等活地獄 13
喉の奥から、ごぶりと、熱の塊が迫り上がってくるのが分かった。蹲り、堪え、咄嗟に見上げるが――しかし既に、目の前にはあの黒いセーラー服。熊の如き人外の右腕、その鋭い鉤爪が降ってきているその最中。
避けられない。そう確信した瞬間――走馬灯というやつだろうか。ちりの脳裏に浮かび上がるのは、どれも彼女との――芥川九十九との思い出ばかりだった。既に死んだ身でありながら走馬灯とは、笑ってしまうけれど。
「ああ……悪い、九十九……」
もうほんの少しも動かせない身体を、手放すように諦めて。幸せな思い出に浸るように、少女は目を閉じる。
「大丈夫か」
しかしふと、そんな声が聞こえてきて――直後に感じたのは、浮遊感。温かい感触が、ちりの全身を包み込んでいた。
短く遊ばせた黒髪。黒いジャージの上から羽織った学ラン。赤い瞳。長い睫毛。凛としたその横顔。その腕、その脚、静かな呼吸の音、穏やかな心臓の鼓動――全部全部、ちりは知っている。
「……つくも……」
「ああ」
芥川九十九。等活地獄で最も恐れられる最強の怪異が、そこにいた。
◆
「探したぞ……愛。これは……どういうことだ」
間一髪、ちりを抱きかかえて跳躍した九十九は、そのまま屋上に着地した。ちりのことを屋上の隅に降ろすと、すぐさまその視線を黒い学生服の少女――黄昏愛の方へ向け、口を開く。
地獄の空と同じ九十九の赤い瞳はしかし、いつものように透き通るような凪いだ色のそれではなく。まるで地獄の窯のように、その奥底では煮え滾っているようだった。
それに対し黄昏愛、やれやれと言ったふうに溜息ひとつ。
「誰も、私の話に耳を傾けてくれなくて。なら、言葉の通じない相手に解ってもらうには、これしか無いでしょう? だって此処は……弱肉強食なんですから」
全身に返り血を浴びているその少女は、当たり前のようにそんなことを口にしてみせる。人外のそれだった両腕はすっかり元の少女の白い柔肌へと戻っていた。
「でも、よかった。あなたなら他の方達とは違って、話が通じますね。ねえ、教えてください。『あの人』はどこですか?」
「…………そうだな」
そんな、漠然とした問いかけに対し――
「私は、みんなとは違う」
九十九もまた、漠然と。視線を遠くに向けながら、ゆっくりと言葉を紡ぎ始める。
「私は、何もかもがみんなと違っていた。本物の、怪物なんだ。私は普通じゃない。普通じゃないから、みんなのことが解らない。芥川九十九には、心が無い」
「お、おい……九十九……? 何言って……そんなこと……!」
「そうなんだよ、ちり。だからこれは、私の責任なんだ」
ちりがいつもと違う彼女の様子に気が付き、後ろから声を掛ける。しかし九十九はそれを背中で受け止めながらも、言葉を紡ぐことを止めなかった。
「私には仲間がいる。だけど――それが何人いて、どんな顔と名前をしているのか、私は殆ど知らない。知ろうとさえしてこなかった」
まるで、懺悔するように。ぎこちなくも、一音一音しっかり確かめながら、九十九の独白は続く。
「だって、知ってしまったら……向き合わなきゃいけなくなる。責任を、現実を、受け入れなきゃいけなくなる。それが……怖かった。だから、知りたくなかった。私は普通じゃない、関わっても碌な事にならない、面倒だ、居ないほうがいい……そう言い訳をして……無知な暴力で在ろうとした」
凪いだ赤が階下へ向けられる。教室で今も倒れている、『屑籠』を名乗り芥川九十九の背中を追ってきた者達、その傷ついた姿をひとりひとり、思い浮かべて。
「でも、地獄に終わりは無い。……いや、きっと地獄に限った話では無いんだろう。一度生まれたものは、無かったことにはならない。無かったことにしちゃいけない。私は向き合わなきゃいけなかった。知ろうとするべきだったんだ。なのに知ろうとしないまま、こんな事になるまで放置して、仲間が傷付いたのは……やっぱり、私の責任だ」
その責任が、たとえ他人から背負わされたものだとしても。それがどれほどの苦痛でも、彼女は誰にも助けを求めず、またそれを見捨てることも出来なかった。
本来背負うべきでないはずのそれから目を背けることに負い目を感じ、その負い目から逃れるために無知であろうとして、それすらも苦痛に感じる程に――彼女はお人好しだったのである。
そんな彼女は、この等活地獄にて、皆からこう呼ばれている。
「だから……等活地獄の王として……『幻葬王』として。私は、責任を果たす。今度こそ」
幻葬王。その単語を耳にした途端、黄昏愛の目は驚愕に見開かれていた。
「愛。お前は少し……やり過ぎだ。確かに、落ち着いて話が出来れば良かったのかもしれない。けど、だからって……ここまでする必要は無かったはずだ。仲間の失礼は詫びる、が……お前も、謝ってくれないか。私の、仲間に」
芥川九十九。彼女は生前、産まれたその日に死んでいる。
故に、その特殊な出自が影響して、生前の記憶が全く無い。
今の彼女を構成する、その肉体も、言語機能も、生存における必要最低限の知識でさえ、地獄に落ちた後に怪異化の影響によって授かった本能である。
その特殊な出自が他者との間に壁を作り、次第に交流も少なくなっていった。気付けば、最も長い付き合いであるはずのちりですら、九十九の居場所を特定することは難しくなっていった。
そうして生まれた、ひずみ。幻葬王には、誰にも言えない秘密がある。その噂は九十九から他者を遠ざけ、九十九は意図せず、孤独の王となってしまったのである。
「私はきっと、最初から王には向いていなかった。それでも……今こうして、ここに立っている以上。私は王として、その責務を最期まで全うする。……ちり、詳しい話はこれが終わった後にしよう」
そしてこの場にいる誰よりも、一ノ瀬ちりは後悔していた。
彼女は誰よりも芥川九十九の近くに居たはずなのに、その話を今ここで聞くまで、まるで気付けなかったのだ。
だって、芥川九十九は強い。強いから、自分達とは違うから、特別だから。
それなのに――まさか、あの芥川九十九が孤独に苦しんでいたなんて。
責任を重荷に感じていたなんて、思いもしなかったのだ。
その苦悩を知らずして、今日までのうのうと生きてきた自分自身を、一ノ瀬ちりは後悔していた。
「九十九……ごめん……ごめん、オレ……オレは……」
王という道標が無ければ前に進むことも出来ない、弱い自分達。いつしか九十九に頼り切りになってしまっていた、弱い自分達。自然と、ちりの口から懺悔の言葉が溢れ出していた。震える手を、その背中に伸ばそうとして――
「…………そう。幻葬王。貴女が…………」
それは一歩、遅かった。
黄昏愛。真っ黒な彼女の瞳の中に波紋が広がる。空気がざわめき、ほとんど風のない等活地獄に突風、吹き荒れる――そんな錯覚を起こしてしまいそうなほど、愛の周りの空気が、歪曲していく。
感情の機微に鈍い九十九にすら、それは感じ取れる程の異様な雰囲気で。さしもの九十九も眉を顰めていた。
「ねえ……『あの人』をどこに隠したんですか……?」
愛の両脚が変貌を遂げていく。右脚が薄緑の甲殻に包まれて。左脚が黒を球状に散らした黄色の毛皮に包まれて。それぞれが別々の進化を遂げた生物のそれへと変貌した愛の両脚。その明らかな戦闘態勢に、九十九は困惑の表情を浮かべている。
「あぁ、どうせ素直に教えてなんてくれませんよね……此処は弱肉強食……なら……力尽くで吐かせてやる……!」
「……待て、愛。さっきから何を言って――」
九十九の呼び止める声を意にも介さず――愛の右足は踏み込まれた。瞬間、空気を切り裂いて――黄昏愛の体が上空へ大きく跳躍する。
「死ね……!!」
呪いの言葉を吐きながら、愛は瞬く間に九十九との距離を詰める。踵落としの要領で振り上げられた異形の左脚が、九十九の頭上に影を落とす。
「九十九……っ!」
咄嗟に手を伸ばし、叫ぶちり。しかしそれが間に合うはずもなく。九十九目掛けてギロチンの如く振り下ろされた、愛の異形の踵は――
「……しょうがないな」
――しかし。九十九が僅かばかり掲げたその右手によって、いとも簡単に受け止められたのだった。
「は……?」
愛に繰り出した踵落としの衝撃は、屋上の床一帯に地割れを起こし、周囲に突風を吹き荒らす。このたった一撃で、愛は地獄中の怪異を蹂躙してきた。故に付けられた異名こそ、怪異殺しの悪魔。
しかしその落雷の如き一撃をあっさりと受け止めた九十九は――無傷。これにはさしもの愛も動揺隠せず、目を見開き、間抜けな声を上げていた。
「少し、頭冷やせ」
今度はこっちの番だとでも言うように、九十九は掴んだ踵をそのまま自分の方へ無理矢理に引っ張る。バランスを崩し、宙に浮かぶ愛の身体。その無防備な身体目掛けて――九十九は流れるような動作で自身の左腕を引き、当たり前のように――拳を放つ。
「うぶ、ッ――――!?」
正拳突き。顔面へまともにそれを食らった愛は、詰めた距離の分だけ、鼻血を飛び散らせながら吹き飛んでいく。屋上のフェンスに背中から直撃し、そのままフェンスを超えて落下しそうになる。
「――――っ、と、と……!」
しかし愛の右腕が次の瞬間、ちりとの戦闘で発現させた物と同じ、蛸のような触手へと早変わり。それを巧みに操り、くるりとフェンスに巻き付いて自らの身体を引っ張り上げ、もう一度屋上へ戻ってくるのだった。
「ち……っ」
鼻血を拭いながら、愛は舌打ちする。その黒い眼差しが、じいっと、まるで獲物を見定める獣のように九十九を睨みつけている。
そんな愛の顔面は――九十九の正拳突きをまともに食らったその顔は――手応えだけで言えば陥没骨折してもおかしくない衝撃だった。にも拘わらず、屋上へ戻ってきた時には既に。愛の顔の傷は、綺麗さっぱり無くなっていた。
「気を付けろ九十九! あいつの異能……なんかおかしい!」
黄昏愛の異能が動物への変身能力だということは、ちりにも当然察しが付いていた。ありとあらゆる怪異が集まるこの等活地獄において、動物に変身する異能なんてものはそう珍しくもない。ただし黄昏愛のそれは、ちりが今までに見てきたどの怪異、どの異能とも明らかに異なる性質である。
愛はその特異性をまざまざと見せ付けるように――両脚を、今度はしなやかな瓢の如きそれへと変貌させる。筋肉の束が唸り、スカートがはためいた――刹那。
「ふ、ッ――――!」
ちりが瞬き一つする間に九十九へ肉薄した愛は、両腕を瞬時に熊の如き怪腕へと変化させ、そのまま掴みかかる。鉤爪ぎらつく熊の手が九十九の両手を捉え、肉に爪を食い込ませていた。常人であればそのまま握り潰されていたであろうが、しかし。
「ん……ッ!?」
九十九は潰されるどころか、あろうことかそのまま愛の体を押し返してみせる。流石にまずいと感じ取ったか、愛はすぐに九十九の手を振り払おうとする、が――それよりも先に、九十九の前蹴りが愛の腹部を抉り抜いたのだった。
「ぐッ、あ……!」
ローファーの底は地面から離れ、身体はくの字に折れ曲がり、再び後方へ吹き飛ばされる愛。またしても背中からフェンスに激突させられた。
「よし……!」
九十九が圧倒している。それは誰が見ても明らかで。最初は愛の不気味さに不安を抱いていたちりも、九十九の絶対的な強さを目の当たりにして、確信する。
――嗚呼、やはり。我等が王、芥川九十九が負けるはずなど無いのだと。
「…………?」
けれどその一方で、圧倒しているはずの九十九は、その妙な手応えを訝しんでいた。先程の前蹴り、あれは並の怪異であれば致命傷は避けられない。しかし、九十九の足に残る感触が、違和感を訴えていたのだ。
「ふ……ぅぅぅ……っ!」
そんな九十九の予感は的中し――大きく息を吐きながら、黄昏愛は再び、起き上がる。腹部に痛恨の一撃を受けたというのに、まるで平気な顔をして。
よく見ると愛のセーラー服の上着の裾から、何かの破片のようなものがぱらぱらと落ちていた。それは鉄のような、何かの甲羅のような――いずれにせよ、それが九十九の一撃を耐え切る為に用いられたものだということは明白だった。
口の端から蒸気のような白い息を吐き出しながら――愛の両腕は再び変貌を遂げていく。今度は右腕に巨大なカマキリの鎌を、左腕に巨大な蟹のハサミを形作っていて――
「ありゃあ一体……何種類の動物に変身出来るんだよ……!?」
手を変え品を変え、まるで底知れぬ黄昏愛の異能。その異様に、ちりは思わず口から戸惑いの音を漏らしていた。何種類などという次元の話ではない。理論上、全種類。愛はこの世全ての動物に変身出来るのだから。
「……行くぞ」
その異様に対して尚も怯むこと無く、今度は九十九の方から飛び掛かる。右足を踏み込み――やはり一瞬で、愛との距離を詰める。速度を殺すことなく、流れるように愛の顔面目掛け、その左腕を振るっていた。
それを迎え撃つのは、愛の右腕の鎌。それを横に薙ぎ、拳に合わせる。九十九の拳はその凶刃によって切り裂かれ、ばくりと真っ二つに――
「く……!?」
――なることなく、拳は鎌を真正面から砕いてみせた。そのまま拳の勢いは衰えることなく、真っ直ぐに愛の顔面に迫っていく。
「死、ね……ッ!」
愛はすぐさま左腕のハサミを盾にして、拳が顔に届くまで僅か数ミリといったところで、その直撃をどうにか受け止める。ハサミは砕かれたがしかしその直後、右腕の鎌を今度は蛸の触手へと変化させ、九十九の両足首を絡め取っていた。
「む……」
触手に足を取られ、バランスを崩す身体。そのまま空中へ投げ飛ばされそうになったがその寸前、九十九は足首に絡みつく蛸の触腕を掴む。ばちりと激しい音を立て、九十九は純粋な握力だけでそれを引き千切り、軽々と触手の束縛から脱出してみせる。
愛から距離を離し、宙で一回転しながら地上へ着地した九十九。掴んでいた触手を地面へ投げ捨てる。
「……なるほど。強いですね」
向かい合う黄昏愛。率直な感想を述べつつも、千切れた触腕を今度は熊のような毛むくじゃらの怪腕へと見る見るうちに変貌させていく。その感触を確かめるように、怪物と成った掌を何度も握り締めながら。
「じゃあ……次はこれで行きましょうか……」
事実、愛は確かめていた。戦いの中で、相手の実力を――延いては自分の能力を。
ぬえ、という妖怪がいる。顔は猿、胴は狸、手足は虎。それでいて蛇の尾を持つ、日本の古事記を由来とする妖怪である。あらゆる獣の要素を併せ持つ、正体不明の獣。
黄昏愛は、それを依代に異世界転生した怪異である。その異能は、ありとあらゆる動物の要素を同時に複数、その身ひとつで再現するというもの。
地獄に落ちてまだ日の浅かった愛は、ここまでの道中、ここまでの数週間――他の有象無象の怪異との戦闘で、自身の異能の限界を見極めつつあった。
この異能に必要なのは知識、そして想像力である。つまりは何を、どこまで、その身に体現出来るのか。
腕を熊のまま、脚を飛蝗に。皮膚を亀の甲羅に、筋肉を獅子のそれに、骨を蛸のように。細胞単位で変化させ、試していく内に――
あらゆる動物の能力、姿、特徴を、人間の身体で再現出来ることが如何に強力無比であることか。今の愛はそれを、正しく理解していた。