13 悪鬼の事
「秀衡様、何故あのような事を?」
藤原泰衡は秀衡に怪訝な眼差しを向けた。
奥州藤原氏には二人の転生組がいた。それは秀衡と息子・泰衡だった。今生では親子ではないが、当主秀衡に仕える泰衡の構図は変わらない。泰衡の臆病な程に慎重で理詰めでものを考える所も、最悪を想定して逃げ腰になる所も、かつての戦より変わっていないようだった。
「嘘は言ってないではないか。」
「大嘘ではありませんか。鬼を倒すなどという条件は、最早取引とは言いません。不可能を提示して遠まわしに拒否しているだけです。わざわざ危険を冒させる必要などありません、相手は地龍当主の御弟君ですよ?怪我でもしたら…いや、相手は太古の鬼です。死なれでもしたら地龍殿の怒りを買って我らが滅ぼされてしまうやも。」
「ふむ。では契約書を書かせようか。死んでも我らに責は無いと。」
「父上!」
「ふっ。よい機会ではないか。どう転んでも我らに損はない。失敗して現状維持。成功すれば長年開かなかった書庫が開く。貴也の奴に頼んで鬼を討伐して貰ってでもみろ。末代まで恩着せがましくたかられ続けるに決まっている。それが、こうして弟君が自ら、しかも個人的頼みで来ているのだ。これ程の好機があるか?なぁ、泰衡。」
鬼に鍵を渡した張本人である泰衡を脅すような言い方をする秀衡に、泰衡はもう言い返すことが出来なかった。
「では父上、せめて恭殿が危険になったら救助できる位置で控えているくらいのことはしないと…。」
「そうさな。死なれても寝覚めが悪いでな。部隊を配置して様子を見るか。奥州くんだりまで来て恥をかいて帰るのは不憫だが、運が悪かったと思って貰うしかない。」
鬼は強い。平安時代からこの方防一戦の状況で誰一人として致命傷を負わせた者はなく、また長い年月をかけ鬼も学習している。人との戦闘を。
戦況によっては、人は体力がないため、鬼は持久戦に持ち込むこともある。戦い慣れた太古の悪鬼とどう対峙するか、秀衡は恭の対応を見てみたいだけだった。意地悪な方法ではあるが、恭を試して貴也の懐を探ってやろうと思っていたのだった。
各龍脈には、龍脈自体の力を使って特別強固な結界が貼られている。それ故に鎌倉や大学のように『夜』の侵入を一切許さない特別な場所になっていた。つまり、鬼は龍脈の地である平泉には入れない。それ故周辺をうろついているのだ。
恭は秀衡に近くまで連れて行かれ、準備をするように言われた。このように急に大きな戦闘になることは珍しくない。けれど四年間はただの大学生と言われていた恭がこの状況になるのは流石に想定外だった。荷物を置き、靴紐を縛り直すと、周囲を見回した。木々、田園、道路、戦闘ステージは悪くないと思った。あとは鬼などという不確定要素しかない敵についてだ。
「恭殿、用意は出来ましたか?」
しばらくいなくなっていた秀衡がモデルのような歩き方で現れた。恭は、真夏の暑さなど全く感じていないといった優美さで気取って歩く秀衡をどこかこの世の者である気がしなかった。
「太古の鬼とは、どのような者なのですか?」
「デカいゴリラだね。」
「…ただのゴリラに千年以上振り回されていたと解釈しますが?」
「千年以上の間武士が敵わなかったゴリラに、今日やって来た若者が、何故勝てると思える?」
「やれと言ったのは貴方だ。俺に不可能を?」
「どうだろうな。」
質問に質問を繰り返す会話に結論を導き出す力はない。
「で、鬼の弱点は?」
「手に鋭い爪が付いていてね、あれは刀のような物だ。デカい体ですばしっこい。跳躍力もあるし、腕力は言わずもがな。額に二つ角があって、そこに霊力を蓄積させているって話も聞く。だが、さすがの鬼も首を斬れば死ぬだろ。私もかつてその首を狙ったが、駄目だった。」
恭はしばらく思案した後、落ち付いた口調で言った。
「そうですか。秀衡殿、刀をお借りできますか?」
「刀?」
「ええ、俺は二刀使いでして。一刀でも良いんですが、今回は二刀あった方が良さそうなので。」
「ほう…面白い事を言い出す。ならばこれを持って行け。」
秀衡は持っていた舞草刀を差し出した。
鬼には常に監視がついていた。もっとも秀衡によれば監視がなくても鍵を持っているため追跡は常に可能だという話だった。
秀衡は恭の荷物を預かると、場所を指定して去って行った。
恭は言われた場所へ行く前に、教授にメールをした。鬼という相手がどのような存在にしろ、一筋縄でいくはずがない。今夜は時間通りに宿に行けそうにない旨、なるべく早く合流するつもりだが最悪帰りの電車での合流になる旨の内容だった。状況によってはそれも危ぶまれるとも思ったが、良くない想定をするのはやめておいた。
久しぶりに緊張というものを味わった。晋もいない、兄も守ってくれない、小鳥遊もいないし、知り合いや味方が一人もいない環境で、一人、刀を振るわなくてはならない。孤独というより武者震いに近いだろう、純粋な実力で勝ち得るものがあるかどうかを試す機会は滅多にない。このような状況を兄に言えば卒倒するに違いない。内緒にしておこうと思うと少しおかしい気持ちになった。親に隠し事をするような構図に置き換えたら、勝手に命がけのバトルにエントリーした事が些細な事のように思えたからだ。
時刻は既に日暮れ時になっていた。綺麗な茜色の夕日に染められて、田舎の景色はどこか郷愁を誘う穏やかな絵画のようだ。
恭は『夜』の気配のする方へ歩を進めた。
禍々しい、大きな瘴気の塊が視界に入った。
腰にさした二刀を確認するように握ると、足を止めた。逢魔刻、薄闇に飲みこまれていく世界が、昼から夜に反転する摂理を、戦慄することで実感した。
鬼が、恭をその目にしっかりと捉えた。
鬼は恭の五倍はあるかと思われた。毛に覆われた腕がやけに長く、大きく鋭い爪同士が摩れ合う嫌な音がしていた。獣の顔面には怒り以外の感情を読み取ることは出来ず、額に微かに二つの突起物があった。恭の手の中に収まってしまいそうな小さな角だった。
恭が秀衡からもらった鬼笛を吹くと、鬼はその怒り狂う相貌で恭を捉えた。
秀衡は五センチ程の木の筒を、鬼の嫌いな音がするからとせめてもの悪足掻き程度にくれたのだが、鬼笛の効果は別の所にあるらしい。そう、例えば鬼を最高潮に怒らせるとか。
鬼は迷いなく恭に向かって突進し、五つの刃の付いた剛腕を振るってきた。恭は舞草刀を抜き向かってくる鬼の腕ごと切断したが、鬼の腕は高速で修復を始め、見ている内に元通りになってしまった。
「なるほど。」
舞草刀では太古の鬼は倒せないと言うのは本当らしい。
恭が嘆息する間を待たず鬼は再び恭に向かってきた。
恭は鬼の攻撃を避けながら少し移動し、林へ誘い込んだ。
手近な木に印を描くと、鬼の攻撃を器用に避けながら次の木へ移った。鬼はちょこまかと逃げる恭に翻弄されながら、恭を踏もうと足を上げた時、恭は鬼の股の下をすり抜けて四本目の木へ印を描いた。
鬼が振り返るその瞬間に、四本の木から薄い光が四辺を描き、透明な立方体の結界が張られた。
「結界を張ったようですね。」
近くで気配を消して観戦していた泰衡が秀衡に言った。
「鬼と自分を結界内に閉じ込めたか。確かに鬼の行動は制御されるが、自分まで中にいたのでは状況が悪化してしまうではないか。」
秀衡は周辺に配置した兵に指示を出す用意をした。
鬼はその透明な密室の存在を気にもとめずに、恭に向かって吼え爪を振った。恭がその腕を避け、透明な壁を足場にして鬼の周囲を回転するように、兆弾した弾丸のように避け続けた。しばらくそうして攻防を続けてから、鬼の背後に回り込み、透明な壁を蹴って跳躍した。そして鬼の背に舞草刀を突き刺すとそこを踏み台にして鬼の体を駆け上がり、黒烏を鬼の首目掛けて振った。しかし黒烏は太い鬼の首を完全には断つ事無く、恭は暴れた鬼から振り落とされた。
恭の額から汗が落ちた。夜とは言え真夏の密室に鬼と二人で駆け回るのは、サウナのような暑さだった。服が肌に貼り付いて不快だった。それに息が上がっている所為か空気が薄いように感じた。
何とか着地した恭が立ち上がるより早く、鬼の手が迫ってきた。鬼は斬りかけの首を揺らしながら尚、恭への攻撃の手を緩めない。恭はしゃがんだままで、地面を力一杯蹴り、鬼の全力で迫って来る手のひらに跳び移り足を付いた。恭に向かって力一杯振るわれた手の遠心力にのって宙へ跳び、そのまま体を回転させ黒烏に力を乗せると、鬼の首の傷口へ再び黒烏を振った。
黒烏の空気と肉を切り裂く断末魔が響き、鬼の首は胴体から離れ地面を転がった。
恭が足元に転がった鬼の頭部を一別すると、背後で鬼の胴体が起き上がった。恭が振り返ろうとすると、横たわっていた手がゆっくりと動く所だった。恭は素早く鬼の背から舞草刀を抜くと、足に力を込め上体を回しながら舞草刀で鬼の胴体の半ばまで斬り、修復する間髪を入れずもう一方の手で握った黒烏でもう半分を斬った。
腹から二分された鬼は今度こそ倒れ動きを止めた。
恭はようやく胸を撫で下ろすと、立方体の透明な密室を解いた。
恭は二刀を握ったままで、肩で息をしていた。顔色が悪く、尋常ではない汗が流れていた。
鬼の斬られた腹の中で何かが鈍い光を放っていた。恭が二刀を収めてからそれを拾い上げると、大きな金製の鍵だった。
「これが」
書庫と鍵は平安時代に造られたものだ。その当時奥州では金が採れたと言う。恭は金の鍵を見て、本物に間違いないと思った。すると、どこからか秀衡が歩いてきた。
恭は鍵を投げると、秀衡は困ったような顔で鍵を受け取った。
「鬼を倒して鍵を取り返したら書庫を見せるなんて、本当は本気じゃなかったんですね。」
「いつ気付いた?」
「鬼の首を斬っても動いた時に。」
秀衡は鬼は首を斬れば死ぬと言ったが嘘だった。だが、気付くのが遅すぎる。鬼を斬ってから気付くなど、気付かないのと大差がない。気が付くならばもっと違う所であるべきだった。例えば、鬼の姿を目視した時に。長年倒される事がなかった巨大で禍々しい化け物に、一人で挑めと言われた事の本当の意味を悟るべきだった。無理難題なのだと。
「今現在、太古の鬼を倒した者はいない。正確な急所は知らない。」
「なるほど」
恭が前髪をかきあげると、水をかぶったように汗が流れた。
滝汗を流しながらも、恭は大した怪我をしているように見えなかった。鬼の爪がかすったような擦り傷切傷はいずれも浅く、子供が外で遊んで帰って来た程度だった。秀衡は鳥肌が立った。一体どれだけあの悪鬼に命を奪われてきただろうか、それをこの短時間で倒してしまうとは。
恭は流れる汗を拭いながら言いかけた。
「あと、貴方に貰った笛…。」
「ああ、あれは鬼の嫌いな音がするみたいでね。吹くとキレて襲ってくる」
秀衡は厭味のつもりで渡したあの笛の事で、後で笑ってやるつもりだったのだが、今となっては笑える気がしなかった。
「なるほど。」
「…恭殿を軽んじていたようだ。謝罪する。」
「俺には出来ないと思っていた?」
「ああ。そのはずだった。」
「貴方の予想を裏切れて愉快だから謝罪の必要はありません。」
恭がびしょぬれの顔で不敵に笑うので、秀衡は呆れた。
「…とにかく約束は約束です。書庫を好きに見てください。必要なら持って行っても構わない。鬼の討伐は長年の悲願。恭殿はこの奥州の恩人です。」
秀衡は恭にひざまづき頭を下げた。
「光栄です。じゃあ、とりあえずシャワー貸してください。」
恭の言葉に秀衡は首を傾げた。恭は夜空を見上げて深呼吸をしていた。
この若者は悪鬼を討伐したことの意味を理解しているのだろうか、それとも自分が書庫を見ることしか考えていないのだろうか。秀衡は困惑したまま、兵達に鬼の後始末を命じると、恭を屋敷へ案内した。
「あ、これ。」
恭が舞草刀を差し出した。
「ああ。」
秀衡が受け取ると、恭は柔らかく微笑んだ。
「その刀は本物だった。」
秀衡の言った事のどれが嘘でも、刀だけは本物の名刀だった、と。
秀衡はぞっとした。解っているのだ。全部解っていてこの態度なのだ。
末恐ろしいとは正にこの事。秀衡はこの上ない敬服を、口にも態度にも出さなかったが、その豊満な胸の奥底で抱いたのだった。
その夜恭は書庫を開けてもらい、翌日の昼頃まで庫内を物色し続けた。書庫の中には古く貴重な書物が大量にあったが、その中の何冊か選んで写しを貰った。
書庫の外へ出ると、真夏の刺すような陽光が恭を襲った。帰り支度をしていると、秀衡が浴衣姿で現れた。恭は相変わらず男を誘惑しているような見た目に、一瞬戸惑ったが、中身は食えないおっさんだと十分理解していたため、どうでもよくなった。
「満足か?」
「ええ。ありがとうございました。」
「…それはこちらの台詞だよ。食事を用意した。食べていく時間がなければ持って行けるようにするが。」
「助かります。そろそろ合流しないと、後で何を言われるか分かりませんから。」
いくら教授が良いと言ったと言え、これ以上別行動をしては、恭の参加を喜んでくれた学生達に面目が立たない。明日は帰る日なので、今日中に合流して共に過ごそうと思っていた。
「恭殿、貴方は本来なら将たる方だ。もし貴方がこの先、将たる御立場になられる時、力が必要ならば何時でもおっしゃって下さい。微力ながら助けになりたい。」
「…ありがとうございます。ならば兄に…」
「私は貴方個人に言っているのです。」
「…分かりました。いずれ。」
「ええ、お待ちしております。」
秀衡が差し出した白くて細い手を握り返すと、思っていたより強い力で握られた。その手は確かに、曖昧な返事しかしない恭に念を押しているのだった。
恭が荷物を背負うと、秀衡が包んだ食事を持たせた。黒烏は来た時と同じように長い筒にしまった。
「その一振りが輝くのは『昼』ではないようだ。」
恭が微笑んだが、秀衡は冗談ではなく嫌味のつもりで言ったので複雑だった。
翌日の天気は正に青天、どこまで行っても突き抜けるような青い空が広がっていた。絵に描いたような青が頭上一面に広がっているのを仰ぐと返って頭が痛くなりそうだ。
「これって海に遊びに来たことになる?」
晋が義将に訊くと、義将はリュックの肩紐を背負い直して笑った。
「仕事に着いてきただけでも海は海でしょ?それに父さんが仕事に僕を連れて行ってくれるなんて奇跡だよ。しかもお弁当付き。正に晋兄ちゃんとの約束の賜物だよ。」
知将と晋が偶々海水浴場近くへ援軍の仕事があったので、夏休みリストの項目の一つである海に行くというミッションを同時に消化することになったのだ。仕事はあっさりと片付き、知将が事後処理に付き合っている間、晋と義将は自由時間となった。二人は昼食を済ませ、海辺を歩いていた。
「援軍とか言って大したことないんだからびっくりしたよ。これってあれかな。俺たちのために知さんが仕組んだのかな?」
「晋兄ちゃんのおかげだって。だって昨日の夜中、父さんと一緒に仕事に行ったんでしょう?俺との約束守りながら、仕事してる。結構無理してるんじゃない?」
「んな事ないよ。俺は休んでるより、やる事ある方が燃えるし。つか、昨日の知さんマジカッコよかったんだよ。大量の『夜』を薙ぎ払うあのパワフルな戦い方、本当憧れるぜ。」
「晋兄ちゃんが褒めると父さんの事、いつもより良いって思える気がする。」
二人は波打ち際で控えめに遊びながら話した。
「俺、義将が羨ましいんだ。」
「え?」
「知さんみたいな人が父さんでさ。」
晋は義将の顔に軽く水を飛ばした。
「晋兄ちゃんの父さんは?」
「さぁ?でも、頼むから死んでいてくれって思ってる。」
晋の回答に義将は戸惑ったが、晋は何も言わなかったかのような顔で海水を弄んでいた。義将は話を続けていいのか迷い、目を伏せると、晋が義将の頬についた砂を払いながら言った。
「義将、お前の事本当の弟みたいに思ってるけど、いつか俺とつながりを持ってる事が障害になる時が来るかも知れない。そうしたら俺との関係は絶て。」
「何それ。矢集だから?言ったじゃん、僕も訳有りなんだって。仲間でしょ。」
「仲間なんかじゃない。例え家名や血筋がどれだけ穢れていても、子孫に罪はない。これからのお前はお前の実力でその身を証明していけばいい。それだけだ。そのために俺が邪魔なら遠慮なく俺を捨てろ。俺のためにも。」
「意味が分からないよ。晋兄ちゃんは僕とどう違うの?」
「…俺は人じゃない。」
「…何それ。」
「言葉のあやだよ。地龍殿が我らの神であるように、矢集もまた人ではない。どうあれ俺の身は俺の行動ひとつではどうしようもない。あまり俺に感化され過ぎるのは良くない。お前の回りには良い人がいっぱいいるだろ。もっと回りに目を向けた方がいい。知さんは素晴らしい武士だよ、信じな。」
晋の言葉には義将には受け止めきれない含みがあった。けれど言いたいことを汲み取らなければと思った。何か大切な事を言おうとしているのだと言うことだけは理解できたから。
「…うん。晋兄ちゃんがそう言うなら。でも、僕は晋兄ちゃんの弟子で弟だよ、やめたりしないから。」
「はいはい。それならもっと強くならなきゃな。誰もお前に口出せないくらいに。」
「あ〜ら、良い話してるじゃない。二人とも。」
何時の間にか知将が背後でにこにこしていた。
「わ!父さん…ママいたの?」
「気配を消して近づくあたり、性格悪いんじゃない?」
「あら、晋ちゃんは気付いてたくせに。義くんはもっと鍛錬が必要ね。」
「…は〜い。」
「お仕事終了よ。帰りましょう。そろそろ出ないと、恭ちゃん帰ってきちゃうわ。」
「そうだね。帰ろう。」
知将に呼ばれた義将は先んじて走り出し、晋は出遅れてしまった。ゆっくり立ち上がり、足についた砂を払い落してから顔を上げると、知将が困ったような顔で晋を見つめていた。
「どうしたの?知さん?」
「人じゃないだなんて、悲しい事を言わないで。」
「そうだね。今度から気を付けるよ。」
晋が答えると、知将は仕方なく嘆息して歩き出した。
晋は快晴の空が際限なく続く事が、どうしようもなく煩わしく思えた。
夕方になり、恭は帰宅した時にはすっかり疲弊した様子で、食事を済ますとすぐに眠ってしまった。さすがの知将も恭の疲れた顔を見て土産話を要求することはしなかった。
眠る前に、恭は晋に鬼の角を投げた。
「やる。」
晋は慌てて受け取ると、手のひらに収まったそれを見た。鋭利な石のようにも見えた。霊力を帯びていて、神秘的な螺旋を描いているようにも見えた。
「何?これ?」
「土産だ。戦利品。魔除けになるそうだ。」
恭が嬉しそうに晋を見たが、晋には意味が分からなかった。
説明するつもりのない様子の恭に、晋は諦めたように角を握った。
「魔除けね。いいね。ありがとう。」
そのまま恭はぼんやりと眠ったり起きたりして二日ほど過ごしていた。
「どんだけ消耗して来たんだか。」
晋がさすがに心配して恭の様子を見に行くと、義将が恭の部屋の前で散らかった紙を見ていた。何時の間にか恭の部屋は窓と扉が全開で、風通しを期待していたようだったが東京の夏には風が吹かないらしく、仕方なく扇風機を回していた。その所為で机の上の書類が派手に吹き飛ばされ、部屋の外にまで飛んでいたのだ。
義将が拾って眺めていた紙には、細かい計算のようなものが大量に書かれていて、部屋を覗くと、恭はその計算に夢中だった。ぼんやりしているように見えたが、もしかしたらずっと何かを考えていたのかも知れなかった。
「晋兄ちゃん、これ何?」
晋は義将から紙を受け取ると、眉を寄せた。
「結界の演算?ってか穴の開いた結界って意味ある?」
晋の言葉に、恭は振り向きもせずに言った。
「立方体型の捕獲用結界だと思っていたが、これは密閉型だった。通気性を良くしたい。」
「何言ってんの?これあのショウケースみたいなやつでしょ?何で通気性?」
「死にかけた。中はサウナ状態だし、空気穴が無い。あと少し遅かったら酸欠で死んでいた。全く想定外だった。」
「入ったの?」
あの鬼と戦った時、恭は結界内で空気がなくなる事は考えていなかった。あの結界は敵を捕らえるためのもので、それは生かして捕らえる目的ではない。故に中に入った者もいないため、完全な密閉状態になると知る者はいなかった。鬼を倒すための、所謂プロレスのリングみたいな役割として使用するには危険すぎたのだ。真夏の密室に鬼と二人で挌闘するのは完全な失策だった。悔しいので秀衡には悟られないよう振舞ったが、恭にとっては結界の改善は最重要事項だった。
「思えば、昔お前が捕った虫を結界内で飼おうとしたら死んだ。あの時は原因が分からなかったが、あれは酸素が無くなったからだったんだ。あの時もっとよく考えておけば良かった。」
恭の後悔は随分時を遡っているようだったが、晋からすれば旅行へ行かなければ良かったか、もしくは護衛を付ければ良かったという方向で考えて欲しかった。
「何だかよく分からないけど、俺を連れて行けばって思わない?」
恭が計算をやめて晋を見た。
「嫌な事を言うな。確かにお前がいれば苦労しなかった。だがお前がいたら秀衡殿が取引を持ちかけたかどうか…。飽くまでも俺との個人的な取引だったからな。」
「ふうん。ま、いいけど。俺をどう使うかは、恭が決める事だ。本当に死にそうなら呼んでくれるって信じてるし。」
晋が言うと、恭は薄く笑って計算に戻った。
しばらく計算を見つめていた義将が言った。
「この壁を網戸みたいにしたら良いって事?」
恭と晋が義将を見た。
「…それいいな。晋、小さな穴を増やせば出来ると思うか?」
「う〜ん。紐状にして編んだ方が早くね?あ、あと収縮性も付けたら?」
「面白い。義将殿も参加してくれ。」
「うん。」
言い出すなり、三人は計算に没頭した。
結局簡単には出来ず、夕方になって知将が帰宅すると、三人で頭を突き合わせて唸っていたのだった。
「呆れた。でも義くんまで演算に加わるなんて、本当貴方たちに懐いてるわ。この子文系だもの。いつも算数の宿題だけやらないの。」
「戦闘スタイルは人それぞれだが、出来て困る技はない。義将殿はまだ若い故、何でもやっておくに越したことはないだろう。」
恭が言うと、義将は晋を見た。
「本当だって。恭だって勉強は文系だけど、戦いは結構理系?的な。何でも出来た方がいいんだよ。」
「戦いに文系理系はないが。」
「ちぇっ、晋兄ちゃんは脳筋系だと思ってたのに。」
「ちょっと、失礼じゃない?それ知さんの戦闘スタイルでしょ?何でも力任せに薙ぎ払えば良いって感じで。」
「あら、私の事馬鹿にしてるの?もしかして喧嘩売られたのかしら?」
「まさか!男らしくて好きだなぁ、俺。本当に憧れてるんだよ。いやマジで。」
「晋は直観が占める部分も多いけどそれは経験則だよ。結構計算してる。勉強も理系だったんだけど、兄さんはそこまで知らなかったんだな。」
晋は商業学部の隣にある理工学部にしばしば遊びに行っているようだった。「学部を間違えたな。」と言うと晋は「あそこには面白いおもちゃが多いから行ってるだけ。」と答えていたが、随分興味深そうに見ていたのを覚えていたようだった。
「ちょっと恭、俺はここに大学生やりにきたんじゃないんだから。そういう事は忘れて忘れて。それより旅行はどうだったの?随分疲れてたみたいだけど。秀衡殿との取引ってヤツはそんなに厳しかったのか?」
「ああ、それはかなりギリギリのヤツだった。だが、ある意味で大変なのはもっと別の所にあった…。」
恭が言うには、合流したゼミとサークルの先輩達の宴会に巻き込まれ相当絡まれたらしかった。不眠不休で合流した先に、待っていたのが先輩の接待という最悪の精神消耗ルートへ入ってしまい、家に着いた頃には満身創痍の状態だったという。それでも旅行へ同行させて貰った事への恩返しにはなったようだったので良かったと言っていた。
「ま、何事も経験だな。」
恭が随分まっすぐに義将の目を見て言うので、義将は少し気圧されてからぎこちなく頷いた。
「晋の強さは野生で身に着けたようなものだ。より実践向きだからな。実践経験のない義将殿には後の糧となろう。しっかり学ぶことだ。」
晋が義将を鍛える事になったというのを聞いて恭は大いに喜んだ。地龍の組織の中で、少しでも普通に扱われることや存在理由になるものを持つことは、晋にとってとても重要なことのように思われた。恭は今まで、自分の元に置くことでしかそれを与えてやれなかったから、改めて知将に感謝したい気持ちになったのだ。たとえ四年間だけの暮らしでも、晋にとって一生の絆になればと、願ったのだ。
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