第三章 02 人魚の洗濯
02 人魚の洗濯
まだ昼過ぎの時間帯なので、町は行き交う人魚で賑わっていた。
宿に向かい、305号室にたどり着く。部屋に入ってから、私は大きく息を吐いた。
「ああ、このままベッドに倒れ込みたいけど、その前に服を洗わなきゃ……」
血のにおいはもうしなくなっていたが、海中でも洗濯ができるというならしておきたい。
「ではリュックから着替えを出すのだ。下着の替えが数組と、寝間着の入った袋があるはずだ」
ノアタムに言われ、私はリュックを探る。すぐにそれらしい袋が見つかった。巻きスカートのような腰巻きとブラジャーが三組と、ゆったりした寝間着が一枚。寝間着は前開きの半袖シャツで、人間で言う膝丈のワンピースのような形をしていた。
「洗い物をする場所は宿の一階にある。今着ている物を全部洗うなら、丸ごと着替えて汚れ物をまとめて持って行け」
「え、寝間着で部屋の外に出ちゃっていいの?」
「どうせトイレは各部屋には無いのだ。他の宿泊客も夜には寝間着で出歩いておる。宿屋の建物内なら大丈夫だ」
「そっか。じゃあ着替えるからあっち向いてて」
人魚になって初めて着用したタンクトップとスカートを脱ぎ、目覚めたときにすでに身につけていたブラジャーと腰巻きも外す。そして新しい下着と寝間着に袖を通す。人魚の体に少しは慣れてきたので、手間取りはしなかった。
ノアタムが後ろを向いている間に私は着替えを済ませ、脱いだ物をまとめて手に持った。
「宿屋の一階には、受付や従業員の宿泊室の他に、洗濯部屋がある。準備ができたなら向かおうか」
私は部屋を施錠し、ノアタムと共に一階に向かった。
受付の横を通り過ぎ、廊下の奥へ進む。私が寝間着でも、受付の彼女は確かに何も言わなかった。
一階の奥には、殺風景な部屋があった。
八畳ぐらいの板張りの部屋で、壁にも床にも凹凸が少ない。天井にランプはあるが、今は光っていない。その代わり鉄格子のはまった窓が開いているので、そこから日光が入ってくる。
部屋には誰もいなかった。私はノアタムとその中に入る。
壁際には木製のたらいが大きさ別に重なって置かれていた。洗濯板も何枚か入っている。
部屋の中央には、箱のような物があった。一抱えほどの大きさで、上の部分が網目状になっている。
部屋にある目立った物はそれだけだった。
「これは洗濯機……じゃないよねえ」
私は部屋の中央の箱を覗く。中に洗濯物を入れる構造にはなっていなかった。そしてたらいに目を向ける。
「人魚もたらいと洗濯板で洗濯するんだ」
自分が日本人だったころに洗濯板を使った記憶は無いが、昔話などで、たらいに水を張って洗濯物を板にこすりつけている映像は見たことがある。
「うむ。人魚の場合、たらいに水を張るまでも無く周りが水なので、たらいは洗濯物が散らばらないようにするための容器だ。洗う前用と洗った後用、二種類を準備すると便利だ」
私は手頃な大きさのたらい二つと、洗濯板を手に取った。
「洗剤とかは無いの?」
「衣類の汚れと言ってもここは水中だ。空気中のように、汚れが乾いて落ちにくくなるということはない。布を洗濯板に押しつけて、布から汚れを押し出せば大抵の汚れは落ちる。
どうしても落ちない汚れは、泊まり客が自分で洗剤を持ち込んで洗う。『分離浄』の魔法をシーズ水と融合させたアイテム、『分離浄の洗剤』があるからな」
「ああ、トイレのタンクに使ってる奴だ」
汚れの混じった水から汚れを分離させて固める魔法だと、トイレの説明の時に聞いた。
「そう。トイレの場合はタンクに入ってくる液体全部に作用する仕組みになっている。『分離浄の洗剤』はシーズ水と混ざっているので、地上で言う液体洗剤と同じ形状になっている。容器から衣類に数滴垂らして、汚れをもみ洗いする。
そうやって衣類から剥がした汚れを、この『水清浄機』に吸い込ませるのだ」
ノアタムは部屋の中央の箱を示した。
「『みずせいじょうき』? なんか、『空気清浄機』みたい」
「似たような物だ。吸い込むのが空気か水かの違いだけだからな。
大抵の宿には、このように水清浄機のある部屋がある。泊まり客は汚れ物を持って部屋に行き、装置のスイッチを入れる。すると水清浄機が部屋の水を吸い込み出すので、その横で衣類をもみ洗いして汚れを落とす。汚れは水清浄機に吸い込まれる。
空気中で洗濯するのと違い、干す必要は無いので、衣類から汚れを落とし終わったら洗濯終了だ。水清浄機のスイッチを切って洗濯部屋を出る。これが人魚の世界の洗濯だ」
「へえ……ってことは、この『水清浄機』にも、トイレみたいに『分離浄』の魔法がかかってるの?」
私はその箱形の装置を眺め回す。上部は網なので、ここから水を吸い込むのだろう。部屋の入口と反対側の側面を覗くと、そこも網になっていた。ここから綺麗な水が出るようだ。他の側面にはスイッチがあり、開閉できそうな部分もあった。
「それは物による。高級な水清浄機には分離浄の魔法が使われているが、安い奴はただ水を吸い込んでフィルターで濾過するだけだ。この価格帯の宿にあるのは安い奴だろうな」
「そっかあ。まあそんなに汚れてないし、それで十分か。ええと、スイッチは……」
私は水清浄機のスイッチを入れた。装置が動き、水が吸い込まれていくのがわかる。服を手に取り、洗濯板にこすりつける。
「ああ、なんとなく、ホコリみたいなのが出てく感じするね。地上で布団を干すのに近いかも」
「うむ。大した汚れでなければ野外で服をはたく程度でもいいのだが、外で下着を広げたがらない者は多いからな。それに、魔物狩り屋は血や泥にまみれて帰ってくることもあるし、そのまま個室に行かれると部屋が汚れるから、こうして宿屋の一階には洗濯部屋が設けられているのだ」
「ああ、だからこの洗濯部屋はシンプルな作りなんだね。壁も床もつるっとしてて余計な物が置いてないのは、ホコリが溜まらないようになんだ」
「その通りだ」
ノアタムと話ながら私は自分の洗濯を終えた。
「よし、綺麗になったと。後はたらいとかを元に戻して……。水清浄機って、このままスイッチを切ればいいの? まだホコリが舞ってない?」
「スイッチを切っても水清浄機はしばらくの間、周りの水を吸い込む設定になっているものだ」
「なるほど」
私は水清浄機のスイッチを切る。確かに音は少し小さくなったが、まだ動いているようだ。
私は洗い終えた衣類を持って、部屋に戻った。




