等活地獄 14
しかし、試しているのは愛だけではない。赤い瞳、燦めかせて――九十九の右足が地面を踏み込んだ、次の瞬間。
「は、ァ゛?」
踏み潰された蛙のような呻き声が、黄昏愛の喉奥から短く漏れていた。先程までとは比べ物にならない、音を置き去りにする程の速度で、九十九は愛との距離を一瞬で詰める。
そのまま抵抗する暇すら与えないままに、その振り抜かれた左の拳は、愛の顔面を真正面から捉えていた。放たれた拳の衝撃は愛の首から上をいとも容易く引き千切り、遥か上空へと打ち上げる。千切れた首からは血が噴水の如く溢れ出し、周囲を赤い雨で濡らしたのだった。
首を失い、その場に崩れ落ちる愛。その死体を見下ろす九十九。足下には血溜まりが広がっていく。
「殺ッ……たか……?」
その一撃で勝敗が決したことを確信し、ちりは九十九の元へ駆け寄ろうとして――
「まだ、やれるだろ」
――しかし。九十九の不意に発したその言葉に、ちりは思わずその場で足を止める。
その言葉の意味が、ちりには理解出来なかった。まだやれるだろ――その言葉を九十九は、確かに足元の死体に向け放っている。
怪異は確かに不死の存在だが、それはあくまでも「どんな傷を受けても最終的には治る」というだけで、ダメージ自体は受けるしそれによって意識も失う。完全に死にはせずとも、それこそ首を失う程の致命傷を受けてしまっては、完全復活まで相応の時間を要するはず――
「は? おい……まさか……」
――そんな常識を、彼女は容易に覆す。
「立った……ッ!?」
九十九の呼びかけに反応するように――その首の無い死体は、起き上がってみせたのだ。まるで蜥蜴の尻尾切りのように、千切れた首の出血は既に止まっていて。代わりに生えてきたのは、無数に織りなす筋繊維。それが首の上で形を成し、やがて筋肉となり、白い肌に覆われていく――。
「ふぅ」
目、鼻、口、毛髪――全てが瞬く間、元通りに治っていって。黄昏愛はその一瞬で、復活を遂げたのである。
試しているのは愛だけではない。九十九もまた、目の前の怪異が自身の脅威と成り得るか、戦いの中で慎重に測っていた。
芥川九十九は人間以外の動物を知らない。それ故に、愛が何に変身しているのか、見当もついていなかった。ウーパールーパーやプラナリアの有する未分化細胞、それを人間の身体で再現したことによる超再生能力――などと言われたところで、知識の無い九十九に理解出来るはずもない。
ただ、それら未知の現象を起こりうる可能性として、九十九は全てを想定していた。目の前の脅威――黄昏愛が出来るかもしれない全てを、九十九は戦いの中で見定めていた。果たしてこの怪物が――全力を出して足る相手か否か。
「し、ッ――!」
再び、九十九が動く。踏み込み、振り被る。周囲に突風を巻き起こし、音が遅れてやってきて――そうして再び繰り出される、左の拳。しかしそれを今度は間違いなく、黄昏愛は上体を後ろに反らし、紙一重で躱してみせる。
だが九十九の攻撃は当然それだけでは終わらない。そのまま今度は左足で立ち代わり、踏み込んで、右の拳による追撃を放つ。それに対して愛もまた、上体を逸したまま両手を地面に付かせ、バク転の要領で跳躍し追撃から逃れてみせる。
しかし愛が着地した先、その背後は崖。それ以上後ろに逃げ場は無い。そこまで予測していたのか、九十九は更に続けざま踏み込み、身体を捻らせ回転するように振り翳した左手で、愛の胸倉を掴みに掛かる――
「あれ……っ」
――が。伸ばしたその左手は、虚空を切っていた。それ以上後ろに下がれないはずの愛の姿は突如、九十九の目の前から忽然と消えていたのである。代わりに九十九の左手が咄嗟に掴み取っていたのは、一片の白い羽毛だった。
「上だッ!!」
ちりの大声に反応して、九十九が空を見上げると――その視線の先、黄昏愛は空にいた。
遙か上空、黒い太陽を覆い隠すように広げられた白い翼は、天使と見違うほどに、美しく。もちろん本物の天使であるわけもなく、その白い羽根は愛にとって見慣れた生き物のそれだった。
鳩。それはいつかの時間、どこかの場所で、『あの人』と共に見上げた青い空。優雅に羽ばたく白い鳩は、愛が上空へ逃げ場を求めた瞬間、殆ど無意識に背中へ現れるほど、彼女の記憶に深く焼き付いているものだった。
「はぁ……――」
上空から九十九を見下ろす黄昏愛。いくら怪物的な強さを誇る九十九と言えど、跳躍では届かないほど遥か上空へ避難した彼女は、ようやく一息吐いて――ゆっくりと、その両脚を変貌させていく。
「おい……マジかよ……」
その変貌した両脚を見上げて、ちりは思わず後退っていた。
異能によって変貌した愛のその両脚は――見るからに厚く、見るからに重く、見るからに堅く――灰色の巨大なそれは、紛うことなき象のそれだったのだ。
もしも10トンを上回る重さのそれが、今からこの屋上目掛けて落下してきたら――未だ傷付き倒れた仲間の残る教室ごと、この廃校舎は粉々に踏み潰されるだろう。
「…………ッ!」
愛がやろうとしている事は九十九も瞬時に察知していた。しかし、だからといって跳んで届く距離ではない。故に、芥川九十九は――自身もまた、空を飛ぶことにした。
「ん……?」
屋上目掛け、今にも鉄槌を振り下ろさんとしていた直前――いつの間にか屋上から九十九の姿が消えていたことに気付いた愛。
「……あら」
そしてその直後に前方に感じた気配に、愛は顔を上げる。芥川九十九は空に居た。 九十九がその背中に携えていたのは、愛のそれとは対照的な――黒い翼だったのだ。
しかし翼と呼ぶにはやはり異様なそれは、例えるならば蝙蝠のような、羽毛ひとつ生えていない滑らかなフォルムをしていて。それはやはり蝙蝠のそれによく似ていたが、しかし間違いなく蝙蝠のそれではない。どんな動物にも当てはまらないそれを愛は一目見て、すぐにそれがこの世のものではないことを理解していた。
「…………」
「…………」
両者無言のまま、視線が交じり合う。遙か上空、決してヒトの身では届かない領域に、二人は肩を並べている。
「(……なるほど。これが幻葬王。確かに……他とはモノが違う)」
この時点で、愛は九十九に対する認識を改めざるを得なかった。今日に至るまで、愛は様々な怪異と戦ってきた。それら有象無象との戦闘において、彼女はその殆どに対して苦戦することもなく瞬殺で終わらせてきたのだ。
まだ地獄に落ちて数週間、怪異に成りたての彼女は、自身の異能を完全には使いこなしてはいない。それでも無双を誇れる程に、彼女の異世界転生はいわゆる『当たり』の部類だったわけなのだが――
しかし、芥川九十九。悪魔の如き幻葬王。その強さは、まだ戦いに身を置いて日の浅い愛ですら理解出来る程の別格であった。
「(さて、どうしたのものか……――)」
九十九と向かい合ったまま、愛は思考を巡らせる。自分の異能をどう使えば、九十九を倒すことが出来るのか。その可能性を、打開策を、百万以上ある手段の中から愛は慎重に選び取る――
――しかし、その思考は最後まで完結することは無く。直後、全身を鞭打つような強烈な衝撃が、愛の肉体に叩きつけられていた。
「うっ、あ……!?」
決して気を抜いていたわけではない。隙を見せたわけでもなく、それでも愛は気付いた瞬間には真正面から攻撃を受けていた。ただ、その速度に愛が反応出来なかっただけである。
為す術なく、愛の身体は廃校舎から遠く離れた空き地の方へと吹き飛ばされ、そのまま勢いよく落下した。
「げほっ……げほ……」
埃っぽい煙を巻き上げ、咳込みながらも愛はどうにか立ち上がる。自分が地上へ叩き落とされたことを理解し、咄嗟に上空へ視線を走らせ九十九の姿を目で追う。
「っ……あれは……?」
そして愛は、九十九の臀部に黒い尾のような物体が生えていることを確認する。やはりその尾も羽毛は無く、滑らかなフォルムがまるで蜥蜴の尻尾を想わせた。しかし間違いなく、それは真っ当な生物のそれではない。そんな、黒い羽と黒い尾を携えた芥川九十九が、愛の眼前までゆっくり降下してくる。
「九十九……使うのか、異能を……」
戦いの場を廃校舎屋上から空き地へと移し再び激突せんとする両者を追いかけて、ちりは急いで屋上から地上へ続く階段を下っていく。
彼女は九十九のその形態に当然見覚えがあった。芥川九十九が能力を使う機会など、最近では滅多に無い。生半可な怪異相手ならば拳一つで十分過ぎるほど、純粋に、芥川九十九は強かった。純粋な膂力が他の怪異とは桁違いなのだ。そしてそんな九十九が能力を使うということ自体、異常事態でもある。
ちりが地上へ辿り着いた時、一陣の風が穴だらけの校舎に吹き抜ける。廃校舎の正面に位置する空き地、いわゆるグラウンドなどと呼ばれるそこで――
「あ゛ァァ……!」
「ッ――――!」
九十九と愛は既に、真っ向から取っ組み合いを繰り広げていた。
愛の両腕を熊のそれへと変異させ、正面から九十九との殴り合いに迎え撃っている。九十九の攻撃を躱せないと判断した愛は、攻撃自体を防御することは諦め、受けた直後にその端から高速再生で傷を瞬時に修復することにしたようである。
まさに、肉を切らせて骨を断つ。そんな強引な戦闘スタイルでもって、愛は九十九とどうにか対等に渡り合っていた。攻撃を受けながらも、どうにか隙を見つけ、愛もまたその拳を九十九へ目掛けて振るう――
「ち、ィ……!」
しかし、届かない。愛の拳は尻尾によって空中で叩き落とされてしまう。尻尾による自動防御、それにより九十九の両腕は完全に攻撃に回すことが出来ていた。まるで三本目の手足のように自在にしなるその黒い尾に、愛は苛立ちを覚え始める。
だからといって無理矢理掴みかかろうにも、黒い翅が羽ばたくと同時、九十九は瞬時に距離を取ることが出来る。攻撃が躱されたことで生じた隙を突かれ、黒い尾が虚空を切る愛の腕に絡みつき、そのまま放り投げられることもあった。そのたび、愛の眉間に刻まれた皺がより深くなる。
芥川九十九は強い。それを間違いなく、愛は現在進行系で思い知らされていた。
「(こんな……こんなところで……ッ!!)」
しかし、愛にとって芥川九十九という障害は――『あの人』を探す道のりの通過点に過ぎない。こんなところで立ち止まっている暇などないのだ。
であれば。今ここで、今すぐに。愛は強くなる必要がある。『あの人』が待っている。早くこんな茶番、終わらせなければ――
「そこ……!」
焦燥からか、見るからに隙だらけの胴体を晒す愛。その隙を見逃さず、九十九の黒い尾が彼女の胴体目掛け、横一線に薙ぎ払われる。
「ん……ッ?」
しかしそれを受け止めたのもまた、尾であった。それは愛の臀部から生えている、まさに蜥蜴のような尻尾。それは九十九の尾に絡み付き、抑え込み、身動きを封じ込める。互いの尾を絡ませ合うその光景は、さながらチェーンデスマッチ。
「(手っ取り早く強くなりたいなら、自分よりも強い相手の真似をすればいい)」
他者の模倣。あるいは、その本質を見抜くということ。愛のその非凡の観察眼は、戦闘においてこそその真価を発揮する。
しかし尾による自動防御を封じられた、とは言え。むしろ逃げ場を失った愛のほうが不利と言えるこの状況。九十九が攻撃の手を緩める道理は無い。間髪入れず放たれた左の拳。それを愛は、異形に変貌した右手によって辛うじて受け止める。
「痛っ……!?」
直後、その異形に掴まれた九十九の左手に一瞬、焼けるような激痛が走った。それは酸か毒か、あるいはその全てが混ぜ込まれた液体が愛の掌から分泌され、九十九の皮膚の表面を溶かしたのである。
愛の肉体は、あらゆる動物の個性を再現できる。それはつまり、ありとあらゆる状況に対応できる、ということに等しい。十ある内の一つが通用しないなら、残り九つ、片っ端から試せばいい。それを容易く可能にしてしまえるのが、黄昏愛の『ぬえ』としての能力、その真骨頂である。
「死ね…………!!」
九十九が痛みに気を取られた、その一瞬の隙を突いて――黄昏愛は大きく開けたその口で、その大顎で九十九の喉元に、喰らい付く。
「ぐ、ッ……!?」
歯が首の内側にまで食い込み、筋繊維を噛み千切る小気味良い音が聞こえて、せり上がってきた血が噴水のように九十九の口から溢れ出す。突き刺した牙の先から滲み出る九十九の血が愛の喉を潤していった。
咄嗟に引き剥がそうと掴み掛かる九十九だったが、逆にその右手首を愛の左手に掴まれてしまう。その上で、愛の背中から無数に生えてきた蛸の触手が、九十九の全身へ瞬時に巻き付きにかかった。そしてその吸盤一つ一つから溢れる粘液が、九十九の身体を焼き溶かす。
「死ね……死ね……死ねェッ!!」
身動きの封じられた九十九の胴体目掛け畳み掛けるように、愛は動物のキリンを模倣した長く鋭い脚による蹴りを何度も放った。その前蹴りを打ち込まれた九十九の腹部からは、内臓の弾ける鈍い音が全身に響く。
キリンの脚力による蹴りをまともに受けて並の人間が、いや並の怪異が耐えられるはずも無い。普通ならこれで終わっていただろう。
「まだ、やれるだろ」
しかし――それでも九十九は、あろうことか言葉を紡ぐ。その問い掛けは、自分自身に対して。
芥川九十九は強い。それ故に、全力での闘争に及んだ経験が一度も無い。芥川九十九にとっての闘いとは、この弱肉強食の地獄に生きる上で必要な行動――言ってしまえばただのルーティンに過ぎなかった。
生きる為に必要だから、彼女は今まで拳を振るってきた。その過程において、全力を出す必要が無いので、これまでやってこなかった。ただそれだけだったのだ。
だから今の状況は、彼女にとって産まれて初めての、不要な闘争。ただ目の前の相手を殺す為だけに振るう、不要な拳。生きる為ではなく、死なない為の――必要な全力だった。
死ぬ。このままでは、自分は黄昏愛に殺されてしまう――それを自覚した次の瞬間、九十九の口端が僅かに上がって――最初に顕れたのは、角だった。頭蓋を貫いて側頭部から伸びる、山羊のような二つ角。
その顔面には罅割れたような傷が奔り、ぱきりぱきりと割れるような音を鳴らして、硬質化した皮膚がぱらぱらと剥がれ落ちていく。そんな割れた顔の向こう側から覗き見えるのは――黒い肌。やがて少女の名残など一切ない、真っ黒な何かが、愛の眼前にその姿を現す。
「え――――うッ、あ…………!?」
次の瞬間。衝撃と共に、愛の体は遥か彼方へと吹き飛んでいた。衝撃の正体に気付く間も無く、愛の体は独楽のように空中で回転しながら、砂埃をあげて叩きつけられる。
呻き声を上げながらも反射的に受け身を取り、愛はそのまま即座に上体を起こし身構えた。咄嗟に顔を上げたその視線の先、遥か彼方で佇んでいる黒い何かを目視する。
それは愛が知る限り、全ての生物に該当せず――しかし反面、愛はそれに見覚えがあった。
否。正確には――見たこともないはずなのに、知識としてそれが何なのか、理解出来てしまったのである。
「――――…………悪魔?」
黒い肌。黒い羽。黒い尻尾。禍々しい角に、紅蓮に燃える両眼。『悪魔』としか形容の出来ないそれが――刹那、再び愛へ肉薄する。
「ぐ、ぇ……っ!?」
黒い悪魔は通り過ぎざま、愛の全身を切り刻んだ。目にも留まらぬその攻撃の正体は、拳。ただ速すぎるそれの連打はまるで銃弾の嵐のようで。それに反応すら出来ず、愛は削られていくように、ヒトとしての原型を瞬く間に失っていく。
「ッ、あ、あ゛、あ゛あああああああああああああああああッ!!」
しかし肉体を微塵に削られながらも、異能による高速再生が愛の意識を繋ぎ止めていた。しかし無理矢理に肉体を修復しているためか、苦しげに吼える愛のその姿は原型通りではなく、歪なものへと変貌を遂げていく。
顔だけは辛うじて本人の面影を残しているが、その肉体は歪に膨張し、皮膚は灰色の外殻で覆われ、全身から無数の触手が伸び、鈍い玉虫色を放っていた。全身から溢れる、ぬめりのある質感の体液がぼとりと落ちると、足元の地面が焼けるように音を立てる。
「はァーッ……はァーッ……!! あァ……ア゛ァァァァ……ッ!!」
様々な動物のエッセンスが無理矢理に混ぜ込まれたその肉体は、目を覆いたくなるほどの変わり果てた、醜悪さで。だがその変貌に比例し、悪魔と化した九十九の攻撃を、怪物と化した愛は対応出来るようになっていった。愛の操る無数の触手はとうとう悪魔の拳を捌き切れる程の練度となり、やがて両者は弾けるように距離を置く。
今の猛襲を防ぎ切られたのも、九十九にとっては当然初めての経験で。九十九の強さに引っ張られるように、黄昏愛もまた覚醒しつつあるのだと――それを悟った九十九は、思わず笑みを溢していた。
「まだ、やれるだろ」
九十九の全身から、瘴気のような黒い煙が一気に噴き出す。肉体を構成する細胞の全てが生まれ変わる。全身が黒い体毛に包まれ、顔付きはヒトから獣のそれへと変貌し、筋肉は膨張して、爪が、牙が、手が、足が、変生の産声を上げる――
悪魔。
それは芥川九十九という存在が地獄に産み落とされた時、最初に与えられた定義である。