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11 甘言の事

 春の麗らかな陽気の中で、恭と晋の新生活は始まった。

三月の最終週に引っ越しを終わらせて、急な進学の準備は慌ただしく済んだ。

東京の都会の中にある広大なキャンパスは、思ったより雑然としてなかった。古めかしい建物を囲む木々が、外と中を遮る大きな役割をはたしているようで、中は正しく学び舎という雰囲気だった。大学には多くの学部があり、恭は文学部、晋は商業学部で、二つの校舎はびっくりする程離れていた。貴也が何を考えてそうしたのか分からなかったが、もしかすると学部の配置までは考慮に入れていなかったのかも知れない。何せ地龍で大学生をやるのはおそらく恭と晋が最初で最後だろうから。二人は、肩書は同じでも離れて暮らすのは初めてだった。同じ敷地内にいるのに別の生活を送ると言うのは、一緒にいるのにいない、不思議な感覚だった。

 下宿先は地龍の武士の家だった。名は和田(わだ)知将(ともまさ)。あの和田(わだ)(よし)(もり)の子孫で家系としては名門の結構良い身分だった。初めに聴いた時二人は、平屋の純和風の御屋敷だろうと想像していたのだが、行ってみるとそこは三階建マンションだった。しかも立地がほぼ大学の敷地内だった。

 知将が言うには、大学の敷地自体が霊的に特別な場所で、和田家が昔から結界を張って守っているらしい。確かに強い結界で守られた土地らしく、『夜』の気配の全くない環境であった。下宿先と大学を行き来するだけの生活ならまず『夜』に出くわす事も、揺らぎが発生することもないだろう。

 本当に貴也の言う通り、『昼』の大学生として暮らせるらしい。恭は、日本にこんな場所があるとは知らなかった。こんな場所があると知っていれば、さくらの事ももっと別の選択肢があったように思われた。しかしそれはエゴだと思い直し、考えるのはやめた。

 それより、危険はもっと別の所にある気がした。

 「恭ちゃん、いつまで寝てるの?もう朝よ。」

恭が目を覚ますと、目の前にゴツイ男の顔があった。和田知将だった。

下宿先のマンションは、三階建とは言え別の入居者はおらず、和田知将とその息子義将(よしまさ)が二人で住んでいた。恭と晋はマンションの一室ずつ…ではなく本当にひと部屋ずつあてがわれ、まるで四人家族のような生活が始まったのだ。知将という母親に対して息子が三人の、四人家族の。

知将は、炊事洗濯など家事をこなし、子らを育て、よく気が付き、時に優しく厳しい、良く出来た母親…いや父親だった。知将は並の男では敵わない程の筋肉質なマッスルボディで、ガテン系の見た目をしているくせに、その中身は女性だと言う男…否女だった。とにかくマッチョな男の体をした内面乙女の大家は、自らを知ちゃんと呼んでと笑い、妖しい目で恭と晋を舐めまわすように見る危険な人だった。

 「知将殿、その起こし方はやめて下さい。」

恭は立ち上がりながら言うと、開いた扉から朝の食卓が見えた。トーストとベーコンエッグの香りがして、義将と晋がこちらを見ていた。

 「恭兄ちゃんが遅いから僕お腹すいちゃったよ。」

義将は十歳で小学校へ通っていた。知将がその凄味で無理矢理ママと呼ばせて育てている和田家嫡流でその腕前は未知数だ。そもそも、宿題や家の手伝いなどで小言を言うところは見た事があっても武士としての修行をしている所を見たことがなかった。まるで普通の『昼』の子供のようだ。

 「すまない。」

恭が席につくと、全員で朝食を食べ始めた。

 「恭、また徹夜?」

晋がトーストをかじりながら訊くと、恭は頷いた。

 「いや…寝た。」

 「どうせいつ寝たか覚えてないんでしょ。」

言いたい事を晋に先に言われたので恭は黙って朝食を食べた。

 「しかし意外よね。恭ちゃんったら、しっかりしてるように見えるのに、意外と手がかかるんだから。貴也さんが心配する訳ね。」

知将と貴也の繋がりは全くの謎だが、知将が言うにはただならぬ仲らしい。さも、義将の父親が貴也だと言わんばかりの言い回しをする事も度々あり、義将は既に呆れることすら諦めていた。

 「義くん、もう小学校に行かなくちゃ遅刻しちゃうんじゃないかしら?」

 「え、もうそんな時間?恭兄ちゃんが寝坊するからご飯食べる時間が無くなっちゃったじゃん。」

知将が指摘すると義将は恭を睨みつけながらランドセルを背負った。毎日食事は全員そろって、と知将の鉄の掟があるので仕方ない。

 「本当にすまない、明日から気をつける。」

恭が言いながら玄関まで義将を見送ると、義将はにやりと笑って言った。

 「じゃあ、恭兄ちゃん今週の風呂掃除代わってよ。そしたら許してあげる。」

 「分かった。だから早く行け。これで遅刻されたら、俺が知将殿に殺されかねない。」

 「了解。いってきま〜す!」

元気よく駆けて行く義将の後姿を見送ってから、再び食卓へつくと、晋が食後のコーヒーを飲みながら笑った。

 「子供に使われてやんの。」

 「うるさい。」

 「ほら、早く食べないと、二人も遅刻するわよ。二人とも今日は一限からでしょ。」

知将がテレビの芸能ニュースを見ながら言った。

いつもの朝だった。


 「しかし、知さんは変わってる。貴也さんにどう任されたのか知らないけど、地龍当主の弟である恭をまるで『昼』の一般家庭の子供みたいに扱うんだから。ま、面白いけど。」

 「確かに、はじめは驚いた。」

知将の家は元々、ゴミ出し・風呂掃除などいくつかの家事を当番制にしていて、恭と晋も当然のようにその制度に組み込まれた。起床時間や食事の時間も決まっており、全員がそれに合わせるよう言われた。あの家では知将こそが掟であり、逆らうことは死を意味する。恭と晋は、何の死なのかは考えないようにしている。

大学の中を二人で歩いていると、二人に周囲の視線が集中していた。入学して僅か数日、二人の存在は大学中に知られているようだった。

 「特に目立つような事はしていないんだが、何故見るんだ。」

恭は不愉快そうに顔をしかめた。

 「モテてるだけ。今までもそうだったんだよ。恭が気付かなかっただけだ。どっちみち恭は静姉しか見てないし、日本中探しても静姉より美人を探すのは難しい。だから気にするだけ損だよ。」

 「…なるほど。」

恭と晋は正反対のタイプではあるが、整った顔立ちとスタイルでただ歩いているだけでも様になるので女子大生の間では格好の的となっていた。小中高と同じだったのだが、さすが大学は規模が違った。いかに鈍い恭でもその視線の意味にようやく気が付いたのだった。

 「それ、どういう納得?」

 「静以上の女はいない。」

不敵に笑う恭が、てのひらで晋の胸を押した。ちょうど別れ道だった。そんなことが言いたかった訳ではないと晋が複雑な顔をしたが、恭は既に後姿だった。

二人はそれぞれの学び舎へ向かった。



 晋は『昼』の社会に溶け込むのは、地龍で馬鹿な上流武士共に媚びる事より遥かに簡単だし楽しいと思った。誰も矢集(やつめ)の血統だからと白い目で見ない。それに怯える必要もない。ただの軽いイケメン大学生を装えばいい。相手に適当な相づちを打って軽口を叩いているだけで簡単にコミュニティーの一員になれた。『昼』は楽だ。けれど中身が無い、少し虚しい。それを知将に言った所、「皆まだ子供だもの。中身はこれから出来るの。」と言って微笑んだ。今から中身を詰めていたのでは遅いように思われたが、これが『昼』のペースなのだと思うと、ずいぶんゆったりとした気持ちになった。

教室で教科書を用意していると、いつの間にか女子達に囲まれていた。

 「ねぇ晋くん、文学部の恭くんと友達なんだよね?」

 「そうだよ。何、恭狙い?やめときなよ、恭は落とせないよ。」

晋の言葉に女子達が沸いた。

 「何で?」

 「確かに理想高そう。」

 「え、もしかして彼女いるんじゃない?」

 「え、うそ、ショック―。」

 「どうなの、晋くん。」

 「どうかな。」

はぐらかしている内に、朝の恭の不敵な笑顔を思い出した。静は未だ貴也への想いを整理できず恭に靡く素振りを見せない。その上、唯一の条件である最高の男になるという命題を放り出して大学生になったのだ。本来だったら自信を無くしたり不安になったりするはずのシチュエーションだと言うのに、あの不敵な顔は一体何なのだろうか。恭は静がいずれ恭のものになる事を信じて疑わない様子だ。はじめから。謎だった。なぜああも自信満々なのか、晋にも全く持って謎だった。もしかすると、こうしている間にも、静が恭でも貴也でもない男のものになるという可能性を理解していないだけなのかも知れない。なんたる自信、いやある意味鈍いのか?晋は、そう考えたら急に悪戯心が騒ぎだした。

 「俺、だったらどうする?」

晋の言葉に女子達が一瞬言葉を失った。

そして再び沸き、晋を問い詰めようとした時、講義が始まり話は終わってしまった。

話が途中で終わった事が返って女子達を盛り上げてしまったらしく、恭と晋の秘められた関係(大嘘)についてはその日の内に一気に大学中に広まってしまった。それにはさすがの晋も悪いと思ったが、どっちみち恭は静にしか興味がないのだから気にしないだろうと思って自分が噂の発端である事ごと忘れ去ることにした。


それから暫くしたある日の夕食中に、恭がおもむろに口にした言葉に晋は吹いた。

 「なぁ、合コンて何だ?」

 「は?」

 「何だよ、恭兄ちゃん。合コンも知らないの?合コンて言うのは〜…」

 「義くんは黙ってなさい。」

 「どうしたんだよ急に。」

 「いや、今日ゼミの先輩に誘われたんだが、お前なら安心だから数合わせにと。意味が分からなかったんだが。」

恭は入学早々に古代文学担当の教授のゼミに勝手に入り浸り、何故か教授やゼミ生にすっかり気に入られて可愛がられているらしかった。

 「何で恭ちゃんが安心なの?むしろ来た娘全員恭ちゃん狙いで集まり自体が無意味になるかも知れないわよね?何で?」

知将はまったく理解できないと言った。

 「あ〜それ多分アレだわ。恭が俺と出来てると思ってるせいで、女子に興味ないから安心みたいな事だわ。」

 「はぁ?恭兄ちゃんて晋兄ちゃんと出来てんの?」

 「え?二人はそういうアレなの?そうなの?」

 「いや、噂ですよ、噂。ともかく、恭それ行くのか?静姉にバレたらまずいんじゃないか?」

晋は自分が蒔いた種がこんな波及効果を及ぼすとは思わず、恭を止めようとした。

 「いや、だから合コンて何なんだよ。」

周りの盛り上がりを余所に、いつまでも疑問符を口にし続ける恭が、晋はちょっと笑えると思った。

 結局恭は意味の分からない会合に参加する気はないと初めから断っていた事が判明したが、その後もただの飲み会だとか歓迎会だとか打ち上げだとかテキトーな名目で行われる実質的な合コンに誘われ続けているらしいという風の噂は、晋の耳にしばしば届いたが実際に行われたという話はきかなかった。晋がそれとなく訊くと、理由は『昼』では未成年は飲酒してはいけないからだと言っていた。

 

 「本当どっかズレてんだよな。」

呟きながら晋は昼食を済ませ学食から出ようとすると、珍しく白い服を着ている恭を見かけた。長年一緒にいる晋でも、制服以外の白い服は見たことが無かったので二度見すると、それは白衣のようだった。近付いて行くと、恭は晋に気が付いて言った。

 「飯か?一緒にどうだ。」

晋は恭が歩いていくのに付いて行ったら再び学食の流れの中に戻ってしまった。

 「うん、俺は今済ませた所。てかソレ何?白衣?文学部って白衣着るっけ?」

晋の問いを聴きながら食券を買うと、何故か嬉しそうに答えた。

 「貰ったんだ。似合うからって。」

どうもゼミの先輩なる女子が、面白がって恭に白衣を与えたらしい。大学病院の医師のような設定でも付けて妄想して喜んでいるに違いない。恭がそんなものの餌食になるとは、なんたる不覚。晋は恭の男色の噂を流しておいて他人にネタにされるのは嫌だなどと、我ながら矛盾していると思い、頭を押さえた。

 「うん。似合うけど、気に入ってんの?」

買った食券を出し、品が現れるのを待ちながら恭は白衣のポケットに手を入れた。

 「ポケットが大きくて便利だ。機能性が気に入った。」

 「ポケットって…何入ってんのそれ。」

恭はおもむろにポケットから棒の付いた飴を取り出し、包みをはぐと晋の口に入れた。

 「やる。」

昼時の混雑した学食の中でいつの間にか二人は注目の的になっていたらしく、恭が晋に飴を与えた瞬間の奇声やカメラ音はすさまじいものがあったが、恭は全く意に介していなかった。晋は口から出た棒の先端を見ながら訊いた。

 「…飴が入ってるの?」

 「他にも色々入ってる。どうも最近糖分が欲しくてな。頭使ってるせいかな。それ嫌いだったか?」

 「いや、恭が棒の付いた飴舐めてる姿なんて見たくなかったから、丁度良かったよ。これは俺が隠滅しとく。」

 「確かに。棒は付いている意味が分からなくて貰ったは良いが手を出せなかったんだ。」

 「意味が分からないのはこっちだよ。」

晋の戸惑いを無視して恭は昼食を食べ始めた。手の側面に黒鉛が付いているのが見えた。晋の考えていることは、恭が逆立ちしても思い至らないことなんだろうと思えた。

ただ、晋の蒔いた大嘘の種を育てているのは恭の無神経な行為なんじゃないかと思うと、女子達が妄想するのは止められそうにないと嘆息した。



 「大学って恐ろしいところだよ。俺の恭が壊されていく。恭の威厳や尊厳は俺が必ず守るから。貴也さん、見守っててよ。」

晋は呟きながら靴を履くと、刀を携え知将と共に、夜の街へと歩いて行った。

貴也が手伝えと言った東京の仕事は思ったより多かった。

晋にとって刀を振る瞬間は、ぬるま湯のような大学生としての生活の中で、唯一自分が地龍の武士だと実感できる部分だった。

生き返る。

皮肉にもそんな気がして苦笑した。たまに会う知将以外の地龍の部隊はやっぱり相変わらず矢集を嫌な目で見るし、厭味を言ってくる。これが自分なんだ。晋は実感して安心して、そして人を斬る。

 「晋ちゃん、今どんな顔してるか分かってる?」

帰り道に唐突に知将が晋を見た。

 「笑ってるわ。」

周囲の武士達が恐がっているのは、矢集の家名より、笑いながら人を斬る晋の狂人たる所なのだと言った。

 「これが俺ですよ。」

 「晋ちゃんがどう思っても、貴方を預かったからには私は貴方の母親のつもりよ。」

返り血を拭いながら知将を見ると、外灯の逆光で表情がよく見えなかった。知将は手を伸ばし、晋の頬を拭いた。

 「それは晋ちゃんじゃない。」

大きい手だった。

 「じゃあ、どんなのが俺ですか?」

 「一緒に笑ってご飯を食べる。」

ようやく知将の顔が見えてきた。

優しい母親のような微笑みだった。



 鎌倉は花盛りだった。

(だん)(かずら)の桜は満開で、多くの花見客や人力車などが行き交っていた。

そんな中を鶴岡(つるがおか)八幡宮(はちまんぐう)へ向かい、(むね)(すえ)と静が歩いていた。

温かな日差しを浴びて頭の中がぼんやりする。春に人は狂う、宗季は何となく分かる気がした。冷静な判断力を失う陽気、そして寝気。心地よい誘いは、どこか危険な香りがする。甘美な誘惑こそ最も警戒すべきものだ。一瞬の気の緩みや迷いが一生の汚点となることもある。

甘言こそ、命とりだ。

気を引き締めなくては。

横を歩く静を見ると、小さな頭があった。いつもながら胸元の開いた大胆な襟元から豊満な胸囲が作る谷間が見えている。見せているのか。宗季には判断しかねる難問だった。

 「恭殿に別れは?」

宗季が静を見ずに訊いた。

 「…したわ。」

相変わらず人の顔を見ないで核心に触れてくる宗季に、静は警戒した。

 「普通に、元気でねって。」

 「それだけ?」

 「そうよ。今生の別れじゃあるまいし、休みになれば帰って来るでしょう。」

桜の花びらが春の強風に散らされ舞い踊る姿を視界に入れながら宗季は疑問を口にした。

 「それはどうだろう。おそらく暫くは戻らないと思うが。」

 「何故?」

 「恭殿はおそらく貴也殿に故意に遠ざけられたのでしょう。祥子様が義平殿にそうされたように。」

 「故意に…。」

 「何かが起ころうとしている。鎌倉は危険だと判断したのでは?」

 「疎開させられたってこと?」

 「もしくは単純に邪魔だったか、どちらにしろ俺の邪推かも知れないが。」

宗季が詰め寄る静を見ないように顔を上げるが、静はお構いなしに近付く。宗季はいつも露出が多すぎる静に対して目のやり場に困っているのだが、未だそれとは言えないし静が気付く様子もない。

 「恭はそのこと…」

 「おそらく察しているだろうな。」

 「そう…。」

静が俯いたので、宗季はようやく静から体を離し再び明後日の方向を見た。

 「恭殿の気がある内に唾を付けておかなくては、どこぞの御令嬢に取られてしまうぞ。」

 「どうして、そう私と恭のことに口を出すのよ。」

 「静と恭殿の恋愛は理想的だからだ。」

 「は?」

 「俺は合理性を欠いては満たされない質でね。恋愛は向かないのだ。だが二人は合理性と恋愛を兼ね備えている。実に理想的だ。興味深い。」

身分の高い者同士が政略ではなく恋愛の末結ばれるというのが理想だという意味だろうか。静は宗季の頭は解剖しても理解できないしする気もおきなかった。

 「何それ。」

静は吐き捨てるように言うと目を閉じた。

 

 恭は三月の引っ越しの前日、きちんと静に挨拶をしに来た。

恭は静の手にそっと紙で折った鳥を置いた。

 「何かあればこれで俺を呼べ。必ずすぐに来るから。」

 「何かって何よ。この私に限って何かなんてある訳がないでしょう?馬鹿にしないでよ。」

古い術で、伝書鳩みたいなものだった。この携帯端末の御時世にこんな古典的なものを渡してくるのは、日本中探しても恭くらいだと思った。江戸時代かと心の中で突っ込んだ。だが、存外悪い気はしなかった。

 「…つまんない事で使ってやるわ。ムカついた時とか、悲しい時とか、寂しい時に。」

 「結構。」

 「すぐ来るのよ。」

 「ああ、勿論。すぐ来る。」

 「雷が落ちて停電したとか、部屋に虫が出たとか、顔が見たくなったとか…。」

 「ああ、すぐに来る。約束だ。」

静の紙鳥を握る手に恭は手を重ねた。

恭の年下のくせに静より大きな手の温度に、静は穏やかな気持ちになった。


 再び目を開くと、後ろから宗季が声をかけた。

 「俺が心配するまでもないようだ。」

 「なっ!」

楽しそうに歩きだした宗季を静は慌てて追いかけた。宗季に知られた事はすべて平重盛(たいらのしげもり)の耳に入る。平家の当主にくだらない事を報告させる訳にはいかないと。

宗季は地龍本家と月夜家の結婚は大いに政治的な意味を持つと考えていたのだが、静には飽くまでもこれはプライベートで政治とは関係のないことなのだ。

 「ちょっと宗季…。」

ようやく宗季に追い付いてみると、そこはその日の『龍の爪』の集合場所だった。宗季に苦情を言いかけた静に、宗季が自身の人差し指を口元に付け黙るよう指示した。

 「直、いい加減にしろ。お前は集中力に欠けてるんだよ。訓練でどれだけ上手く行っても本番で出来なきゃ意味ないだろ。」

 「…すみません。」

先に来た(さね)(ちか)直嗣(なおつぐ)に説教をしていた。既にいつもの光景となりつつあった。

直嗣より体の小さな実親の一見女の子のような見た目は、静にも宗季にも怒っても大して迫力がないのだが、新人で最年少の直嗣には鬼のように見えているらしかった。実親の長すぎる前髪の中の猫目で睨まれて冷や汗を流す直嗣が不憫になって静は呟いた。

 「また…。」

 「直は確かに我々と息が合わない。それは一重に部隊での経験値の低さ故かも知れないが、こう毎回では親の気持ちも分かるな。」

確かに直嗣はなかなか部隊の中で上手く立ち回る事が出来ずに、全く歯車が合わない違和感を抱いたままで来てしまった。けれどそれは、よく知りもせず人集めをした貴也の責任であり、全面的に未熟な直嗣のせいだと言いきるのは酷だった。

 「この間、直が他の武士に対する挨拶がどうのって怒られてるの見たわ。そこまで親が口を出すものなの?」

 「まあ、目上の者に対する態度は大切だからな。言って貰えるだけ有難い。親は同じ成り上がり組の直が心配なんだろ。」

 「何の心配よ。自分にまで火の子が飛ぶのが嫌なだけでしょ。」

 「どっちにしろ、俺達は仲間なんだ。犬と猿を遠ざける訳にもいかない。直は親を利用して成長するしかないって事だ。」

 「さすが、合理主義を自称するだけの事はあるわ。でも直は宗季ほど都合良くは出来てないわよ。」

静が言い終わる頃には、全員が揃っていた。今集まれる全員が。

(よし)(ひら)祥子(しょうこ)を除いたままの訓練と実戦の繰り返しは、既に一か月以上になっていた。



 木漏れ日の中、高台のベンチに腰掛ける直嗣は相変わらず冴えない表情だった。何も上手くいかない。その上実親に完膚無きまでに罵倒されて、慰める弁天の目は憐れみにしか見えない。弱気が服を着ているような頼りない見た目に誰だって辟易すると思った。

 一時はやるしかないと腹をくくったつもりだったが、そんな気持ちひとつですぐに解決する程簡単ではなかった。

 直嗣自身の気持ちは負の奈落に堕ちるように光がない。

 「どうしたの?具合でも悪い?」

いつの間にか隣に座っていた青年が直嗣を気にかけていた。

青年は実親と同じ位小柄で、少し伸ばした髪を後ろでくくっただけの洒落気のないいでたちだった。『昼』の人間と話すのは学校へ通っていた頃以来だったので、三年ぶり位だろうか。少し緊張した。けれど、向こうは直嗣を『昼』の人間だと思っているのだから気負う必要はないと思いなおした。

この場限りの関係だと気を抜いて話した。

 「いや、何でもないよ。ちょっと落ち込んでただけ。」

 「そっか。俺もだよ。」

青年はこの春、大学進学で引っ越してきたと言った。新しい環境にはなかなか慣れず、周囲の風あたりもきついと言って苦笑いをした。

 「そんな時はこれだよ。鎌倉はいい場所がいっぱいあるからね。」

青年は大きなカメラを持って笑った。カメラは中学生からの趣味で、色んな景色を撮って気分転換するのだと言った。

 「いいね。僕もそういうものがあれば良かったよ。」

直嗣には弓を射るしか現実逃避する事がなかった。けれど今はその弓を見ると部隊の事を思い出して胸が痛む。集中することが出来なかった。失敗のイメージが目に焼き付いていた。それを払拭出来ずに、いつも軌道を読み間違えたり、タイミングを誤ったり。恐怖が心を乱し、当たり前のことすら出来なくなっていた。

 「君も鎌倉に来たばっかりなの?」

青年がカメラを弄びながら直嗣に訊くと、直嗣は溜息をついた。

 「うん。僕は三月に。僕も新しい環境で上手くいかなくて。求められるもののレベルが高過ぎて付いて行けなくて。正直もう帰りたいんだ。」

 「そっか。お互い大変だね。」

困ったような笑顔だった。直嗣はようやく自分と同じ周波数の相手に会った気がした。厳しい実親でも優しい弁天でもない、ようやく普通の人に会った気がして、少しほっとした。

青年はまたね、と言って去って行った。

青年の背中を見ながら新呼吸すると、少し落ち着いた気がした。


それからしばしば同じ場所で会っては愚痴などを言い合った。

青年の言葉は他の誰とも違う、直嗣に共感してくれる、甘い言葉。直嗣が最も欲しかった言葉だった。

青年は初めて会った時以外はカメラを持っていなかったが、直嗣は気が付かなかった。その意味に。


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