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little  作者: 小糸
15/15

little

 

 そして。

 それから数年が過ぎ。


 いくつもの季節と国と日々を越えて──



 再びわたしたちは相見える。



『グッド、グッド』


 すうっと細く息を吐き出して一曲を吹き終えた私の目に、おだやかに微笑むダニエルの顔が見えた。モーツァルトのオーボエ協奏曲。昔から何回も弾いてきたけど、今回は特別。なんていってもプロと共演することになってるのだ。


『みちがえるようになったね。まゆ。これならバーミンガムの奴らも文句は言わないだろう。今日はもういいから、早く帰って休みなさい。ジョージに連絡を入れておくから、一緒に車にのせてもらって戻るといい』

『うん、わかった。ありがとう、ダニエル』

『こちらこそ。きみのような生徒を持てて僕は幸せだよ』


 にこ、と微笑むその姿は、彼の息子さんにほんとそっくりだ。もっともジョージ君のほうがかなり東洋的でエキゾチックだけれども、どちらにしろ双方美男子。血は濃いものだ。

 オーボエをしまいながら私は考えて、それからよしと部屋の扉に手をかけた。


『じゃあダニエル、またね!先に戻っています』

『うむ。気をつけるんだよ』


 バーミンガム交響楽団との共演。いくつもの経験を乗り越えてたどりついたその舞台が明日にせまっている。緊張するけど、楽しみ。怖いけど、わくわくする。わたしはわけもなくハイになってアカデミーの廊下を小走りにかけぬけた。


 あの後、あのドヴォルザークの音楽祭の後はじめて会ってからというものの、ダニエル・ヒューバーさんの行動は早かった。わたしが三年生の学年を終了した時点で大学に休学届を出させ、そのまま同年の春にはわたしをイギリスに連れて行き、語学研修と共にありとあらゆる音楽の勉強を教授、そして王立音楽院の入学試験を受けさせた。

 ロイヤル・アカデミー。世界的音楽家を何人も輩出しているそのイギリス随一の音楽院にわたしなんかが受かるはずはない!と思っていたのに……なぜか、本当になぜか、受かってしまって。


 わたしは今、心の底から楽しく音楽を学んでいる。


『まーゆ!帰るのかい、また明日ね!』

『あんまり走ると転ぶよー気をつけて』

『まゆ、ヒューバーがさっき捜してたぜ。エントランスの方降りてった』


 すれ違う友人達は肌も眼も髪の色もさまざま。だけど誰一人として自分に劣等感を抱いていたりはしない。自由。時としてそれは枷になることもある言葉だけど。あらゆる意味を含めた自由がここにはある。


 エントランスに続くらせん階段を降りていくと、中ほどの位置で手すりにもたれながらジョージ君が黒人の女の子と談笑していた。わたしが気づいて立ち止まると、『Sorry,my friend has come.』とかなんとか言ってさらりとその子と別れ、こちらへと笑顔を向ける。


「待ってたよ、まゆ。父さんのレッスン終わった?」

「うん。ご機嫌だった」

「『彼』が今日うちに来るからだよ。来月ロイヤルフィルとエルガーやるだろう?イギリスに来るときは足がかりにしてもらってるんだ。会いたいしね」

「わたしもう2年?3年会ってないよ。楽しみだなあ」

「まあ彼はいつまでたっても彼のまんまだと思うけど。もう来てるよ。エントランス前に車とめてる」


 ジョージ君は25歳。ついこの間学生という身分にもかかわらずプロのオーケストラへの入団を果たしてアカデミー中の話題をさらった。きれいな顔も紳士的な態度も相変わらず冴え渡っているけど、大人の引き締まりが随所に見られてきてますます魅力的な感じ。大学院課程はもう修了したはずなのだけど……あいかわらず学校にはいるんだよね。謎。


「じゃ、行こうか」

「うん」


 微笑みあい、わたしたちは共にアカデミーを出た。

 そしてそこには、「彼」が居た。


 エントランス前、車道に寄せて止まっている一台の白い車。本来ならばヒューバーさんちの所有物であるそれに背を預けながら立っているのは、長身で目立つ東洋人。


 わたしはうれしくなって、思わず叫んでいた。


「ロングタイムノー・シー!ミスター・セガワ!」

「お……っ、と、高崎!?」


 思い切り驚いたようにわたしを見る瀬川君は、記憶の中にある彼よりずっと、柔和で穏やかな表情を浮かべる人になっていた。ジョージ君も含めて三人向かい合い、まじまじとお互いの成長を目の当たりにする。


「うわあ」


 瀬川君は、かなり眼を見張っていた。


「高崎、すげーな。かっこよくなって」

「またまた。誉めてもなんにもでないよ」

「いや、本心。なんていうか……見違えたよ」

「それ、ダニエルにも言われた」


 言うと、ジョージ君が横であははと声を上げて笑った。父さんらしいやと。そしてそのまま瀬川君の顔を見て、何かからかうように問い掛けた。


「ところで、愛しの若奥様は?」

「身重なもんで。連れて来れないよ、さすがにね」


 さらっと答えつつも、照れたような笑顔は隠し切れない。


 瀬川君は、あのドヴォルザークを弾いたすぐ後大学を退学した。そして数ヵ月後に世界でいちばん歴史が古く難しいといわれている音楽コンクールであっさりと優勝を勝ち取り、その名を世界に轟かせる。コンクールの褒賞として与えられたデビューコンサートがものすごい絶賛を浴びて、今では押しも押されぬ一流音楽家としての地位を得た。

 愛しの恩納さんとも去年あたりにかなりの若さで結婚したそうで。


 幸せで幸せでしようのない生活を送っている……との話。


「さー、じゃ早く帰るぞ。ジョージ、おまえ運転する?」

「えー。僕疲れてるからやだ。カイやってよ」

「……」

「チェロあるし。よろしく♪」

「……王子だなお前。」


 眉をしかめながらも瀬川君は了承し、それから私の顔を見た。ん?と首をかしげてみる私。そんな風に見つめられても、もう胸は痛まないよ。もう大丈夫。


 わたしたちは今こうして、音楽家として、同じ道を歩む仲間として、再会することができたんだから。


「なに瀬川君ー」

「明日、だろ?バーミンガムとの共演」

「うん!めっちゃ楽しみ!」

「学校楽しい?」

「ちょー楽しい!ほんと楽しい!幸せだよ!」

「……よかった」


 優しく微笑みかけられて、わたしも笑った。

 車に乗り込んで、出発する。


 開け放した窓から吹き込んでくる風は生暖かくて優しい。空は曇ったグレーだけれど、高い。


 ──そういえば、今日のレッスンでダニエルが。


 ふと、思い出す。そうだ、ダニエルが別れ際に何か早口で呟いていた。空がどうとか言ってなかったっけ。ううん?違うな、鳥、かな?


「なんだっけー……」

「どしたのまゆ?」

「あのねー、今日のレッスンでダニエルが、なんか言ってたんだけど。別れ際に。思い出せなくて。早口すぎたし」

「ああ、もしかしてあれじゃん?ジョージ」


 後部座席でひとり呟いていたわたしにジョージ君、瀬川君と加わってくる。ハンドルを慣れた手つきで動かしながら瀬川君がBGMにビリー・ジョエルをかけていた。……渋い。


「いつもの。お気に入りの生徒が巣立つ直前に必ず言うヤツ」

「あー、あれ。僕とマリも言われたよ、オケ入団決まった時」

「なに?鳥だっけ、空だっけ」

「『飛び立ちなさい、どこまでも』。ジョージの親父さんらしいだろ。英語で言うと──」



 ──Fly high,little bird.




「ねーカイ。家帰ったら僕ヴィオラに持ち変えるからさ、まゆとマリ入れてオーボエカルテットやろうよ」

「いいね。バッハもいいな」

「ブラームスのシンフォニーも吹いて欲しいし」

「ついでにベートーヴェンの英雄も」

「……そんなに吹いたらわたし呼吸困難で死んじゃうよ!」


 あはは、と笑いあいながら、わたしたちは皆、頭の中でダニエルの言葉を反芻していた。口に出して確かめ合ったわけではないけど、きっと皆が同じことを考えていたという確信が空気に満ちてた。


 ──Fly high,


 あの空の上まで。人として生まれたこと、人間が生み出した音楽を奏でられるという誇りと喜びを抱いて。


 ──little bird.


 この小さな羽で、小さな体で、小さな前進を繰り返そう。


 そしていつか星になろう。


 音楽があるから、共に生きる仲間がいるから、

 いつまでだって私たちは頑張りつづけることができる。




 ……どこまでも、どこまでも。


 飛んでゆこう。

 はるかな高みへ。




(Fin.)


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