好きな、人
いや!
歌苗の、手が、あたしのオーボエケースを振り下ろす。
床に。
コンクリートの、床。
「ッ」
「馬鹿、何ぼーっとしてんだ!?」
あまりの恐怖に悲鳴すら出せない。体も動かないまま、なすすべもなく、自分の半身が壊されようとするのを見送ろうとしていた時、そう誰かが叫んだ。
あたしは我に返った。そして──
歌苗を、止めることができた。
「……間に合った」
「おせえんだよジョージ。よかった、高崎」
わたしの後ろから息を乱しながら言ったのは、伊勢先輩と……それから、それから、どうしてか。
瀬川君だった。
「大丈夫か?」
問いかけられると、どっと体から力が抜けた。安堵が押し寄せて、だけどまだこの上なく悲しくて悔しくて、涙をこぼしながらオーボエを胸の中に引き寄せた。
「ごめん。俺らのせいなのに、もっと早く気づけばよかった。松が──お前たちと組んでる室内楽の後輩が、教えてくれて。カズからも電話きたし」
「……」
「ほんとうに、ごめん。高崎の手足を、みすみすもぎとらせるとこだった」
瀬川君の手が。他の人じゃありえない、その大きくてしっかりした手が。わたしの頭に置かれる。何度も言われた。ごめんって。聞いたこともないくらい恥じ入ってる彼の声の向こうで、伊勢先輩が歌苗のことを片付けていた。
「ねえ、なんでこんな意味のないことしたんだ」
顔をあげられない。
涙がこぼれて、しゃくりあげてて、周りにいっぱい人がいてざわついているのがわかった。
はずかしい。けどうれしい。けど──切ない。
「音楽家にとって楽器は命だろう?高崎さんは頑張りやで、一途に音楽が好きで、オーボエが好きで──だから僕らは彼女のことが好きだった。彼女のオーボエが好きだった。なのにそのことがまさか高崎さんをこんな目に合わせるなんて思いもしなかったよ」
伊勢先輩が怒っているところははじめてだった。いつも笑っていて優しい先輩。こんなにも厳しい声を出せるなんて知らなくて、私でさえ怯んだ。直接言われている歌苗が怖くないはずがない。
「だって」
と、彼女がやっと発した言葉はかすれて震えていた。
「まゆは、あたしと一緒にこの学校に入って。あたしと一緒に勉強してきたはずなのに。いつもまゆが上だった。あたしはまゆより音楽を好きになることができなかった。やらされてやってきたフルート、嫌いじゃない、だけど──なんでやってるのかわかんなかった。まゆを見てるとそれがないからうらやましかった。ムカツいた。先輩たちにいっつも誉められてるの知ってたし。それなのに自分に自身が持てないとか言ってて、ふざけんなって思ってた」
わたしは聞きたくなかった。オーボエケースの中身を開けて、楽器が無事かどうか確認しながら、心がずたずたにされていく感覚をやりすごそうとした。むずかしすぎて、体中ががたがた震える。
「あたし、もう今年いっぱいで学校やめるつもりだったし。つまんないから、居ても意味ないって思って、だから、もう何してもいいって思った。まゆが許せなかった、恵まれてるまゆが──」
「──恵まれてるのはお前だろ?」
今までわたしの様子を黙って見下ろしていたらしい瀬川君が、歌苗の言葉がある時点まで来た途端、いきなり彼女に向かって怒りを露にした。
「高崎は与えられた分努力してる。おまえはただうらやましがって騒いでるだけだ。つまんないから学校やめる?ああ、どうぞやめろよ。けどな、続けたくても学校続けられない奴が居るってこと、勉強したくても出来ない奴が居るってこと、考えてみろよ。……音楽を続けたくても続けられない奴がいるんだ」
「カイ」
「最低だ」
吐き捨てて、瀬川君は私を立ち上がらせた。
涙に濡れた視界の向こうに、ひどく醜悪な表情をした歌苗がうつっていた。
伊勢先輩が腕時計を見る。そして言った。
「室内楽、もう始まってる──野村さん。もう行かないといけないんじゃないのかな」
そして、歌苗は、わたしの目の前から消えた。
***
「……ほんとにごめん。」
人通りの少ない廊下へと移動した後、瀬川君は私に謝った。伊勢先輩はもういない。この事態を収拾するため走っていってしまった。
わたしは首を振って、いまだこぼれる涙を拭いた。
「俺は純粋にお前の音楽が好きだったんだ。認めてた。尊敬、するぐらいだったよ。おまえが毎日管棟から一番遅くに帰ってるのとか、よく見てたし。だけどこの学校の教育に苦しんで小さくなってるのも見えた。だからドヴォルザークの舞台を利用してもっと大きくなっていいって伝えようとしたんだよ」
──尊敬。
「それがこんなことになるなんて思わなかった。顔がなんだ、見かけがなんだってんだよな?俺、大事な仲間傷つけるような外見なんて、欲しくもなんともねえよ」
──仲、間。
「……っ」
また涙があふれてきた。ほんとうにこの人は。
すごすぎる。わたしなんかを目に止めていてくれて。そのわたしが小さく上げていた悲鳴を、ちゃんと聞いてくれていた。
「ごめんな。高崎」
「いいよ、もう、いい。」
「だけど俺はもう行かなきゃならない。そのことについても謝る。」
言われた言葉におもわず顔を上げた。瀬川君は、あの眼をしていた。誰よりも愛しい人、恩納さんを見つめるときの眼。
「眼を離せない……ひとがいるんだよ。」
「知ってたよ」
間髪いれずに答えたのは、もう胸がどうしようもなく破裂しそうに痛んでいたからだった。
あのひとがいるから。
恩納さんがいるから。
瀬川君はそんな顔をする。
そんなに申し訳なさそうにあたしに謝る。
スーツの胸ポケットに入ってる、室内楽のパンフレット、その上に。
恩納さんの名前も印刷されてるって、あたしはちゃんと知っていた。
「頑張れ。室内楽。俺も聴きに行くから」
「……うん」
「ごめんな」
「……いいんだ。もう、いい。瀬川君がいたから、あたしは自分のオーボエにちょっとだけ自信が持てるようになった。それと引き換えになくなるものもある。あたりまえだよね」
「お前は、お前自身の力で前に進んだだけだよ」
瀬川君は笑った。
だから私も、そんなことない、と泣き笑いしていた。
そこであ、と気づく。
ふたりして、笑った顔を見るのははじめてだった。
「……はは。なんだ。笑うんじゃん、高崎も」
「……自分でも、忘れてたよ」
最近、色々あったからさ。
笑う余裕なんてどこにもなかった。
わたしは瀬川君の眼をのぞきこんだ。そして言った。
「ありがとう。もう大丈夫。行っていいよ」
「……うん。高崎、」
「ごめんはもういらないよ。好きなひとにそんなに謝られてもうれしくない」
「え」
かち、と瀬川君が硬直するのがおかしかった。わたしは笑って、もう彼より先に行くことにした。
たたっと2・3歩駆け出して、それから振り返る。
「でも、ちょっとだけだよ」
「ちょっと、だけ?」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔の瀬川君に、こう告げて、それから本当に別れた。
「好きだったけど、ちょっとだけ!」
さあ。行かなくちゃ。
この子と一緒に。
吹かなくちゃ。私のオーボエを。
今日も明日もそれから先も、最高の演奏をするよ。




