれ以上は、ちょっとマズいかも……?★」
爽やかな顔をして堕天王を口説き落とそうとするライザだったが、言っている傍からその肩を突如、何者かにがっしりと掴まれていた。
その正体はゴスロリファッションに身を包む怪異――『キョン子』などというふざけた偽名を名乗るドラマーの少女。ピンクのインナーカラーが見え隠れする黒い髪、ぱっつんに整えられたその前髪の隙間から、ホラー映画さながらの恐ろしく鋭い瞳孔を覗かせている。
「ねぇ……ライザさまぁ……キョン子はぁ……? キョン子は褒めてくれないのぉ……?」
か細い声色は嫉妬に震え、ライザの肩を掴む手に力が入る。その様子に「あわわ……★」と青ざめる堕天王だったが、しかしライザは表情ひとつ曇らせることなく、ふっと爽やかに微笑みかけるのだった。
「フフッ……妬いてしまったかな? 待たせてすまないね、愛しき君。相変わらず素晴らしい演奏技術だった、正直圧倒されたよ。メンバーとしても、恋人としても、君の隣に立てることを私は誇りに思うよ」
「あはぁ……ライザさまぁ……嬉しいぃ……これからもずっと一緒ですぅ……」
隈の深い大きな黒目を忽ちとろんと蕩かせて、キョン子はライザの胸元に寄り掛かる。その華奢な身体をひしと抱き締めるライザ。
「楽屋で乳繰り合うナ、気色悪ィ」
仲睦まじいそんな二人の様子に対し、フィデスは冷ややかな視線を送り続けていた。
「あぁ……? 何見てんだよ殺すぞぉ……?」
大きな黒目をギョロリと動かして、黒いマニキュアの中指を突き立てるキョン子。それを受けてなお、フィデスは涼しげな表情で煙草を吹かしている。
「フフッ……レディ達、どうか私のために争うのはやめておくれ。可愛いお顔が台無しだよ」
「寝言は寝て言えバァカ。つーかペットの躾けくらいちゃんとしとけヨ、さっきからキャンキャンうるせェゾ」
「あはぁ……コイツほんとムカつくぅ……。テメェこそさっきからヤニ臭ぇ口で吠えてんじゃねぇぞブス。ドブの臭いがするんだよぉ。あぁ、それとも……その臭いって実はタバコとは全然関係無くてぇ……もしかしてただの加齢臭なのかなぁ? 気にしてたらごめんねぇ、おばさん……?」
「そういうキサマは全身から死臭が漂ってるゼ。キョンシーの怪異ッてのはどいつもこいつも臭くて敵わんガ、こんなんでも好き好んで抱くヤツがいるんだから世界は広いよナァ。我慢してやってんのカ、それともそういう趣味の変態なのカ? 丁度イイ、恋人に訊いてみろヨ。動く死体を抱くのはどんな気分だッてナァ」
「マジで殺すぞ」
「ヤッテミロ」
「フフッ……参ったね、これは」
「あ、あはは……★ み、みんな~……? 仲良くねぇ……?★」
王とは思えないほどのへっぴり腰で苦笑する堕天王は、床に吐いた自分のゲロを雑巾で後始末している。
そんな一幕を、楽屋の出入り口付近にて、ただただ唖然と眺めるばかりの愛達三人なのであった。
「……あァ? 誰だキサマラ」
ヒトの気配に気付いたフィデスが鋭い紅眼を愛達に向ける。堕天王を始めとする面々もそこでようやく気付いたのか、その視線を一斉に愛達へと注いだのだった。
「あっ、ロアちゃん★ 連れてきてくれたんだ★ ごめーんっ、ちょっと待っててねーっ★」
青いツインテール翻し、堕天王はわたわたと走り回る。ゲロを拭き取った雑巾を錆びたバケツの中に放り込んで、髪の乱れを手櫛で少し整えてから、改めて愛達に向き直る。赤と青のオッドアイ、燦然と煌めいて――先程まで盛大にゲロっていたとは思えない清楚な美少女が、そこに居た。
「もぉ~キミ達さぁ~! せっかくボクが連れてくる前に散々脅かしておいたのに、これじゃあ台無しじゃないか!」
愛達の背後で、ロアは子供のように頬を膨らませ抗議の声を上げている。それを受けて「なんだロアの差し金か」と納得したフィデスとキョン子は瞬く間に興味が失せたように、愛達から視線を外していた。
「おやおや……」
その一方でライザだけは興味深そうな熱い眼差しを愛達に送っている。
「三人とも、なんて可愛らしいレディ達だ。ようこそ、お客様。その愛らしいお顔を、よく見せていただけませんか? もっと近くで……」
「あはは……ライザちゃ~ん……?★ それ以上はホントにやめておいた方がいいと思うなぁ~……★ キョン子ちゃんの爪が肩に食い込んでるよぉ~……?」
「フフッ……道理で右肩の感覚が無いと思っていました。残念……次は私に会いに来てくださいね、レディ達」
諦めた様子のライザがキョン子と共に楽屋の奥へと引っ込んでいく。果たして、この奇妙奇天烈な音楽集団『Dope Ness Under Ground』を率いるリーダーにして衆合地獄の堕天王――『あきらっきー』と、愛達はついに対峙したわけである。
「はじめましてっ★ わたしの名前は――」
「あきらっきー、ですよね」
食い気味に反応を示した黄昏愛は、珍しくどこか浮かれているようにさえ映った。
「生前に、見た覚えがあります」
「わあっ★ 生前のわたしを知っててくれてるんだっ★ 嬉しいなあっ★ えっと……黄昏愛さん、だよね★ 何年生まれだったのっ?★」
「西暦2000年です。2017年に死にました」
「わっ、ほんと!? わたしも2000年生まれ! えーっ、嬉しい!★ 配信、見てくれてたのかなっ? ありがとねっ★」
「あ、いえ……恋人が貴女のファンでしたので。私自身は、そこまで……」
「それでもありがとうっ★ 近い年代の女の子と話す機会なんて中々無いから嬉しいよ~★」
「そ、そうですか……」
堕天王は本当に嬉しそうに、愛の手を両手で包んで無邪気な笑みを浮かべていた。流石の愛でも邪険には出来ないか、躊躇いがちにその手を握り返す。
「で……そっちのあなたが幻葬王の九十九さんで、その後ろのあなたがちりさんですねっ★ 急に呼び出してごめんなさいっ、迷惑だったよねっ? ちょっとお話がしたかっただけなの、すぐ済むからねっ★ ごめんね★」
「あ、ああ……大丈夫だ」
あまりに友好的な雰囲気に、つい先刻まで臨戦態勢だった三人は完全に動揺していた。九十九でさえ躊躇いがちに応じる始末である。裏表が無いのか、はたまた素のように見せかけた演技なのか。いずれにせよ、その無邪気な笑顔はヒトを虜にして止まないアイドルのそれであると納得せざるを得ない美しさであった。
「こほん……ええと、それで。私達に話、というのはなんでしょう」
気を取り直すように軽く咳払いをして、黄昏愛は問いかける。あきらっきー。愛がまだ生きていた頃、現世ではアーティストとして世界中で活躍していた超有名人である。何より『あの人』が強く推していたことを愛は思い出している。
しかしそんな動揺を今は押し殺し、愛は平静を装っていた。警戒は怠っていない。地獄で他人を信じることが如何に危険か、これまでの戦いで身を以て味わってきたからこそ。そう簡単に信じることは出来ないのだ。
「うんっ、それじゃあ早速だけど……今回のライブ、観てくれたよねっ★」
「はい……」
一体どんな交渉が持ちかけられるのか、眉を顰める愛だったが。
「ライブの感想★ 聞かせてほしいなあって★」
そんな不安とは裏腹に、堕天王は天使のような微笑みで。あっけらかんにそんなことを言ってのける。
「か、感想……? ですか……?」
「うん★ どうだったどうだったっ?★」
「それは……まぁ……」
「……凄かった」
素直に答えていいものか言い淀む愛の隣で、九十九が三人の抱いていた正直な感想を端的に代弁する。こういう時の九十九は強い。
「楽しんでくれたっ?★」
「うん。ね、ふたりとも」
九十九に促され、愛とちりはおずおずといった風に首を縦に振る。その様子を見て、堕天王は忽ちその表情を星のようにぱあっと明るく照らすのだった。
「やったあっ★ サプライズ大成功だねっ★」
堕天王は喜びを表すように、ぴょんとその場で小さく跳ねてみせた。比較的小柄な一ノ瀬ちりよりも更に華奢なその身体を纏うアイドル然としたフリル衣装が、星を散りばめたように煌めいている。
「あなた達が衆合地獄に来るって聞いてねっ、急いで準備したんだっ★ 楽しんでもらえて良かったです★」
「オイ、まさか……オレ達の為に、わざわざ演ったってのか。あの規模のライブを……」
九十九の後ろに控えていたちりも思わず声を上げていた。
「うんっ★ えへへ……ライブ自体、結構久し振りだったから……ちょっと緊張しちゃった★ わたし、歌うと酔っちゃうから……地獄に来てからはあんまりライブ出来てなかったんだよね★」
恥ずかしそうに顔を赤らめる堕天王。あまりにもあざといが、顔が良すぎるため全く嫌味に感じない。
「でもねでもねっ! ライブだけじゃないんだよ★ 衆合地獄にはまだまだ楽しいものがたくさんあるの★ 図書館に★ 映画館に★ 百貨店★ 宿泊施設も飲食店も、全部無償で解放してるんだよ★」
宝箱の中身を自慢する子供のように、無垢な笑顔をきらきら輝かせて。大きな目をぱちくり開いて、少女は語るのだ。
「それでも生きてた頃ほどインフラは整い切れてないけど……住民のみんなが一丸になって協力してくれて、今でもちょっとずつ開発が進んでるんだ★ 目標はこの地獄にインターネットを普及させること! 期待しててね★」
まるで実感の湧かない夢物語のような言葉の数々に、愛達三人はやはり唖然とする他なかった。領土争いの絶えない等活地獄、偽りの救済に溢れた黒縄地獄、それぞれを死物狂いで突破した愛達にとって、そのギャップは凄まじい衝撃を伴っていた。
しかし三人の頭上には依然、疑問符が浮かんだままである。衆合地獄が現世に近いインフラが整った治安の善い国だということは解った。だが結局、それを愛達に見せ付けて、堕天王は一体何が言いたいのだろうか――
「これからね、衆合地獄はもっと楽しくなっていくの★ ね、だから……その……★」
その答えはすぐに解った。
「地獄の天下統一? とか……他階層への侵略行為的なのは……ちょっと考え直して欲しいなあっ……なんて……★」
伏せ目がちに、もじもじと言い淀む彼女のその一言によって――愛達三人は、この状況の全てを理解したのだった。
「……誤解だ。そんなこと、考えてもいない」
誤解はさっさと解くに限る。これまでの経験を活かすように、芥川九十九はきっぱりと事実だけを単刀直入に述べた。
「…………へっ?★」
オッドアイの大きな瞳をぱちくり見開かせたままフリーズする堕天王。
「えっ……あれっ?★ だってロアちゃんが……幻葬王率いる悪魔の軍勢が、黒縄地獄の開闢王を倒して……次の標的は衆合地獄だ、って……あ、あれれっ?★」
すっかり混乱した様子の堕天王に、一ノ瀬ちりがこれみよがしに大きく溜息を吐いていた。黄昏愛は眉間を指で抑え、芥川九十九は困ったように頬を掻いている。
「私達は旅をしているだけなんだ。開闢王とは……確かに衝突はあったが、望んだ結果じゃない」
「この二人は私の人探しを手伝ってくれているんです。邪魔さえされなければ、こちらから危害を加えるつもりはありません」
九十九に続いて愛も釈明する。ちりが辺りを見渡して、既にどこにもロアの姿が見当たらないことに気付き、再び大きく溜息を吐くのだった。
どこからかロアのイタズラな笑い声が聞こえてきそうなそんな状況に、堕天王もようやく、自分がロアに誑かされたことに気が付いて――
「も…………もぉぉぉぉおおおおっ!?★ ロアちゃああああああああんっ!?★」
怒りと恥ずかしさで顔を真っ赤にさせながら、悲鳴にも似た絶叫を轟かせるのだった。
「なるほど……オレらが攻めてきたと思ったわけか。それでこの街の良いところをアピールして、侵略を諦めてもらおうとしたと……」
なんとも人騒がせな勘違いだったが、その結果がゲリラライブというあまりにも平和的な結論を出した堕天王の健気さに、三人はすっかり警戒の緩んだ脱力し切った息を漏らすのだった。
「ううっ……ごめんなさいっ、勘違いしちゃって……★」
「いや……おかげで私たちは楽しめたから。ありがとう。この街は、良いところだね」
「……ロアは何がしたかったんでしょう」
「面白がってるだけだろ。ッたく……」
敵も味方も関係なく、真偽不明の噂を流す道化師。その被害者の会じみたこの集まりもようやく打ち解けてきて。いくらか柔らかくなった雰囲気に、堕天王はほっと胸を撫で下ろしていた。
ともすれば、ロアの狙いはこれだったのかもしれない。結果として、普通なら面会すらままならないであろう堕天王とこうして仲を深めるきっかけになったのだから――
「で、でも勘違いで本当に良かったよ~っ★ どうやって説得しようって、ずっと悩んでたから……★ やっぱり、みんな仲良く、平和が一番★ だからねっ★」
眩しい笑顔を向ける堕天王に、流石の黄昏愛もすっかり毒気を抜かれ、過剰な警戒心もすっかり鳴りを潜めていた。
「こちらこそお騒がせしました……ええと……それじゃあ私達は、これで失礼しますね」
「えっ! もう行っちゃうのっ?★」
「はい、旅の途中でしたので……まあ、多少、名残惜しくはありますが……」
「そっかぁ……でもこんなに広い地獄で人探しなんて大変……あっ、そうだっ!★ ここで逢ったのも何かの縁だし、わたしも手伝おっかっ?★ この街のことなら何でも聞いてっ★」
「あ、いえ……『あの人』はどうやらこの街には居ないようですので、お気になさらず」
愛の言い分に、堕天王は不思議そうに首を傾げる。
「ほえ……? どうしてこの街には居ないって解るんですか……?」
「ライブの間、会場内に居た来客の顔をひとりひとり、全てチェックしていましたので。ですが『あの人』の姿はどこにも見当たりませんでした。貴女のファンである『あの人』が、あの場に居ないというのは考えにくい……なので、此処には居ないはずです」
何だかんだ、ちゃっかりと。愛は当初の目的を果たしていた。
「いずれにせよロアの誘いに乗ったのは正解でした。此処に『あの人』は居ません。それが解っただけでも価値のある時間でした。……それに、貴女のパフォーマンスも……」
そして、それと平行して――堕天王のライブパフォーマンスもまた、愛はその目に焼き付けていたのである。
「まぁ、なんというか……『あの人』が気に入るだけのことはあって……流石、素晴らしいものでした。……楽しかったです。生前の、『あの人』の気持ちが……少しだけ解ったような気がします」
普段、『あの人』以外の全てがどうでもいいと豪語している愛が、あの時確かに目を奪われたのだ。流石の愛も認めざるを得なかったのだろう。そっぽを向いて、気恥ずかしそうに呟く愛。そんな彼女の様子に、珍しいものを見たと言わんばかり、九十九とちりは顔を見合わせていた。
「そっかぁ……★ でももし助けが必要になったらいつでも頼ってねっ?★」
「……はい。ありがとうございます」
こうして。一時はどうなることかと思った会合も、穏やかな雰囲気のまま収束に向かっていったのである。
「それじゃあ……どうする? 愛、ちり。駅に向かおうか?」
「……そうですね。あともう二、三品ほど食べ歩いた後、ホテルでゆっくりしてから向かいましょう」
「いや堪能する気満々じゃねえか。まあ別にいいけどよ……」
衆合地獄に『あの人』はいない。ならばこの旅の終着点はやはり無間地獄ということになる。
「しっかし……第三階層より先には何も無い、か。言い得て妙だな。確かに地獄でこんな場所に辿り着いちまったら――」
ならば先に進まなければならない。前に進まなければならない。その為に黄昏愛は地獄へと身を投じたのだから。その覚悟は計り知れない。
「――いくら願いが叶うなんて云われても、わざわざ無間地獄に向かおうとする輩なんてそうはいないかもな」
そう。堕天王は見誤っていたのだ。彼女達の先に進もうとする意思の強さを。その行き先が――無間地獄であることを。
「うおっ……?」
楽屋を立ち去ろうとした一ノ瀬ちりの背中に重みが伸し掛かる。驚いて振り向くと、ちりの背中にもたれ掛かるようにして、九十九が抱きついてきていたのだ。
「ど、どうした九十九……?」
「あ……ごめん。足が……もつれちゃって――わわっ」
そんな九十九の背中に、更に愛の体が伸し掛かる。三人はそのままバランスを崩してその場に倒れ込んだ。
「いてて……おい、何してんだ……」
「ご、ごめんなさい……足が、もつれてしまって……」
謝る愛の顔は赤く上気しているようだった。見ると九十九の頬にも朱が差し、その凪いだような紅い瞳はとろんと揺らめいている。
「あっ……あの~っ……三人とも……っ?★」
倒れ込んだ三人に恐る恐るといった様子で声を掛ける堕天王、その顔は引きつったような苦笑を浮かべている。
「ひょっとして……ひょっとしなくても……第四階層に向かおうとしてますか……?★」
それはどこか申し訳無さそうな、ばつの悪そうな表情で。堕天王は膝を抱え目線を愛達に合わせてきた。赤と青の大きな瞳に見つめられていると、ともすればその中へ吸い込まれてしまいそうな錯覚に陥りそうになる。
「は、はい……それが、なにか……?」
突然脱力した自分の体を奇妙だと思いつつも、黄昏愛のいつもなら過剰なほど反応を示す警戒心は機能していないようだった。端的に言って、頭が回っていない。それを自覚すらしていないまま、愛は不思議そうに堕天王の顔を見上げていた。
「あ……あ~……★ や、やっぱり……そうだよね……★ う~んどうしよう……ごめんなさい……えっと……」
困ったように視線を泳がせる堕天王の様子に、一ノ瀬ちりは回らない頭で、ようやく事態の異常性に勘付き始めていた。その場から急いで立ち上がろうとする――が、立てない。足がもつれ、力が入らない。顔が火照り、頭が回らない。これにある種近い現象を黒縄地獄で味わったことをちりは思い出していた。
「その……先に進むのは……無理、かもしれません……★」
九十九はその奇妙な感覚に身を委ねた数秒後、すっかり眠りに落ちていた。苦しんでいる様子は微塵もない。上気した頬のまま、気持ちよさそうに眠る九十九に気付いた愛とちりは、そこでようやく――
「本当にごめんなさい……っ★ この衆合地獄から出て、『先』に進もうとすると……みんな、わたしの異能に自動で引っかかっちゃうんです……★ ごめんね……これだけはわたしにも、どうしようもなくって……」
――これが、異能による攻撃だと気付いたのだった。
愛は咄嗟に『ぬえ』を発動していた。知る得る限りの全ての動物を参照し、あらゆる耐性を身に着けた。例えばマミチョグという魚がいる。この魚は毒への強い耐性を持ち、これは黒縄地獄においてはあの『救済』の効果すら無力化している。
加えて痛覚を始めとしたあらゆる感覚を遮断、皮膚は外殻で覆い、体内では細胞を全て創り変える程の高速再生が繰り返されている。こうして毒を始めとするあらゆる攻撃からの耐性を瞬時に獲得したのだった。絶対防御と呼んでも過言ではない今の黄昏愛の状態を突破することは、並の異能では難しいだろう。
「わたしの異能は、階層全体を丸ごと支配下に置いていて……わたしの意思では、住人ひとりひとりの効き目を調整することは出来ないんです……★ しかも、どんな耐性も貫通しちゃうみたいで……」
故に、堕天王の異能は並ではなかった。涙目で説明する堕天王の言う通り、この奇妙な感覚は黄昏愛の絶対防御すら貫通して、むしろ抗おうとすればするほど愛の視界はぼやけ、頬は上気し、思考が纏まらなくなっていくのだ。
「暴力を振るおうとした人や、ちょっとでも悪さしようと考えた人に対してもそうなんだけど……この街から出ていこうとする人にも勝手に発動しちゃうの……そういう人たちはこの街ではみんな泥酔して……眠っちゃうんです……」
酩帝街は、秩序を乱す者を許さない。街から出たいという些細な望みすら、この街はその気持ちごと泥酔させ、全部曖昧にしてしまう。無かったことにしてしまう。そんな堕天王の異能を前に、愛も、ちりも、九十九も、為す術なく――
「だから衆合のルールは『盛者必衰』って云われてて……★ これが、わたしの異能――『酒天童子』の怪異としての、わたしの能力なんです……って、みんなもう寝ちゃってるね……★ あうぅ……本当に、ごめんね……」
抗いようのない強烈な眠気に誘われるがまま、その意識は揃って泥の中へと沈んでいくのだった。
来る者拒まず、去る者を憂う街。衆合地獄の酩帝街。それは、もう二度と此処から出られぬことを憂いているのか。もう二度と願いが叶わぬことを憂いているのか。
ならばと、堕天王は此処に天国を造ろうとした。先に進むことが出来ないのならば、先に進む必要など無いほどに、訪れた者を満足させてしまえばいい。
そんな堕天王の努力は実り――旅人達は、先に進むことを尽く諦めていった。第三階層より先には何も無い。最初にそれを口にした旅人は、一体どのような心境だったことだろう。
それが噂として浸透している今の地獄を見て、何を想うだろう――




