等活地獄 16
幻葬王、芥川九十九。その『悪魔』としての彼女の能力は、肉体の怪物化と、それに伴う身体能力の超強化。その規格外の膂力誇る怪物の巨腕が、黄昏愛の上半身を拳一つで消し飛ばす。
まるで最初からそこに無かったかのように、スプーンで丸ごと抉られてしまったみたいに。愛の身体は、拳を受けた衝撃とその摩擦熱によって、溶けるように無くなってしまう。
「(嗚呼……面倒臭い……)」
しかし消し飛ばされたその端から、愛は異能による超再生で肉体を復元していく。意識を失うことすら無く、瞬時に元通りに直っていく頭の中で――彼女は心底憂鬱そうに溜息を吐いていた。
愛は『あの人』の行方を探し、地獄中を彷徨った。その結果、各地で些細ないざこざを起こしたわけだが――そんな事よりも深刻だったのは、誰も『あの人』のことを知らなかったという事実である。
こんなに探しても見つからなかったのだから、やはりあの案内人の言う通り――この地獄の全てを統べるという幻葬王、芥川九十九を倒す事こそ『あの人』を見つかる近道になるはずなのだと。少なくとも今の彼女は、そう確信していた。
「(だって、誰にも言えない秘密だなんて――)」
そんなものは、『あの人』のことに違いないのだから。
地獄は弱肉強食。そのルールに従えば、きっと全部が上手くいく。幻葬王を斃し、彼女の隠している秘密を吐かせる。そうすればきっと、『あの人』が見つかるはず――その為には、もっと強くならなければ。今ここで、今すぐに。
愛の肉体は再生を遂げるごとに、より歪に、より巨大に変貌していく。その異様な光景に、九十九は静かに目を見張っていた。
「(でも――この程度では、まだ届かない)」
相手は本物の悪魔。人智を超えた存在。何が弱点なのか、何に変身すれば勝てるのか、何も解らない。ならば愛は、徹底的に、手当たり次第にやるしかなかった。
鳩の羽が捨て去られ、猛禽類の物へ変わる。魚のような鱗が体表を覆ったかと思えば、クラゲのような触針が全身の毛穴から無数に生えてくる。
両腕は熊の巨大な筋肉を保ちながら、手首から先は捻れ狂い、爬虫類のような動物の顔が形作られる。もはや何とも形容し難い、大顎の花束が出来上がった。
眼も、耳も、鼻、口も、元の少女のそれとは様変わりしていく。耳が柔らかく伸び、ひれのように後ろ側が靡いたかと思うと、目が人間らしい正面から三百六十度を見回せる猛禽類の位置へ変わっていって――もはや完全な怪物へと変わり果てた、かつて少女だったその異形は駆け出した。
「ォォォオオオオオオオオオッ!!」
対する九十九、獣の如き咆哮を上げながら、愛に向かって突進を繰り出す。音を置き去りにする悪魔の怪脚、その速度から繰り出される突貫を――しかし愛は紙一重で躱してみせた。
「…………ッ!」
九十九の背に回り込み、愛は鰐の大顎でその背中に喰らいつく。牙が肉に食い込み、夥しい量の出血が伴った。しかしその程度の攻撃で反撃の手を緩める九十九ではなく、咄嗟に振り返りながら悪魔の拳を愛へ目掛けて瞬時に叩き込む。その一撃で愛の上半身はまたしても消し飛ぶが、しかしすぐに再生していった。
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!」
間髪入れず、愛に再生の隙を与えないよう、九十九の拳が連続で繰り出されていく。降り注ぐ銃弾の嵐が如き拳の連打――しかし。
「(視える……避けられる……!)」
その歪な巨体からも想像も出来ない程の俊敏さで、愛は連打をやはり紙一重で躱してみせる。もはや再生能力に頼らずとも、音速に迫るその連打に対して愛は見てから避けられるようにまでなっていた。
そして躱せるようになったなら、そこから転じて反撃が始まる。愛の両腕が異形の触手へと変化し、その鋭く歪な触針が、悪魔の肉体に突き刺さった。
「ぐ…………ッ!?」
触針を伝って肉体に注入されたのは、フグ毒、サソリ毒、ヘビ毒――およそ愛が思いつく限りの毒が致死量。その直後、九十九の口から夥しい量の血が吐き出された。更に藻掻き苦しむことすら許さないように、愛の背中から更に触手が伸び、九十九の身体を拘束していく。
「く、ッ……オ、ォォ…………オオオオオオオッ!!」
しかしそこは規格外の悪魔。力尽くで拘束を振り解き、自らに突き刺さった触手を引き千切る。筋肉の駆動で毒を傷口から無理矢理に噴出させるという常識外れの処置で以て、すぐさま体勢を立て直す。
そして勢いを衰えさせることすらなく、九十九は再び拳の連打を繰り出した。それに迎え撃つ愛は、欠伸でもするかのように大きく口を開けてみせる。
その次の瞬間、強烈な破裂音と共に、炎――正確には炎ではなくプランクトンであり、カーディナルフィッシュの個性を再現し実現した発光現象――が勢いよく飛び出した。
「チッ……!」
眩い発光に視界を封じられる九十九、僅かに拳を逸してしまう。その隙に愛はハチドリのような鋭く動く翼を羽撃かせ、上空へと飛び立った。それを追う形で九十九も黒い羽を駆動させ飛翔、戦いの舞台を空へ移す。
「(私のような再生能力を持っているわけじゃないのに、頑丈過ぎる。反撃も馬鹿にならない。正面からまともにやり合っても、こっちが疲弊するだけか……)」
上空で睨み合う両者。その最中、愛の思考は回転することを止めない。どんな動物に変身してどんな能力を使えば、目の前の悪魔に有効なのか。常に考え続けている。
「(だったら……!)」
そうして熟考を重ねた結果――愛の身体は空の色に溶け込み、霞のように姿を消していた。
「(反撃の余地も与えない……一方的に蹂躙してやる……)」
ツマジロスカシマダラ。透明な翅を持つその生物の特性を模倣し、愛はその姿を背景に同化させる。
「…………?」
愛の姿が、九十九の目の前から一瞬で消えた。その戸惑いからか、九十九の反応が一瞬、ほんの僅かに鈍る。その一瞬の隙を突いて――
「ぐッ、オ……!?」
――繰り出される、四方八方からの透明な攻撃。サソリの毒針、蛸の触手、熊の鉤爪、鰐の大顎――思いつく限りの多彩な攻撃が、九十九に襲い掛かった。
咄嗟に悪魔の腕を我武者羅に振るう九十九。しかし愛のハチドリの翅は高い機動力でその攻撃を的確に躱し、遠距離から触手触針による射撃を行う。毒が、酸が、悪魔の黒い皮膚を灼く。
それでも致命傷とまではいかないが、見えない攻撃というプレッシャーが体力のみならず精神までも削っていく。そして愛の狙いはそこである。
生前、ほんの数週間前までは普通の女子高生だった黄昏愛。当然、戦闘においてはズブの素人だが――死後、彼女は才能に恵まれた。
ぬえという怪異の持つ異能、その真骨頂は攻撃力ではなく防御力、対応力にこそある。あらゆる生物の能力を模倣出来るが故にあらゆる攻撃に対処可能で、対処不可だった場合でさえ自動かつ高速の再生能力がダメージを無かったことにしてくれる。
即ち持久戦でこそ、ぬえの異能はその真価を発揮する。そのことを黄昏愛は戦闘の素人でありながら、非凡に恵まれたその観察眼によって理解し、戦法に組み込むまでに至っていた。
「…………オオオオオオオオオ…………ッ!!」
愛の取った戦法は正しい。回答としては優等生のそれだろう。
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!!」
だからこそ、この場合――相手が悪かった。常識。正答。そんなものに、芥川九十九が当てはまるはずもない。
それは咆哮だった。悪魔の開口によって全方位に放たれた、音の衝撃。耳をつんざく遠吠えが、愛の鼓膜を一瞬で破り、全身を衝撃波によって破壊される。
ソナー。音波によって物体との距離を測る装置。その存在を芥川九十九は知らない。知らずに九十九はその発想に至っていた。規格外の発想を、規格外の方法で実現させ――九十九は見事、愛の戦法を破ったのである。
「ぐあ……っ!?」
地上にまで衝撃が届くほどの轟音。真正面からそれを受けた愛は堪らず透明化を解除し、再びその全身を露わにしていた。
「ッ……ほんと、うるさい……!」
再び現れた愛の姿は、異能による再生と改造が繰り返され――しかし意外にも、ヒトの形を成していた。ただし奇妙に伸びた長い頭部と、固い甲殻に覆われた尾のような器官を体へ巻き付け、均整の取れた足を揺らすその姿を、ヒトそのものだとは表現し難く――彼女はやはり、ヒトの域を逸脱していた。
「ああ……もう……鬱陶しい……! 殺す…………殺す…………殺す殺す殺す――――――――ッ!!」
もはや少女の面影すらなくなったその怪人は、高い周波数の音を口と思しき器官から発する。常人には聞き取れない、言語なのかも不明なその音もまた、悪魔のそれに負けず劣らず地上にまで轟かせる。
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」
対する悪魔、空気を振動させるその咆哮が、聞くもの全てを細胞単位で震え上がらせる。怪物同士、全ての音を置き去りにして――本日何度目かの突進。激突し合う肉体同士、腕と腕が絡み合う。
互いの血飛沫で身体を洗い、喉を潤す。掴み掛かった先から肉は千切れ、骨は砕かれる。拳が、刃が、貫き合う。
死闘と呼ぶには、その光景はあまりに常軌を逸していて。その四面楚歌、阿鼻叫喚はやはり――地獄と呼ぶ他無いのだろう。
◆
「見ろよ……あれ……」
「どうなってんだこりゃ……」
地響きを立て、空気を揺るがし、衝撃が大地を割る。怪物同士の激突、上空で繰り広げられる神話の如き光景は、等活地獄全土で観測でき、住人達は次第に騒ぎの中心である廃校者へと集まりつつあった。
その有象無象の中には先刻、愛によって倒された『屑籠』の面々も混じっている。教室でのびていた彼女達はなんとか意識を取り戻し、傷だらけの身でありながらも立ち上がっていた。
そんな彼女達の足は自然と、彼女達にとって最も信頼出来る人物――廃校舎の校門近くに佇む、ちりのもとへと集まってくる。
「ちりさん……こいつはいったい……?」
「……戦ってんだよ。オレらの大将が。オレらの面子を守る為に」
息を飲む音が方々から聞こえる。見世物と思って観戦していた者たちも、次第に状況を把握する。怪異殺しの悪魔と呼ばれ、あちこちを騒がしていた謎の新入り。その新入りと、幻葬王が戦っている。その事実が何を示すのか、次第に皆が理解していく。
「九十九さん……あたしらの仇、取ろうとしてくれてんのか……」
誰かが、ぽつりと呟いた。その場にいる誰もが、少しずつ、あらゆる意味で、その目を覚ましつつあった。確実に周囲の空気が変わっていくのを感じながら――それでも。ちりの胸中は、穏やかではいられない。
普通の怪異は、肉体を瞬時に修復する程の高速再生能力など持ち合わせてはいない。当然、あの芥川九十九でさえ例外ではないのだ。この場合、黄昏愛という怪異が異常なだけである。
愛ほどでは無いにしろ、怪異は誰もが非凡の自然治癒能力を有する。それは致命傷を受けてもなお、時間さえ掛ければどんな傷でも自力で治してしまえるほどの代物で。地獄において、怪異は死にたくても死ぬことが出来ない。許されない。
しかしそれは、やはり普通の怪異なら、という話。そして芥川九十九は普通ではない。その特殊過ぎる出自は、規格外の異能を授かりながら、その代償として、本来得るべき恩恵を与えられなかった。
幻葬王には、誰にも言えない秘密がある。
その秘密を、本人を除いてただ一人、ちりだけが知っていたのだ。
◆
上空では依然、鎬を削り合う両者。破壊と再生を繰り返す怪物同士。その傷付いた身体から迸る血液が地上に落下し、大地を焼いた。血の雨から逃れるべく、地上の怪異達は急いで廃校舎内へと避難している。
落ちてくるのは血の雨ばかりではない。千切れた腕が、捻れた脚が、絶えず落ちては地面を揺らす。その戦いは最早、この等活地獄にとって未曾有の災害だった。
それでも、止まない雨は無いように。永遠に続くかと思われた時間にも、終焉は必ず訪れる。
片や無限に続くかと思われた超再生、その勢いは明らかな衰えを見せ、徐々に傷が目立つようになっていく。片や悪魔の如き強靭な肉体、繰り出されるその拳は緩やかに失速していき、次第に呼吸も荒くなって、明らかな疲れを見せるようになる。
「ッ……あ……」
「グ……ォ……」
互いの怪腕が互いの翼を捥ぎ取って、二人はとうとう地上へと落下した。二人の落ちてきたグラウンドに凄まじい振動が轟き、それは周囲一帯に広がって吹き荒れる砂埃が廃校舎を飲み込む。
煙舞う景色が晴れた時、グラウンドには怪獣の姿はなく、ヒトの形に戻った両者が、静かに向き合っていた。
超再生能力も、超人的なタフネスも、やはり無限ではない。体力の限界と共に異能は解除され、黄昏愛は右手を熊のそれに変えるだけに留め、芥川九十九は左手を悪魔のそれに変えるだけに留めている。
肩で息をする両者、もはやそれ以上の異能の行使は限界で、それでも両者、今更膝をつくことなど無い。こうなってはもう、意地と意地の張り合いだった。
「……まだ、やるんですか……」
「……やるよ。愛が、落ち着くまで……」
心底面倒くさそうに、愛が呟く。その声を拾って、九十九の口の端が僅かに持ち上がった。
「私は……落ち着いてます」
「はは……どこが」
「っ……だいたい、あなたが……! さっさと秘密を吐けば……こんな無駄な時間、取らなくて済んだんですよ……!」
「秘密……?」
ムッとした表情で詰め寄る愛。そんな彼女の口から発せられた「秘密」という単語に対し、九十九は不思議そうに首を傾げてみせる。
「だって、ロアが言ってました……幻葬王には誰にも言えない秘密がある……それって、『あの人』のことですよね……あなた、何か知ってるんですよね……!」
輝きを失った漆黒の瞳が、責めるように九十九を見つめる。しかし問い詰められている当の本人は、僅かに目を見開かせた後に、ぽかんとした間抜けな表情を浮かべるばかりだった。
「――――は」
直後に聞こえたその音は、九十九の口から発せられた、乾いた笑い声。
「そうか……ああ……そういうことか……はは……」
ひとり納得したように頷く九十九に、愛の苛立ちはピークに達し始める。
「もう、いいです……っ!」
怒りで身を震わせながら地上を駆ける愛。変異していない脚では所詮その走力もヒトのそれで、先程までの戦闘と比べると随分遅く、鈍い。
しかしそれは九十九も同様で、悪魔の如き身体能力は最早見る影もなく、ふらつく身体を気合いだけで支えているような状態だった。
「……いいよ。気が済むまでやろう……!」
迎え撃つ九十九、どこか自嘲的に微笑んで、左の拳を握り直す。
「あ゛あああ……っ!!」
「おおおおお……ッ!!」
両者、激突する勢いで駆け寄って――互いの拳が、互いの頬を殴り飛ばした。ぐらつく視界、薄れる意識、揺れる身体を、棒のような脚が支え、もう一度、両者、拳を振るう。頬を打ち、それでも倒れない。また殴る。その繰り返し。殴り合い。まるで普通のヒトのような、ただの喧嘩。意地の張り合い。
一度火が点いてしまえば、今更もう止めることは出来ない。それは遠巻きに眺めていた他の怪異達にも解るところだった。最早行き着く所まで行くしかない。この勝負の行く末を、黙って見届けるしかない――
◆
そんな中で、たったひとり。現状を咎める、赤い少女の姿があった。
「駄目だ九十九……それ以上やったら、オマエは……っ!」
幻葬王には、誰にも言えない秘密がある。それは勿論、愛の探し人のことなどではない。最早暴走した愛がそんなことに聞く耳も持たないことは、ちりにも解る。ただし、誤解だと解って、それでもなお戦いを続ける九十九の真意が、ちりには解らない。
九十九にとって戦いとは、理由ありきの行為である。生きる為に、必要だから戦う。必要ではない、無駄な戦いはしない。する意味が無い。きっかけが誤解だと解ったなら、九十九は戦いをやめ、その誤解を解こうとする。芥川九十九とはそういう生き物であると、ちりはこの数百年、傍に居て、見てきて、理解していた。そのつもりだった。
それ故に、解らない。ちりには、今の芥川九十九のことが解らなくなっていた。