衆合地獄 4
結果として。ハンバーグは本当に牛肉で作られたものだったし、毒も入ってはいなかった。
熱された岩の上に乗せられたそれをスプーンで器用にくり抜いて、ひと欠片、口へ運んだ彼女達の第一声は。
「「うッッッッッッ……………………ンまァ………………………」」
そんな、魂の叫びであったという。
気付いたら岩で出来た皿の上には何も残っていなかった。口の中で広がる肉汁の余韻にしばらく浸った後、石で出来たコップに汲まれた水を一息で飲み干して。
「ここは天国か…………?」
ついそんなことを口走ってしまう程の快楽に、三人はすっかり骨抜きになってしまっていた。そして勿論、此処は正真正銘の地獄である。
現世におけるファミリーレストラン程度の規模感の店舗、その奥に位置するテーブル席、隣り合ってすっかり放心状態の愛とちり。対面の九十九は食事という行為自体に不慣れであるが故に未だ食べ終わっておらず、初めて扱うスプーンに悪戦苦闘としながらもゆっくり食べ進めている。
「なるほど……これは……すごいな……」
感情の発露が希薄な九十九でさえも、味覚が充足に満たされるという初めての体験には驚きを隠せないようだった。噛み締めるようにゆっくりと咀嚼する九十九の様子を、ちりはどこか嬉しそうな表情で、ぼんやり眺めている。
「あ、すみません。お水、いただけますか」
「ハイ、ヨロコンデー!」
通路を歩く店員と思しき者を呼び止める愛。その要求の通り、店員らしきチャイナ服姿のその女性は三人のコップにピッチャーで水を注いでいった。水に満たされたそれを三人は揃って一気にあおり、息を吐く。
ハンバーグという言葉の魅力に釣られて三人がやってきたその店は、コンクリートが剥き出しになっている無骨な様相ではあったけれど、やはり至って平凡なファミリーレストランのようだった。ヒトの出入りが激しく、愛達が来た時点でカウンターとテーブルは殆ど埋まっていた。
それ故に着席してから退店までの制限時間を設けているらしく、九十九が食べ終わった頃には三十分が経過していて、そろそろ退店しなくてはいけなくなっていた。
店の出入り口付近には先程の店員が陣取るように佇んでおり、客の様子を窺うように周囲を見渡している。店から出ていくには必然的に、店員とやり取りをしなければならないだろう。
「あの……今更なんですけど……」
テーブル席から立ち上がった三人。出入り口へ向かう途中、愛がふと声を上げた。
「これって、やっぱり……お金とか……必要ですよね……?」
「…………」
腹を満たして冷静さを取り戻した途端、彼女達の表情は見る見るうちに青ざめていく。店舗で食事をしたのなら当然、対価を支払うのは常識である。しかし愛達には何の持ち合わせも無い。
「……私達、豚にされるのかな……」
しかし一度席から立ち上がると、ヒトの流れに逆らうことは困難で。愛達はあっという間に出入り口、店員の前までやってくる。
「あの……お金、無いんですけど……」
恐る恐る、店員に話しかける愛。そんな彼女達に対して、店員の反応は――
「オカネ、イラナイヨー! スキナトキ、スキナダケ、タベニクルヨロシ!」
――意外過ぎるほど呆気なく、拍子抜けするほど何も無いまま、三人のことを満面の笑みで送り出すのであった。
◆
「…………何やってんだオレは…………」
地獄に堕ちて以来のまともな食事にありついて数十分、人混みの流れに沿って大通りを歩く三人。ようやく元来の冷静さを取り戻した一ノ瀬ちりが、げっそりとした表情でひとり呟く。
「どう考えたっておかしいだろ……オレとしたことが迂闊にも程がある……黒縄でも失敗したのに……」
「まあまあ……済んだことは仕方ないでふよ……もぐもぐ……」
「……なんでまた食ってんだよオマエは……」
ぶつぶつと後悔の念を口にするちりの一方で黄昏愛はと言うと、自分の右手を蛸の触手に変身させ、目についた出店の食べ物を片っ端からその触手で掻っ攫い、躊躇うことなく次々と食していた。
「ごくん……どうやらこの街では通貨自体がそもそも流通していないようですね。本当に食べ放題のようですよ。なら食べなければ損でしょう。郷に入っては郷に従え。これも『あの人』を捜すのに必要なこと……もぐもぐ……」
「知らねェよ……あぁクソッ……頭が回らねえ……くらくらしてきた……」
もごもごと口いっぱいに肉を頬張る愛の左隣、芥川九十九は興味深そうに周囲のヒトや建築物をまじまじと眺めていた。まるで上京してきたばかりの田舎者のように、新鮮な景色にぱちくり目を瞬かせている。
「すごいな……こんなにヒトが多いのに、誰も争い合ってない。こうやって歩いていても、突然襲われることもないし。みんな顔を真っ赤にして……なんだかすごく楽しそうだ」
そう言って周囲を観察している九十九だが、そんな彼女は周囲からは密かに好奇の目で見られていた。それは等活地獄の幻葬王だから、というわけではなく――単純に、芥川九十九の顔が美しい造りであったため。もっと言えば、隣には黄昏愛というモデルに見違う程の美少女が並んで歩いているのだ。目立つなという方が無理な話だろう。
「ねぇねぇ、そこのお姉さん!」
だから、こういう輩にも絡まれる。不意に掛けられたその声に九十九が視線を左にやると、中背中肉の男性がそこに立っていた。顔は真っ赤に染まっておぼつかない足取りの男からは強いアルコールの臭いが漂ってきていて、すっかり出来上がっているのが見て取れる。
「かわいいね~! ちょっとお話ししようよ!」
「……チッ、酔っぱらいが……」
真っ先に嫌悪を露わにしたのは一ノ瀬ちりだった。刃物のようにギラついた視線が鋭く向けられ、ずいっと男の前に立ちはだかる。
「おいオッサン。他当たれや。ブッ殺すぞ」
「うおっ……!? な、なんだこのチビ……!」
男が僅か声を荒げた瞬間、九十九の顔付きも変わる。元から薄い表情が無くなり、悪魔としての冷徹な貌が顕になる。
「悪いが消えてくれないか。ちりが嫌がってる」
「なんだとぉ……!?」
仮に目の前の少女があの幻葬王、芥川九十九だと識っていたとしても、この酔っ払った男には正常な判断は出来なかったかもしれない。九十九の背後で密かに男を殺すタイミングを窺っている黄昏愛の存在など露知らず、男は再び声を荒げて――
「おっ、お、俺をぉ……誰だと、思っ、へ……へ……ぁ…………――――」
ぐるんぐるん、大きく自分の頭を振り始めたかと思った数秒後、男は突然電池が切れた玩具のようにその場で卒倒したのだった。
直後聞こえてくる大きないびきの音。男の身体から漂うアルコールの臭いは先程までの比ではなく、周囲一帯にこびり付くような酒気が漂い始めていた。
「……あァ、そうか……此処に来てからなんか調子が狂うと思ったんだ……」
そこでようやく、一ノ瀬ちりはこの街の違和感に気が付いた。改めて周囲をよく観察してみると――確かに大通りを進む殆どの者が顔を赤く染めていた。皆が皆、喜怒哀楽、感情を豊かに表現して――加えて肉の匂いに混じって漂う薬品のような、鼻を刺す匂いが、違和感の正体に答えを導き出す。
「酒だ……この街全体が酒臭いんだ……! 地獄に酒なんて……こんなことがありえるのか……!?」
「ありえるんだなあ、これが!」
それは頭上から降ってきた。咄嗟に見上げた三人は、そこで赤い月を逆光に宙漂う道化師の姿を確認する。
「なんたって此処は、あの『酩帝街』だからねえ」
地獄の水先案内人、ロア。列車の中以外で彼の姿を見たのは初めてのことで、三人は面を食らったようにその場でしばし固まっていた。宙を浮かぶロアの右手には食べ切った焼き鳥の串が二本。そして左手には透明の液体がなみなみ注がれた陶器のジョッキ。珍しく同じ日に二度も姿を見せた彼は、呆れるほど満喫している。
「やあ、また会ったね!」
「ロア……なぜこんな所に……」
「当然、仕事だよ! ボクってば人気者だからね、どこへ行っても引っ張りだこで困っちゃうよね~!」
「何の話をしてやがんだ……?」
「そんなことよりさ! キミたち、ちゃんと楽しんでるかい? せっかく地獄最大の娯楽都市にやってきたんだ、楽しまなきゃ損だぜ?」
いたずらっぽくそう言って、ジョッキを一気にあおってみせる。ジョッキの中身を飲み干すと、ロアはげっぷのように口からピンク色の煙を吐き出した。煙の中から更にクラッカーのような炸裂音と小鳥のような囀りが聞こえてきて、それは酩帝街の酒気と混じりやがて霧散していく。
「……だったら答えろ、案内人。この街はなんだ? なんで人間以外の動物の肉が当たり前のように流通してやがる。その酒の正体はなんだ?」
「ん~? なんだいなんだい、そんなことをいちいち気にしてたのかい? はぁ、これだから田舎者は……」
「あァ!?」
白塗りの顔を左半分覆う黒仮面の向こう側でくつくつ嗤うロア。そんな相手にも果敢に牙を剥くちりだったが、周囲の酒気に当てられているのか声にいつもの覇気が無く、本調子ではないようだった。
「物珍しいのはわかるけど、理由なんて考えるだけムダじゃないかな? だって此処は地獄だよ?」
「……確かに、そうですね」
食べ終えた焼き鳥の串を指で弾きながら、愛がロアの物言いに反応を示す。その死人のような美しい蒼白の肌も酒気によって僅かに上気しているようだった。
「異能なんてものがある以上、この世界では何が起きてもおかしくない……だから細かいことは気にするなと。そう云いたいんですよね」
「まッ、そういうことだね!」
「だったらこれ以上この街に留まる理由も無いですね。細かいことを気にしても仕方がないので。私達は先に進みます」
切り揃えられた前髪の隙間から覗く黒い瞳は、どこまでも冷徹で。氷のようなその視線に射抜かれて、ロアは肩を竦めてみせた。
「ありゃ残念。お気に召さなかったかな? だったら最後にさ、ちょっと寄り道していかない? おすすめの観光スポットがあるんだけど――」
「失礼します」
立ち去ろうとする愛。いつもなら話が噛み合わず愛と衝突してばかりのちりでさえ、今回ばかりは同意の姿勢を見せていた。九十九と共に愛の後ろを黙って付いていく。
「釣れないこと言わないでさぁ。そら、ちょうど時間みたいだよ」
愛達がロアから離れようとした――その直後。それは突如として遠方から響き渡った。サイレンのような、あるいはラッパのような、その轟音に愛達を含め大通りを歩く者全員が足を止めることになったのだ。
「な、なんだ……ッ!?」
その音は大通りをずっと真っ直ぐに進んだ向こう――それは先程から愛達も気になっていた――恐らくは街の中央区にあたるエリアだろう、そこに聳え立つ巨大なドーム球場から聞こえてきていた。
「――レディィィ――――スッ、ェンッ、ジェンットルメェンッッッッ!!」
続けてその場に投下されたのは、爆弾のような声の塊。いつの間にかロアはその手にメガホンのような代物を空に掲げていて、そこに向けて大声で叫んでいた。
「何十年ぶりかな? 待たせたねキミ達、『Dope Ness Under Ground』のゲリラLIVEだ! 今すぐ中央ドームに全員集合だよぉ~ッ!」
突如、発破をかけるようなロアの掛け声に、愛達三人は目を丸くしていたが――
「「「「「「――――『DNUG』のゲリラライブ…………ッッッッ!?!?」」」」」」
――その場に居合わせていた大通りの歩行者、その全員が一斉に驚愕の声を上げ、その目を爛々と輝かせていた。
「ほらほら、行った行った。入口で整理券配ってるからね~。キャパは余裕あるけど、良い席は早いもの勝ちだよ~ん」
メガホン越しに煽るロア、その一言がダメ押しとなって――住民達は一斉に走り出す。まるでバッファローの大群のように。酔っ払った住民達は血相を変えて中央ドームに向かって駆け出していた。
その勢いは周囲に砂埃を巻き上げ、酒気帯びた蒸気を吹き飛ばす。それはあっという間の出来事で、その場に取り残されたのは愛達三人と、ロアだけだった。
ぽかんと口を開けている三人を尻目にくつくつと嗤い、ロアは役目を終えたと言わんばかりにメガホンを放り捨てる。
「はい、というわけで。ちょっと寄り道していかない? おすすめの観光スポットがあるんだけど、さ」
先程の言葉を繰り返すロアに、さしもの愛も不気味さを覚えていた。ヒトで賑わっていた大通りが今やすっかりシャッター街のような寂しさで。
「……何が目的だ」
愛とちりを庇うように、九十九は一歩前に出てロアを睨む。
「だから仕事だよ。キミたちを中央ドームに案内するっていう仕事さ」
中央ドームと呼ばれたその球場からは未だ絶えずサイレンが鳴り響いている。
「それに黄昏愛、キミにとっても悪くない誘いだと思うよ。これから中央ドームには此処の住民の殆どが集まってくる。キミは確か、ヒトを捜しているんだったよね? 今の状況は都合が良いんじゃない?」
痛い所を突かれたな――と顔を顰めるのは一ノ瀬ちりだった。愛の捜し人がいる可能性もあるこの広大な衆合地獄を捜し回るのは時間がいくらあっても足りないだろうと思っていた矢先、確かに今の状況は愛にとって都合が良い。
そして案の定、愛はロアのその言葉に「むっ……」と悩ましい唸り声を上げていた。やがてほんの少し申し訳無さそうに眉を八の字に下げながら、ちりと九十九の顔色を覗くように恐る恐る振り返ってみせる。
「いいよ。私とちりが付いてる」
九十九は頷いてみせ、ちりは好きにしろと言わんばかりに小さく溜息を吐くのだった。
「は~い、それじゃあ幻葬王御一行様ご案内~っ! まぁ安心しなよ。悪いようにはならないさ」
「……次騙したら殺しますから」
「あはは。一度だって騙した覚えは無いんだけど。ナンの話? キミが早とちりして等活地獄で暴れまわったって話?」
「……………………」
「……ま、それに関しちゃなんも言い返せねえわな」
「愛。どうどう」
ロアに促されるがまま、大通りをひたすら真っすぐに進んでいく三人。酒気の立ち込める中華街、衆合地獄の酩帝街。そこでロアは一体何を見せたがっているのか。鬼が出るか蛇が出るか――無人と化した街並みを、彼女達は導かれるがままに往く。




