等活地獄 4
地獄。此処では『十六小地獄』と呼ばれる十六の勢力が日々領土を奪い合い争い合っている。彼らの目的は一つ。地獄の王になること。
地獄には何も無い。人間以外の有機物が堕ちてくることはない。だから、人間そのものを一種の財産として奪い合うようになった。人間の身体は様々な材料として利用されるようになった。
地獄の王とは、即ち地獄に存在する全ての人間、全ての財産を支配する個人ないし勢力のことを指す。十六小地獄は自分達の勢力を王とするべく、互いの財産である人間を奪い合い、殺し合っている。
これまで地獄の王は、この十六小地獄のいずれかが世代ごとに成り代わっていた。勢力争いの激しいこの地獄において、王で在り続けることは極めて難しい。王の世代交代は頻繁に繰り返され、十六小地獄は終わりのない戦争に身を費やす日々を過ごしていた。
しかし現在の地獄を統べる王は、この十六小地獄のいずれでもない。二百年前から現在の地獄を統括しているのは『屑籠』と呼ばれる勢力であり、この地獄の中央区を我が物顔で居座っている。
そして彼らは戦闘力の無い弱い怪異を集め保護している組織でもあった。秩序の無かった地獄に秩序を齎し、地獄の勢力図の均衡を保っている。
当然、現在の地獄の在り方に不満を持つ者は多い。十六小地獄は今も王の座を虎視眈々と狙っている。そう、彼らは待ち望んでいた。いずれ今の地獄を統べる王――『幻葬王』を討ち滅ぼし、自分達が王になる瞬間を。そのきっかけが堕ちてくる日を、願っていた。
地獄には毎日死者が堕ちてくる。生前、人間だった彼らは地獄に堕ちた影響で特殊な能力を持つ怪異となる。怪異の持つ能力、即ち異能は、個体によって千差万別。弱い能力もあれば、非常に強力な能力もある。
十六小地獄は、いつか幻葬王よりも強い怪異が堕ちてくるその時を。それを自分達の勢力に引き込む日を、今か今かと待ち望んでいたのだ。
「――――どうだ、我々の仲間にならないか?」
そして、その日は来た。
極苦処。十六小地獄の中で最も強く、最も王に近いと云われた勢力。十六の勢力の中でも特に気性の荒い者が集まる傾向にあり、構成員の数だけならば『屑籠』にも引けを取らない大組織である。
彼はそんな極苦処を束ねる王、名を竜胆尊という。毛量の多い紫の長髪靡かせる筋骨隆々とした長身のその男は、強力無比な異能を操り極苦処の荒くれ者共を従える絶対的な指導者だった。
幻葬王さえいなければ今頃は彼がこの地獄を統べていたであろうと、他勢力の者でさえ認めざるを得ない圧倒的な強者。彼の首に巻かれた双頭の大蛇と死神のようなその黒装束は、地獄の住人ならば見るだけで恐れ慄く程の絶望的象徴である。
「もし仲間になるのなら、この階層の半分の領土をお前にくれてやろう」
そんな彼をして「仲間にならないか」と言わせしめたのは、たったひとり、たった十七歳の少女だった。黒い長髪、黒い瞳、黒いセーラー服、何もかもが黒いその少女の周りには、新鮮な死体で溢れていた。その拳と口元は鮮血で真っ赤に染まっている。勿論、その血は少女のものではなく、周囲一帯に倒れる有象無象の死体のものである。
「興味ありません。そんなことより『あの人』を知りませんか?」
「……あのヒト?」
尊の要求を一蹴する少女。その声色に感情は無い。氷のように冷え切ったその声は、聞く者の心臓を鷲掴むようだった。輝きの失った黒い瞳が前方十メートル、尊を見据えている。
普段の尊ならばこの時点で目の前の少女を敵とみなし咬み殺そうと飛び掛かるところだが、しかし、彼は動かなかった。
何故ならば目の前に居るこの少女こそが、地獄の北にある極苦処の根城に単身乗り込み、数千にのぼる部下を鏖殺して、この死体の山を築き上げた張本人だからに他ならない。
それ程までの強者である少女に対して先に攻撃を仕掛けることなど出来るわけもなく、尊はとりあえず少女に話を合わせている状況だった。
「この人です。見覚えはありませんか?」
少女はそう言って胸元にぶら下げていた茜色の球状ペンダント、その蓋を開けてみせ、中身の写真が男に見えるように向けながら問い掛ける。
彼女が地獄に堕ちた理由、恋人である『あの人』の行方を捜すために、彼女はこの問い掛けを幾度となく繰り返してきたのだ。
「…………ふざけているのか?」
しかし、それまで話を合わせる態度を取ってきたはずの尊がペンダントの中身を見た瞬間――どういうわけか、途端にその眉間へ皺を寄せ怒りの表情を浮かべ始めた。
「話の通じない類の狂人だったか。仲間に出来ればと思っていたが……仕方ない」
尊の首に巻き付いていた双頭の大蛇は黒い巨体をうねらせ、縦に割れた瞳孔を前方の少女に向ける。
「他の勢力に渡っても面倒だ。塵も残さず滅ぼしてやる」
尊の怒りに呼応するように、大蛇もまた一メートルはあろうその大顎をばっくり開き、そして――咆哮した。
その轟く獣の声は、まったく蛇のそれではなかった。大蛇かと思っていた双頭のその獣の背には片翼ずつ黒い羽が生えており、大きく開かれた口の奥底で灼光が輝いている。その赤い光が炎であると少女が気付いた時には、もう遅い。
「――炎よ」
双頭の大蛇――否――その蛇龍は次の瞬間、口から突風の如き炎の嵐を吐き出すのだった。
◆
竜胆尊。彼自身の身体能力、戦闘能力は人並みで大したものではない。しかし彼の使役する双頭の大蛇、もとい蛇龍こそが、彼を最強足らしめていた。
片翼を分け合った双頭の蛇龍。これを使役すること自体が竜胆尊の異能そのものである。そして、この蛇龍には――およそ千種類の魔術的な『機能』が備わっている。
怪異と成った人間が死後に得られる異能は原則、一人につき一つまで。どんな異能が得られるかは完全に運次第。地獄においてこのルールは絶対であり、例外は無い。
竜胆尊の異能は蛇龍の使役、この一つだけ。無論、地獄のルールを破っているわけではない。たとえ召喚した蛇龍が複数の能力を使えるとしても、それは竜胆尊自身が複数の異能を有しているという事にはならないわけである。
竜胆尊は実質的に千種類もの魔術的機能を行使できる、万能に等しい状態だった。そんなあまりにも破格な異能を、彼は幸運にも地獄に堕ちた時に手に入れたのである。数は力である。その絶対的な事実を以てして、彼は極苦所の王に成り上がった。
竜胆尊。怪異の名を『アジ・ダハーカ』。双頭の蛇龍を統べる竜王。千の魔術を操る怪異。時代が違えば地獄の王になり得たであろう、最強クラスの怪異である。
そんな怪物と、不幸にも少女は出会ってしまった。これはそんな幕間のお話――
◆
蛇龍の吐き出した炎は瞬く間に周囲一体を焼却し、死体の山は一瞬で塵となり灰となる。今の一撃で並の怪異ならば間違いなく死んでいるはずだが、しかし。
「……あなたも知らないんですね。『あの人』がどこにいるのか」
双頭の蛇龍が空を仰ぎ、遅れて尊も見上げる。遥か上空、少女は其処に居た。背には鳥のような翼が生えている。
「ならもう用済みです。さようなら――」
「――雷よッ!」
尊の意思に呼応して、双頭の蛇龍は口の奥から黄金の光を溢れさせる。そして直後、口から放たれたのは電撃だった。上空の少女を撃ち落とさんと音より速く迸る黄金の雷。それは少女が動き出すよりも早く、その華奢な身体に直撃した。
まさに雷が落ちたような轟音が鳴り響き、瞬く間に黒焦げになった少女はそのまま空から落ちてくる。更に追撃を仕掛けるように、双頭のうち一頭の蛇龍が少女に向かって音速で空を翔けていった。落ちてくる少女の真下へ滑り込むようにして移動し、大顎を広げ少女が落ちてきたところを咬み殺さんと待ち構える。
落ちていく。落ちていく。落ちていったその果てに、このまま蛇龍の餌食になるかと思われた少女だったが、しかし。
「っ、ふ――」
少女の口から呼吸のような空気の抜けた音が聞こえてきた、次の瞬間。少女は落ちながらくるりとその身体を縦に回転させ、そして――真下で待ち構えていた蛇龍目掛けて踵落としを炸裂させていた。
ただの踵落としではない。踵落としを繰り出した少女の右脚はその一瞬、巨大な象のようなそれへと変貌を遂げていたのだ。
重さ六千キロもある象の足から繰り出される踵落としを蛇龍は頭から受け、大地と共に跡形もなく砕かれたのだった。そのままの勢いで少女は地上に着地し、周囲に砂埃を巻き上げる。
「ほう……!」
尊の目には確かに電撃を受け黒焦げになったように映った少女は、しかし砂埃が晴れた時にはもう傷一つなく、そこに立っていた。
「ただの変身能力ではないな……まさかあの『幻葬王』と同じ身体強化系か? 面白い……!」
強敵を前にして、竜胆尊は感嘆の声を上げる。少女の強さを値踏みする彼の目には余裕すら宿っていた。彼の余裕を支えているのは、やはりその手札の多さだろう。異能は一人ひとつ。ならばそのひとつを対策出来てしまえば、怪異同士の戦闘においてはそれだけで相手を詰ませることが出来る。
今回においても竜胆尊はただいつも通り、千種類の手札の中から有効打を選び取るだけでいい。それだけで、彼は常勝無敗だった。
「ならば……氷よッ!」
尊の背後に控えていたもう一頭の蛇龍が、尊の命令に反応して大顎を開く。白い光と共に吐き出された凍てつく吹雪が少女に向かって吹き荒ぶ。触れた者を触れた先から凍らせ死に追いやる氷の嵐が一瞬で少女を呑み込んでいった。
大地は瞬く間に白銀に覆われ、周辺の温度は急低下する。氷の小結界に閉じ込められた少女、その隙に尊は頭を潰された方の蛇龍の胴体を自分の傍へと引っ張り戻していた。
「これで――」
頭を潰された蛇龍は尊に胴を撫でられた直後、失った首から先が再生していった。異能の本体である竜胆尊を倒さない限り蛇龍は復活し続ける。その復活も十秒とかからない。肉が、骨が、細胞が見る見る内に元のカタチを形成していく。
氷の息吹が少女の身動きを封じている間、そうして復活した蛇龍は間髪入れず再び大きく口を開いてみせた。
「――終わりだ」
七色の光が、大顎の奥から洪水のように溢れ出す。
同時に複数の魔術を発動した蛇龍は、核融合を起こしたかのような爆発的な光を生み出し――次の刹那、それは放たれた。
雷、炎、氷、風、水、土――あらゆる属性が混じり合った破壊の光が、大地を抉りながら一直線に発射される。それは刹那の内に前方の少女を呑み込み、凍てつく大地諸共、直線上にある全てを吹き飛ばすのだった。
「……まあ、こんなものか」
千ある魔術のうち、最も強力なものを属性ごとに選び、それらを複合させた上で放つ極大魔術。焼けた大地から立ち込める煙の量はその威力の大きさを物語っていた。
これをまともに食らって立ち上がれる怪異などそうはいない。十六小地獄の全怪異が幻葬王の次に恐れているものこそ、この七色の光なのだ。事実、幻葬王が現れるまで竜胆尊はこの必殺技と呼んで差し支えない破壊光線を代名詞とし、最強の名を恣にしてきた。この破壊光線を受けて耐え切った怪異は、歴史上、幻葬王だけである。
「確かに強かった……が、幻葬王ほどではないな。やはり噂は噂か……」
近頃、突然噂に上がるようになった怪異殺しの悪魔の存在。黒い学生服の女という特徴以外、誰もそれの正体を知る者はいない。
その理由は単純で、正体を看破するよりも早く目撃者は消されてしまうからである。だから断片的な情報だけが噂として広まっていった。既に十六小地獄のうち十一もの勢力が、この悪魔に潰されている。それもたった一週間に起きた出来事だという。
その噂について、竜胆尊は半信半疑だった。どうせあの案内人がまたテキトーなことを触れ回っているのだろうと思い、相手にしていなかった。そして実際に、こうして怪異殺しの悪魔が目の前に現れても、竜胆尊はやはり今まで耳にした噂は何かの間違いだったのだろうと思わずにはいられなかった。
先程対峙した少女が噂通りの悪魔ならば、弱すぎる。十六小地獄を相手にたったひとりで無双を誇れる怪異なんて、それこそ幻葬王くらいなものである。そう何匹も幻葬王クラスの化け物が居てもらっては困るというものだ。
しかし尾ひれのついた噂とはいえ強い怪異であることは確かなのであろうと考えた尊は、こうして少女にスカウトを試みたのだ。結果はご覧の有様である。
「さて……回復魔術を使っても全員生き返らせるのに何ヶ月掛かることやら。やれやれだな……」
噂の正体を暴いた代償が、数千に及ぶ自分の部下の命。割に合わないどころの話ではない。大赤字である。尊は溜息を吐きながら、蛇龍に命令を下そうとして――
「けほっ……けほっ……」
――思い知る。この世には例外が、存外ありふれている、ということを。
「……………………何?」
煙が晴れて、現れたのは無傷の少女。噂の怪異殺しの悪魔。煙を吸い込んでしまったのか、少し涙目になってせきこんでいる少女は、どこからどう見ても、無傷。着ている服の布切れ一枚に至るまで、無傷だったのだ。
「ふう……、あぁ……苦しかった……」
無論、苦しかったとは吸い込んでしまった煙に対して。
「……あなたの異能、私のに少し似ていますね。勉強になります」
煙が完全に晴れた焼け野原、当たり前のように其処に立って話しかけてくる少女を前に、竜胆尊はようやく自らの浅はかさを思い知っていた。
「さっさと殺そうかと思いましたが……もう少し、練習に付き合ってくださいますか?」
「練習……だと……?」
「はい。まだ異能の扱いに慣れていないもので。あなたのも私と同じ、色々出来るタイプの異能なんですよね?」
少女は依然、泣きも笑いもしない殆ど無表情のまま変わらず、其処に居る。そう、少女自身は何も変わっていない。それでも、竜胆尊には少女が変わったように映っていた。
「地球上で人類が発見した生命体――およそ百七十五万種類の能力を操る私の異能。全部試してみたいんです。だから、付き合ってください。練習」
――否。変わったとすればそれは竜胆尊の方だろう。狩る側から狩られる側に変わった、彼の立場なのだろう。
「……ッ、く、ぉ、おおおおおおおおおおオオオオオオオオオオオオオオッッ!!!!」
尊の雄叫びと共に、双頭の蛇龍が再び虹色の輝きを吐き出す。千ある魔術、千ある異能、その全てを開放し、出鱈目に放ち続ける。
尊の脳内が目まぐるしく回転する。知り得る限り、扱える限りの魔術を絶え間なく撃ち続ける。雷も炎も氷も、風も土も水も岩も毒も酸も音も光も闇も重力も、全てを魔弾に込め乱射した。
数は正義である。こと異能においては、バリエーションが多ければ多いほど対応できる相手も増える。千種類の魔術の全てを防げる怪異など存在しない――
――ただし当然、何事にも例外は存在する。
「ええと……雷にはデンキウナギ、氷にはナンキョクユスリカの個性を再現、耐性獲得……突風には足を象に変化させて単純に体重を増やして吹き飛ばされないように凌ぎましょうか。岩や酸などの物理攻撃はウロコフネタマガイの鉄鎧を人間サイズで再現して防御。水による窒息対策は、呼吸系統を魚類のそれに変化させてもいいですが……そもそも酸素を必要としない動物に成ればいいか。毒は、確かマミチョグという動物が強力な耐性を持っていたはず。あとは……」
蠢動する。脈動する。少女のカラダが、ヒトのそれでは無くなっていく。
少女の皮膚はその中身が透けて見えるほど薄く透明になっていく。筋肉も透け、血液も透け、闇のように黒い空間が少女のカタチを成していた。そんな少女の体内で這い回るのは、蟲のような、ともすれば惑星のような、そんな何かが点滅発光して、闇の中を泳いでいる。
両足は肥大化し、地中深くへ突き刺さる程に大きく、太く、重くなっていく。やがて全身を覆い始めた鉄の外殻は、少女の身体の内側から生えてきている。頬に魚のエラのようなものが現れ、艶のある黒い長髪は更に長く伸びていき、毛先のひとつひとつに目玉が生えていた。
怪異殺しの悪魔。黒いセーラー服の少女、黄昏愛。彼女の異能を一言で表すのならば、生物に変身する能力、である。
例えば動物に変身する、いわゆる人外のチカラを使う怪異は、この地獄においてはそう珍しい存在でもない。
そして当然の話ではあるが、変身の対象となる動物の種類はベースとなる怪異に依存する。例えば人狼の怪異ならば、当然ながら狼の姿にしか変身できない。
それが、この少女の場合――この世全ての生物に変身出来るという。
ただしそれは理論上の話。人類が発見した生命の種類は地球上に存在する全生態系のおよそ一割にも満たないと言われていて、それがおよそ百七十五万種類。更にその中から少女が覚えている種類のものだけを『ぬえ』は変身の対象に出来るので、実際にはもっと少ない。
ならば少女の先程の発言がハッタリだったのかというと、あながちそうでもない。少女は生前、その特殊な出自が関係し――生物に関する膨大な知識を有していた。
ある種特徴的な生態・能力を持った生物ならば諳んじて言える程度には、彼女はこの手の分野に精通していたのである。
数は力であり正義である。それは間違いない。そして数が正義だというのなら当然、数の多いほうが真に正義であるともいえる。
たった千種類の能力が扱えるというだけで幻葬王に次ぐ最強の怪異を名乗れるのであれば――およそ百万種類以上の能力をその身に宿した彼女は、いったい何者だと言えるのだろう。
そんなものを形容出来る言葉があるのだとしたら、成る程それは正しく――『怪異殺しの悪魔』と呼ぶ他ないのかもしれなかった。
「ッ……ば……バケモノ、め……!!」
少女は竜胆尊の繰り出す攻撃に合わせ、有効な対抗手段を百七十五万種類の中から模索し、実行する。まるで試すように。殺し合いの最中だと思えない程の冷静さで。
事実、異能を手に入れてまだ日の浅い彼女は、『あの人』を探すついで、戦闘の練習相手として都合が良かったから――ただそれだけの理由で十六小地獄に目を付けていた。
竜胆尊という本来であれば強者として語られるべきその男も、少女からしてみればただの有象無象の一匹。ただの練習相手。運の悪い被害者に過ぎない。
千の魔術が、その尽くが呆気もなく無力化されていく。自分の攻撃がまるで通用しない悪夢のようなその光景に現実味などさらさら無く、ここにきて竜胆尊は未だ呆然とするばかりであった。
「あちっ」
その最中、不意に少女が小さく悲鳴を上げる。少女の右腕を覆っていた鉄鎧が炎の魔術に熱されたことで皮膚を間接的に焼いたのか、腕の大部分が火傷で赤黒く傷付いていた。
「ふむ……高熱への絶対的な耐性を持つ動物は存在しない……瞬間的な火力は防げても、こうして熱で持続的に炙られてしまうと……どうしようもないみたいですね。勉強になります。痛覚を始めとする感覚遮断の精度ももっと上げないといけませんね……」
などと反省の言葉を口にしているが、しかし次の瞬間にはそんな火傷痕も元の白い肌へと再生している。プラナリアやベニクラゲなどの個性を再現した完全再生能力。耐性を潜り抜けどうにかダメージを与えられたとしても、このように瞬く間に直されてしまうわけである。
この時、竜胆尊はようやく悟った。認めたくない現実を受け入れる覚悟が決まった。目の前のこの悪魔に、自分ではまるで歯が立たないと。
「……おや、もうネタ切れですか? そうですか。それじゃあ、さよならですね」
これ以上試せることはもう無いと察したのか、少女はどこまでも冷たく吐き捨てる。まるで使い古してズタボロになった人形を捨てる時のような、憐憫な眼差しを向けて。感情の色がまるで見えない、真っ黒なその瞳に覗かれた竜胆尊。蛇に睨まれた蛙の、次なる一手は――
「――転ッ、」
やはり、逃げの一手。竜胆尊の足元に魔法陣が浮かび上がる。転移魔術。これで一刻も早く少女から離れる。それしか今の尊に出来ることは残されていなかった。
「移――!?」
だが。転移の詠唱を終えるよりも早く、竜胆尊の顔は少女の手によって鷲掴みされていた。しかし少女との距離は前方十メートル、少女はその場から動いていない。けれどその手は確かに少女のもので――
「クマ十匹分の筋肉とゴリラ十匹分の筋肉を接合――魔腕構築」
――否、それはもはや少女のものではない。筋肉が盛り上がり、迫り上がり、増設に増設を重ね巨大化した、筋肉の塊。それを腕と呼ぶにはあまりにも巨大で歪な、怪物のそれが少女の右肩から生えている。
少女の華奢な身体から伸びるその巨大で歪な魔腕は、醜悪な黒い肉の塊は一瞬で構築され、竜胆尊の顔を掴んでいた。
「…………潰しますね?」
「や、め――」
そうして、ぶちゅり、と。容赦なく男の顔は握り潰される。首から上を失った男の身体がその場に崩れ落ちる。同時に使役されていた双頭の蛇龍もまた肉体の維持が出来なくなり、崩れてただの土塊となった。
「……………………」
その場に一人残された彼女。黒い長髪、黒い瞳、黒いセーラー服のその少女。彼女はローファーで血溜まりを踏み締めながらゆっくりと男の死骸のもとへ歩いていく。自分がたった今殺した死体を、少女は何の感慨も無く見下ろしている。
「…………ああ、おなかがすきました」
言いながら、少女は男の傍でしゃがみ込む。きゅるる、と可愛らしい音をお腹の奥から微かに鳴らして。その黒い視線は、新鮮な赤い血を垂れ流す剥き出しの首の肉へと注がれている。
「……此処は、弱肉強食、らしいので。だから……」
少女の口の端から、唾液がたらり零れ落ちる。それは地獄に堕ちて以来、幾度と無く繰り返してきた行為。地獄には人間以外の有機物が堕ちてこない。即ちこの地獄には現世で一般的とされる食用の動物や植物、果実の類は一切存在しないのである。だから、仕方ない。これは仕方ないのだと、言い訳をして――
「遠慮なく、いただきますね」
少女は躊躇いなく、死骸の肉に喰らいついていた。
◆
「なんだ、これ…………」
竜胆尊――アジ・ダハーカの異能によって編み出された合体魔術、七色の破壊光線。その威力は地盤を揺るがす程で、彼が本気で戦ったという何よりの証拠でもある。その輝きは隣の領土、刀輪処にまで届いていた。
怪異殺しの悪魔の噂。これが囁かれるようになった今竜胆尊が本気を出して戦う相手などその件の悪魔以外考えられないだろうと踏んだ刀輪処の怪異達は、すぐに極苦処の領土へ偵察に向かった。
そこで待ち受けていたのは――無人と化した極苦処の荒れ果てた大地。そして――竜胆尊の見るも無惨な死骸だったのだ。
「アジ・ダハーカの怪異が……本気を出したあの怪物が、負けたってのか……?」
荒野に打ち捨てられた尊の死体は上半身が食い散らかされていた。これこそ悪魔と囁かれるまでに至った所業の正体。赤い月が登る漆黒の夜、その悪魔は現れ、十六小地獄のうちこれで十二、十二人の王をまるで狙い撃つように喰い殺していった。
地獄の勢力図をたった一週間で滅茶苦茶に荒らしていく、正体不明の怪異殺し。黒い、学生服の、少女――
「これも怪異殺しの悪魔の仕業だってのか、でもこれは……」
「極苦処の王を……アジ・ダハーカの怪異を倒せるなんて……そんな奴…………」
その正体について、考えれば考えるほど、やはり。
「…………幻葬王くらいしか、いないだろ…………」
誰もがその答えに行き着くのだった。
「あの……すみません」
凛とした、それでいてどこまでも冷たい女の声が、背後から聞こえてくる。刀輪処の男達は、声のした方へ振り返って――
「人を、捜しているのですが」
それが、昨晩の光景。