等活地獄 5
フライドチキンを骨ごと噛み千切った時のような、香ばしい音が聞こえてくる。
今日も『あの人』はいつものように、二人きりで暮らすには些か広すぎるリビングルームで、ふかふかのソファに腰を預け、それを喰い千切っている。私はその左肩に寄り掛かって、テレビの画面をぼうと眺めているのだ。
そんななんでもない時間が愛おしくて。こんなありふれた毎日が、いつまでも続けばいい――いや、続けてみせる。絶対に離してなるものかと、私は『あの人』に指を絡めた。
「蝿の音がうるさい」
『あの人』は私の感触を確かめるように、私の手のひらをふにふにと、指で押しては離す。『あの人』のウェーブがかった黒髪が、かさかさと私の頬をくすぐってくる。
「蝿の音がうるさい」
お揃いの、茜色をしたペンダント。首から提げて。胸元に感じる微かな重みに誘われるように、沈むように、落ちるように、目蓋が閉じていく――
◆
だけど。目を覚ますとそんな『あの人』はもう、隣には居なくて。
黒い太陽の下、猿夢列車が往く線路の脇に立つ、独りぼっちの影法師。風に吹かれる黒いセーラー服、ハイソックスに包まれた細い足。スカートとソックスの間に見える肌が、病的なまでに真っ白く、まるで月明かりを流し込んだかのような色を放つ、美しい黒髪長髪のその少女。
彼女が地獄に落ちて、そして、もうどのくらい歩いたことだろう。時間の感覚が曖昧な地獄で宛もなく彷徨い続けることに、彼女は焦りを感じずにはいられなかった。
手掛かりらしい手掛かりもなく、それどころか歩いているだけで道中幾度となく怪異の群れに絡まれて、邪魔をされて――此処がろくでもない場所だということを、その少女は嫌というほど思い知っていた。
けれど、全く収穫が無かったというわけではない。この地獄という異世界について、いくつか情報は手に入れた。
どうやら此処には、ユリの花どころか彼岸花すら咲いていない。どこまで行っても、在るのは産業廃棄物の山か、ヒトの形をした『怪異』を自称する亡者の群れ。赤い空と黒い太陽、植物の自生しない黒い大地。この光景が、どうやら地獄という異世界の全てらしい。
こんな所に、果たして本当に『あの人』は、私を待ってくれているのだろうか――なんて。柄にもなく、ついそんな思考に呑まれそうになる。弱音を吐きそうに成る。
自分はただ『あの人』に会いたいだけなのに。まるで世界そのものから、それを拒まれているかのような実感が確かにあった。
怪異の群れをいくら殺しても、『あの人』に関する情報だけが何も手に入らない。そもそもこの地獄に、まともに話の通じる相手もいないようだった。誰も彼もが餓えて渇いて、他人を貶めることしか能のない連中である。
彼女が地獄に落ちて、既に一週間以上が経過した。その間に東西南北、この足で踏み越えられる場所にはおよそ全て出向いてみせた。
問題は体力よりも精神の消耗にある。どうやら『怪異』は既に死んでいる身であるからして、空腹を感じても餓死することはないらしい。しかしそれでも、腹は減る。疲れるものは疲れる。
少女は我慢強い方ではなかった。返り血を浴びた全身が酷く臭う。自然と眉間に皺が集り、苛立ちが息に乗る。
「あ゛ぁ…………おなかがすいた…………」
しかし。それなりの時間、それなりの距離を彷徨った甲斐あって――少女は確信を得ていた。
それは――自分がどうやら他の怪異とは比べ物にならない程度には強いらしい、ということ。
弱肉強食。その四文字を此処に落ちてから幾度となく耳にしてきた。その言葉の通りならば、自分がどうやら強者の側であることを、少女は自覚しつつあったのである――
◆
等活地獄、北区、郊外。これはその線路沿いで起きた出来事。
永遠に昇り続けるかと思われた黒い太陽が、ようやく傾き始めてきた頃――
「ん……」
遠くに微かな気配を察知して、少女がふと顔を上げる。視線の先、遥か前方、そこには自分と同じく線路脇を歩いてくる人影を見つけたのだった。
髪は金色、年のころは、少女より五つほど年上に見える。黒い繊維で編まれたジャケットの背に白い文字列が刺繍された、いわゆる特攻服のようなものを羽織って、その女は少女に向かって突進でもするつもりなのかと言うほどに勢いよく、大股走りで駆け寄ってきたのだ。
「――よォ、アンタ!」
その金髪女は少女の目前にまで迫ると、躊躇いなく声を掛けてくる。どうやら襲ってくる様子は無い。
「あの……すみません」
良かった、話の通じそうな相手だ――少女は胸を撫で下ろし、自らもまたその女に対して何の躊躇いもなく声を掛ける。
「人を、探しているのですが――」
「ウチらさぁ、ヒト探ししてんだけどよ!!」
しかし、その金髪女――『屑籠』の一員である彼女もまた、芥川九十九を捜索中であった。だからこそ、少女の問いかけに耳を傾ける余裕など、あるはずも無く。
「この辺で見かけなかったかな。ちょうどあんたくらいの背丈の、黒い学生服を着た――」
そして、余裕が無かったのは少女もまた、同様で。
「…………こっちが先に質問したのに。どいつもこいつも……まともに会話も出来ないのか…………」
心底軽蔑したような、苛立ちをたっぷりと乗せた少女のその言葉に、金髪女の眉が僅か持ち上がる。
「……あー、すまねえ嬢ちゃん。よく聞こえなかったんだが。もういっぺん言ってもらえるかい」
「私が先に質問をしたのに、と申し上げました。私の質問に対して、速やかに答えて頂ければ、これ以上あなたに用はありません」
そんな物言いを受けた女は思わず噴き出し、乾いた笑みを浮かべていた。
「……はは。なるほど、あんた新入りだね? じゃあウチが直々に教えてやるよ。此処のルールを――」
中央区を中心に、この等活全体を仕切る『屑籠』。その一員として、新入りの教育もまた、仕事の内なのだから――という、建前半分。本音のところは、やはり彼女も腕に覚えのある強者の一人。つまり舐められっぱなしでは気が済まない。
その直後、金髪の女の容姿が変貌していく。狼のような獣の耳が頭上に生え、白い尾が伸び、八重歯は本物の獣のように鋭く、その爪は鉄を引き裂く程の鋭利さを伴って――
「大丈夫だ。怪異は死んでも生き返れる。そうやって学んでいくんだよ。此処の住人は、此処のルールをなァ――!」
『人狼』の怪異であるその女の異能は、身体能力を限りなく獣のそれに近付け強化するというもの。
踏みしめた大地を割り、瞬間、狼と化した女怪異は、生意気な新入り少女に向かって容赦なく鉄拳を繰り出していた。その鋭い爪先が、少女の首に触れる――
「――知っていますよ」
しかし、触れるよりも早く。少女のその小さな手が、女の手首を掴み――攻撃を止めていた。
人狼の女――仲間内からは双葉という名字で呼ばれる彼女もまた、伊達に『屑籠』の一員を名乗っているつもりなどない。
芥川九十九の取り巻きと言われれば、確かにそこまでの実力だ。しかし芥川九十九の取り巻きでいること自体、そう楽なことではない。
死の概念が無い世界で、彼女は喧嘩という手段を用いて、ここまで生き抜いてきた。芥川九十九の周辺という殺し合いの最前線で、今日まで壊れることなく、彼女を含めた『屑籠』の面々は戦い抜いてきた。だからこその自負、矜持というものがある。
「あ…………?」
そんな彼女の、幾度となく怪異の血を吸ってきた爪が、拳が、手首から先が――――次の瞬間、地面に落ちていた。
痛みを感じる暇すら無く、身体の一部だったものがゴミのように転がり落ちている光景に、現実感などさらさら無くて。彼女はそれを、ただ茫然と眺める他無かった。
状況を理解出来ぬまま、次に彼女の視界に飛び込んできたのは……ひたすらに大きく、歪に、盛り上がる――巨大な腕のような形をした、肉塊。
生意気な新入りだと舐めていた少女が、それを左肩から生やしている、その異形。それが彼女の最期に見た光景となる。
「ここでは、弱肉強食こそが全て……そうでしょう?」
少女は舌舐めずりをして――ようやく、緩やかな笑みを浮かべるのだった。