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怪物少女の無双奇譚《フォークロア》  作者: あかなす
怪物少女の無双奇譚 第一章 等活地獄篇

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等活地獄 5

 熱した油が弾け、芳醇な脂の香りが鼻腔をくすぐるかのような錯覚と共に、引き締まった肉の繊維が乱暴に引き裂かれ、硬質な骨が小気味よい音を立てて砕け散っていく。

 高温で揚がった鳥肉を乱雑に咀嚼する、暴力的ながらもどこか底知れぬ食欲を刺激する香ばしい音が、空間に等間隔のリズムを刻んで響き渡っていた。

 それは日常の風景に溶け込むには些か野蛮すぎる響きを孕んでいたものの、私の耳には心地よい子守唄の調べの如く、鼓膜を優しく震わせては脳髄へと至る深い安堵感を齎してくれる。


 二人の人間が身を寄せて暮らすには余りにも持て余してしまう、広大な面積のリビングルームの中央にて。今日という平穏な一日もまた、『あの人』は変わることのない習慣をなぞるように、柔らかな布張りの長椅子に背中を預け、手にしたそれに執拗なまでの熱量を持って喰らいついている。

 私はそんな『あの人』の左隣に自らの頭の重みを静かに委ね、眼前に配置された薄型液晶の画面で意味もなく明滅を繰り返す色彩の羅列を、焦点の定まらない虚ろな瞳でただ漫然と眺め続けていた。

 部屋を満たす微かな機械の駆動音すらも、隣から伝わってくる確かな鼓動の波に掻き消され、この閉ざされた空間には我々二人しか存在しないのだという甘美な事実を証明してくれている。


 なんということもない、歴史のどこにも記されることのない凡庸な時間の流れが、私にとっては胸を激しく締め付けられるほどに愛おしく、何物にも代えがたい価値のあるものとして感じられていた。

 このありふれた日常が、いつまでも続けばいい――いや、続けてみせる。絶対に離してなるものかと、私は自らの細い指を這う蛇のように、『あの人』のそれと深く絡ませて強く結びついた。


「蝿の音がうるさい」


 自らの指に絡みつく私の存在と、その確かな体温の感触を慈しんで確かめようとするかのような手つきで、『あの人』は私の手のひらを柔らかく押し包むように、そして時折わずかな力を込めて弾力を味わうかのように、規則的な動きで幾度も押しては離すという遊戯を繰り返す。

 身動きをするたびに顔の輪郭を縁取る『あの人』の波打つ黒髪が、乾いた細い糸の束がデリケートな皮膚の表面を無遠慮に撫で回すような感触となって、私の敏感な頬の辺りを誂うように刺激する。


「蝿の音がうるさい」


 首元を飾るお揃いの意匠が施された、世界が終わる間際の黄昏の空を凝縮して閉じ込めたかのような茜色をしたペンダントが、鎖を伝って私の胸元へと密やかな冷たさを伴いながら提げられている。

 心臓の激しい鼓動のすぐ上、鎖骨の合間に位置するその飾りがもたらす微細な重力に引きずり込まれ、私の意識は次第に名状しがたい泥の底へと沈みゆく。際限のない空間を真っ逆さまに落ちていく致命的な感覚と共に、重力に負けた目蓋が静かに閉じられていくのだった。


 ◆


 しかし現実というものは、常に唐突に目を覚まさせるものである。


 重い目蓋を押し上げて視界を取り戻した私の隣には、あれほど確かな熱を放っていた『あの人』の姿はもう、どこをどう探しても存在してはいなかった。見上げる赤い天頂には、光を貪り食うかのように不気味に鎮座する漆黒の太陽。奇妙な意匠の列車が重々しい鉄の軋みを上げて往来する冷徹な線路の傍ら、立ち尽くす独りぼっちの影法師。

 淀んだ熱風に煽られてはためく黒いセーラー服と、膝下からふくらはぎをきつく締め付けるハイソックスに包み込まれた、不健康なまでに線の細い足の造形。時折吹き荒れる突風がプリーツスカートの裾を揺らすたびに、ソックスとの境界線から露わになる太腿の肌は病的なまでの純白であり、冷ややかな燐光を周囲の昏い空間へと放っている。

 血の気を失った白い肌と凄絶な対比を描く、濡羽色に艶めく真っ黒な長髪を腰の辺りまで伸ばしたその少女は、己の置かれた状況を静かに咀嚼していた。


 乾ききった空気を肺の奥底へと吸い込み、もうどのくらいの距離を歩いたことだろうと、少女は自重を支える両足の重だるさを呪う。天体の運行も存在せず、時間を計るための術も持ち合わせていないこの地獄という場所で、明確な目的地すら見出せないまま宛もなく彷徨い続けることに、少女の胸の内には焦燥という名の毒が確実に広がっていくのを感じずにはいられなかった。足裏を通して伝わってくるひび割れた大地の硬さは、歩みを進めるごとに彼女の気力を削り取っていく。

 手掛かりらしい手掛かりなど砂粒一つほどもなく、それどころかただ呼吸をして歩いているだけで、道中幾度となく得体の知れない怪異の群れに行く手を遮られ、無為な殺戮を強要される始末であった。刃を振るい、肉を裂き、骨を砕くたびに、此処が人間の尊厳など欠片も存在しないろくでもない場所だという事実を、少女は嫌というほど骨の髄まで思い知らされていたのである。


 けれど、流した血と汗のすべてが全く収穫の無い無駄な努力に終わったというわけではない。這い蹲る亡者どもを蹴散らし、この地獄という理不尽な異世界を歩き回る過程で、いくつか重要な情報は手に入れた。


 どうやら此処には、ユリの花どころか彼岸花すら一本たりとも咲いていない。どこまで地平線の彼方へ歩みを進めて行っても、待ち受けるのは錆び付いた鉄屑と腐乱した肉片が混ざり合う産業廃棄物の醜悪な山か、生前の未練を引きずる浅ましい亡者の群れのみ。

 見上げれば網膜を焼くような不吉な赤い空と、光を放たない黒い太陽が嘲笑うかのように張り付き、足元には生命を育む植物が一切自生しない、呪われた黒い大地がどこまでも続いている。この息が詰まるほどの絶望的な光景こそが、どうやら地獄という異世界の全てを構成する要素らしい。


 このような吐き気を催すほどの惨状が広がる場所に、果たして『あの人』は本当に、私を待ってくれているのだろうか――なんて。普段の自分であれば決して抱くことのない、柄にもなく弱々しい思考の沼に、つい足を取られて呑まれそうになる。溢れ出しそうになる弱音を、奥歯を強く噛み締めることで無理やりに喉の奥へと押し留める。

 自分はただ、もう一度あの温もりに触れたいと、『あの人』に会いたいと願っているだけなのに。まるでこの地獄を構築する世界そのものの意志から、その純粋な願いを拒まれているかのような、巨大な壁に阻まれる実感が確かに彼女の心臓を圧迫していた。


 行く手を阻む怪異の群れをいくら肉塊に変えても、肝心の『あの人』に関する有益な情報だけが、どれほど血の海を探っても手に入らない。そもそもこの狂気に満ちた地獄という空間に、まともな言語を用いて話の通じる理知的な相手など、一人として存在していないようだった。遭遇する誰も彼もが果てのない欲望に餓えて渇ききっており、他人の肉を喰らい、貶めて奪うことしか能のない、救いようのない連中ばかりである。

 そうして彼女がこの光の届かない地獄の底へと落ちてから、体感として既に一週間以上の時間が経過していた。その果てしない時の間に、東西南北へと広がる荒野を、この細い足で踏み越えられる場所にはおよそ全て出向いて、靴底をすり減らしてみせたのだ。


 現在の彼女にとって最大の問題は、肉体的な疲労からくる体力の枯渇よりも、終わりの見えないこの状況に対する精神の消耗にあった。どうやらこの世界を這いずる怪異という存在は、既に一度死を迎えている身であるからして、胃袋が空になり激しい空腹を感じたとしても、そのまま餓死して消滅することはない。しかし死に至らないからといって苦痛が免除されるわけではなく、それでも内臓を握り潰されるかのように腹は減る。延々と歩き、敵を切り裂き続ければ、当然のように疲労という名の重りが四肢にのしかかってくる。


 元より少女は我慢強い性質の持ち主ではなかった。幾度となく浴びた返り血が、滑らかな肌やセーラー服の繊維に黒黒とこびりつき、乾燥してはひどく鉄錆臭い腐敗の匂いを放って鼻腔を侵犯してくる。その耐え難い悪臭に自然と美しい眉間には深い皺が集り、隠しきれない苛立ちの感情が熱い息に乗って唇から吐き出される。


「あぁ……おなかがすいた……」


 胃袋の底からせり上がってくる本能的な飢餓感が、ぽつりと落とされた言葉となって虚空へと溶けていく。


 しかしながら。それなりの途方もない時間を費やし、それなりの広大な距離を血塗られながら彷徨っただけの甲斐はあって――少女は自らの内側に眠る、ある確固たる事実について、揺るぎない確信を得ていた。

 それは――自分という存在が、どうやらこの辺りをうろつく有象無象の他の怪異とは比べ物にならない程度には強い、無双の怪異であるらしい――という事実。


 弱肉強食。力を持つ者だけが全てを奪い、力なき者はただ奪われるだけの存在であるという簡潔な四文字の真理を、此処に落ちてから少女は幾度となく耳にし、また自らの手で体現してきた。

 その原始的な言葉の通りに世界が回っているのならば――数多の敵をただの一度も苦戦することなく肉塊へと変えてきた自分が、どうやら紛れもない強者の側に君臨しているということを。少女は冷たい風に髪を揺らしながら、傲慢なまでの自負と共に自覚しつつあったのである。


 ◆


 等活地獄と名付けられた広大な土地の端、北区の郊外へと至る荒涼とした大地。

 これは錆び付いた血の臭いが染み付く、歪な線路の傍らで引き起こされた些細な出来事である。


「ん……」


 天頂に張り付き、決して動くことはないのだと錯覚させていた漆黒の球体が、淀んだ大気の向こう側で僅かに傾きを帯び始めた頃合い。光なき太陽がもたらす熱気を含んだ風の温度が微かに下がりゆくのを感じ取り、少女は何の前触れもなく顔を上げて前方へと視線を投げかけた。

 遠く離れた地平の揺らぎの中、自分と同じく赤茶けた線路の脇をこちらに向かって歩を進めてくる、一つの明瞭な人影を見出したのである。


 その人影は、骨格や顔つきから推察するに、少女よりも五つほど齢を重ねているであろう年上の女であった。赤黒い風に煽られてはためく髪は目に痛いほどの金色に染まっており、漆黒の粗い繊維で編み込まれた厚手のジャケットの背中には、威圧的な白い文字列が所狭しと刺繍されている。

 生前の不良が好んで身に纏う特攻服を思わせるそれを羽織った女は、少女に向かって無防備に突進でもするつもりなのかと疑うほどの勢いに任せ、土埃を巻き上げる大股走りで一直線に駆け寄ってきたのだ。


「よォ、アンタ!」


 金髪の女は少女の眼前にまでその荒々しい足取りで迫りくると、警戒心を微塵も感じさせない気さくな調子で躊躇うことなく声を掛けてくる。血走った瞳や剥き出しの敵意は見当たらず、少なくとも即座に牙を剥いて襲い掛かってくる野蛮な様子は窺えなかった。


「あの……すみません」


 ようやく理性のある、まともに言葉を交わすことのできる相手に巡り会えたのだと、少女は張り詰めていた胸の奥底で安堵の息を吐き出し、警戒を解いて自らもまたその女に対して何の躊躇いもなく声を掛ける。


「人を、探しているのですが――」


「ウチらさぁ、ヒト探ししてんだけどよ!!」


 しかしながら。少女の紡いだ控えめな言葉は、相手の口から放たれた無遠慮な大音声によって無惨にも掻き消されてしまう。

 因みにこの金髪の女もまた、中央区を支配する組織『屑籠ダストシェル』の末端に名を連ねる一員であり、行方を眩ませた芥川九十九を血眼になって捜索している最中であった。だからこそ、見ず知らずの他人が発する問いかけなどに悠長に耳を傾けてやるだけの精神的余裕など、今の彼女の胸の内にあるはずも無かったのである。


「この辺で見かけなかったかな!? ちょうどあんたくらいの背丈の、黒い学生服を着た――」


 一方的に投げつけられたその言葉の奔流に、少女の表情から先程までの微かな安堵の色が急速に失われていく。他人の事情を顧みる余裕などどこにも無かったのは、宛もなく荒野を彷徨い歩き、疲労と飢餓に苛まれ続けている少女の側もまた、全く同じことであったからだ。


「……こっちが先に質問したのに。どいつもこいつも……まともに会話も出来ないのか……」


 胃の腑の底から湧き上がる心底軽蔑しきったような、隠す気すらない苛立ちの感情をたっぷりとその声帯に乗せて吐き捨てた少女の言葉に、金髪女の細い眉がピクリと僅かに持ち上がる。


「……あ? あー……すまねえ嬢ちゃん。よく聞こえなかったんだが。もういっぺん言ってもらえるかい?」


「私が先に質問をしたのに、と申し上げました。私の質問に対して、速やかに答えて頂ければ、これ以上あなたに用はありません」


 年端もゆかぬ小娘から突きつけられた、自らの存在そのものを路傍の石ころと同等に扱うかのような冷徹な物言いを受け、女は思わず毒気を抜かれた体で噴き出し、口の端を歪めて乾いた笑みを浮かべていた。


「……はは。なるほど、あんた新入りだね? じゃあウチが直々に教えてやるよ。此処のルールを――」


 中央区をその勢力圏の中心に据え、この等活地獄の全体を力で仕切っている武闘派集団、屑籠ダストシェル。その一員として、身の程を知らない新入りの躾を行うこともまた、組織に属する者の立派な仕事の内なのだからという、耳障りの良い建前が半分。本音のところを暴けば、やはり彼女自身もまた数多の抗争を生き抜いてきた腕に覚えのある強者の一人であり、得体の知れない小娘にここまで舐めた口を叩かれたまま引き下がるわけにはいかないという、血生臭い闘争本能が刺激されたに過ぎなかった。


 宣戦布告の直後、金髪の女の容姿が異様な音を立てて急激に変貌を遂げていく。頭蓋骨の軋む音と共に狼のそれを思わせる獣の耳が頭上の皮膚を突き破って生え揃い、腰の辺りからは強靭な筋肉を伴った白い尾が鞭の如く伸び、唇の隙間から覗く八重歯は本物の獣以上に鋭く伸びていく。さらには両手の指先から、分厚い鉄の装甲ですら容易く引き裂いてみせるほどの恐るべき鋭利さを伴った爪が突き出し、眼前の敵を肉塊へと変える準備を整えていく。


「大丈夫だ。怪異は死んでも生き返れる。そうやって学んでいくんだよ。此処の住人は、此処のルールをなァ――!」


 人狼ライカンスロープの怪異としての性質をその身に宿す女の異能は、元来の身体能力を限りなく野生の獣の領域にまで引き上げる。大地を蹴りつける足の踏み込みが硬い岩盤を蜘蛛の巣状に割り砕き、瞬きをする間すら与えぬ速度で狼と化した女怪異は、生意気な口を叩く新入りの少女へと向かって容赦のない鉄拳を繰り出していた。

 

 風を切り裂く鋭い爪先が、無防備に晒された少女の白く細い首筋へと触れる寸前にまで肉薄する――


「知っていますよ」


 しかし、その致命の爪が皮膚に触れて血を散らすよりも早く。少女のその華奢で小さな手が、空気を裂いて迫りくる女の屈強な手首を正確に掴み取り――暴風のような攻撃を、ただの一手でことごとく停止させていたのである。


 人狼の女――仲間内からは双葉という名で親しまれ、畏怖されている彼女もまた、決して伊達や酔狂で屑籠ダストシェルの武闘派を名乗っているつもりなど毛頭ない。地獄の抗争の中心に立つ芥川九十九の取り巻きの一人だと言われれば、確かに客観的にはそこまでの実力に収まるかもしれない。しかし、その芥川九十九の傍に立ち続けること自体が、そもそも並大抵の精神力で務まるほど楽な役割ではないのだ。


 死という絶対的な終わりの概念が喪失したこの狂った世界で、彼女は殺し合いという原始的な手段のみを用いて、今日という日まで己の存在を証明し生き抜いてきた。芥川九十九の周辺で巻き起こる底なしの暴力の最前線にあって、一度たりとも心が壊れることなく、彼女を含めた組織の面々は泥に塗れながら戦い抜いてきたのである。だからこそ彼女の魂には、他者には決して譲ることのできない強固な自負と、戦士としての矜持が深く根付いているはずであった。


「あ……?」


 そんな彼女の、これまで幾度となく敵対する怪異の血を吸い、肉を裂き続けてきた自慢の拳が――どういうわけか、その手首から先が失われ、次の瞬間には土埃の舞う地面へと無様に転がり落ちていた。


 脳が痛みの信号を知覚する暇すら与えられないほどの、あまりにも鮮やかな切断面。つい先程まで確かに己の身体の一部であったはずのものが、何の価値もないただのゴミ屑のように転がっている光景を前に、現実感などさらさら湧いてこなくて。女は自らの手首から先を失った事実を、ただ茫然と眺め立ち尽くす他無かったのである。


 一体何が起きたのか、状況の悉くを理解出来ぬまま呆然とする彼女の網膜に、次に飛び込んできた景色は――ひたすらに大きく、醜悪なまでに歪に盛り上がる、どす黒い筋肉の繊維が絡み合った――巨大な腕のような形をした肉塊であった。

 目の前に立つ華奢な少女が、あろうことかそんな禍々しい代物を自身の左肩から直接生やしているという、正気を疑うような異形の景色。それが、地に伏せることとなる女の見た、此度の生における最期の光景だった。


「ここでは、弱肉強食こそが全て……そうでしょう?」


 勝敗の決した荒野に、冷ややかな少女の声が響く。果たして、少女は自らの力の行使に陶酔するかのように紅い舌で唇を舐めずり――この地獄に落ちてからようやく、心底からの愉悦を孕んだ緩やかな笑みを浮かべるのであった。

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