終わっちゃった。
「高崎ちゃんっ」
「高崎ー!?」
「どこいくのっ!」
走り出していたわたし。
模擬店を飛び出した。グランドは何か騒然としていた。事件が起きているらしい。お向かいのトランペットの店から怒声のようなものが響いてる。
「……っ、自治会長呼んだほうがいいって!!」
「伊勢先輩すぐ来るってよ!」
「こんな騒いじゃったら、音楽祭中止に──」
聞こえない。
何も聞こえなかった。
走って、泣きたくて、怒ってて、憎くて、いろんな感情が喉元まであふれていた。吐き出したかった。返して欲しかった。
あたしの大事なだいじなオーボエ。
「うわっ。……ごめんなさいっ大丈夫!?」
校舎のエントランスで誰かとぶつかった。顔を上げる。かなり焦って厳しい表情をした伊勢先輩だった。よく会うな。っていうか、先輩が学校中を忙しく飛び回ってるだけか。
「──高崎さん?」
体勢を立て直してまた走り出す。
後ろで先輩を呼ぶ声がした。
「ジョージ!」
「カズ?彼女、いったい」
「俺がついてくから、おまえは自治会長の仕事しろ!マリが暴れてお客が混乱しちゃってんのよ、うまく謝っていさめといてくれ!お前の双子だろ!!」
「ああもーマリー!!」
お祭のせいで皆少なからずおかしくなってる。
だからかな、歌苗のしたことは。
だけどあたしは許せない。
もう歌苗のことを許せない。
だって、あたしがオーボエを何より大事に思ってること、一番近くで見てきたのは歌苗だったんだもん。
(ごめんね、まゆ)
あの言葉にはきっと、続きがあった。
(ごめんね、まゆ。こんなくだらないことでキレて。勝手して。ほんとにごめんね。)
だけどあたし。
それでもあたし、あんたを憎むことをやめられないよ。
オーボエがなきゃあたしは飛べない。
あの子はあたしの大事な一部。
返して。返して。
「……歌苗っ……!」
「たーかーさーきーちゃんっ」
おいかけてくるカズ先輩と一緒に、人ごみでごったがえす校舎内を走っていた。
***
室内楽が始まるのは4時15分。今は3時40分。ほんとならもうホールの袖でスタンバイしてなきゃいけない時間帯。だけどできるわけない。あたしには楽器がない。フルート科の部屋に飛び込む。お約束のように誰もいなかった。
「どこ」
涙目になってきた。手足のバランスがとれない。息がうまくできないよ。オーボエがない。
「どこ。あたしのオーボエ」
「……ミズキ!」
カズ先輩がいきなり叫んだ。と思ったら、後からふんわりいい匂いがして、誰かが駆け込んでくる足音がした。振り向いた私はすごい形相をしていたらしい、足音の主らしい小柄な女の子はびっくりしたように大きなおおきな目を見張った。
「ミズキ。お前が止めたっていう後輩は?」
「……それが、見つからなくて。ごめんなさい。あなたがオーボエのひとだよね?ごめん、止められなくてほんとうにごめんなさい」
青緑の目、だった。驚いた。真っ白い肌にほとんどそれと同じような色彩の金色の髪。外人さん。かわいい。めちゃくちゃかわいかった。
「フルート科4年の浅野です。一応リーダーでもあるの。歌苗ちゃん、馬鹿なことしないでって止めたんだけど、音楽祭でフルートの出番多いし、まさかずっと拘束してるわけにもいかなくて……気がついたらいなくなってて、」
「あたしのオーボエがないんです」
歯をくいしばりながら言った。浅野さんという先輩は大ショックを受けた感じでカズ先輩を見上げた。カズ先輩はうなづいた。
「店に置いておいたんだってよ。俺が行った時にはもう遅かった」
「歌苗ちゃんのスケジュールは確か、次が本館小ホールで室内楽……」
知ってる。歌苗本人が言ってた。歌苗は室内楽を一件しか引き受けていなくて、だけど弾けなくてわたしがうらやましいって言ってた。
まゆはいいね。うらやましいくらい音楽バカで。オーボエうまいから。
「……ありがとうございました」
「あ、またそやって一人で行く!待ちなさいって!」
「ほんとついてこなくて大丈夫ですから!」
また走り出す。管棟から本館へはこの階にある渡り廊下を渡ればすぐ。息が切れて苦しい。だけど心はもっと苦しいよ。
カズ先輩がすぐに追いついてきて私の肩をつかんだけど、振り切った。
「たかさきちゃん!」
「いーですってば!」
「いーじゃなくて、誰かいないとキミ、木管の女子ににらまれてんだろ!?何されっかわかったもんじゃねーじゃん!」
「……っ」
正しいことだった。なんでこんな状況になっちゃってるんだろう。ホントわけわかんないよ。皆友達だったんじゃないっけ。入学してからずーっと、いつも一緒だったんじゃないっけ。
あたしってそんなに、憎まれてたのかな。
バタン!と音を立ててホールロビーの扉を開けた。何事だと周囲の視線が集まる。コンサート委員が立ち上がって非難した。
「演奏中です!走らないでくださいっ」
「わりいコンサートスタッフ、緊急事態!」
「え、い、井堀先輩っ?」
ホールの楽屋は二つある。下手と上手。上手は男子が使ってるから下手側に回った。さすがにカズ先輩がひるんで走る速度を落としたのが感じられた。そうそう、それぐらいでいいよ。
こっから先、あたしと奴らの問題なんだから。
ノックなんかもちろんしないで楽屋に駆け込む。木管金管弦楽器、色んな科の女の子たちが本番ようのおめかしをして待っていた。百花繚乱?まさか。こんな奴らにそんな言葉使ってたまるもんか、と思った瞬間、わたしの体を思い切り押しのけて飛び出してきた子がいた。
「──かなえっ!!」
絶叫して追いかける。色んな人の好奇の視線が感じられた。歌苗は黒い楽器ケースを抱いていた。あたしのオーボエケース。
追いかける。
走る。
ロビーを出ていくときにちょうど室内楽のメンバーが入ってくるところだった。沙絵ちゃんと松君。二人ともあたしが衣装に着替えもせず走ってる姿を見てあっけにとられていた。
松くんが私を見てなにかを小さく叫び、スーツのポケットから携帯電話を取り出したというのがわたしの見た最後のシーン。
歌苗を見失わないよう、もうゼイゼイしている息を飲み込んで、痛む脇腹もムシして、人並みの間を縫う。そして階段に差し掛かった時、歌苗がすでに着替えていたことが裏目に出た。
ヒールの足元が、かしいだのだ。
「歌苗ッ」
わずかな間を逃がさず、悲鳴に近い声を上げて彼女の肩を捕まえる。乱れた髪の間から憎悪に燃えた目がわたしを見ていた。そんな目をしてやりたいのはこっちだと思った。
「歌苗ッ、なんでよ、なんでなのよっ!?」
だから、叩いた。
頬を張った。
今の今まで友達だと思っていた、ううん、そうでありたいという希望にすがりついていた人物との縁を、わたしが本当に断ち切った瞬間だった。
「返してよ、あたしのオーボエ、あたしは、あたしは、あたしはあんたのこと──っ」
逃げようと体をよじる歌苗を、乱暴なぐらいの力で押し留める。わたしの手も痛くなった。それくらいの力で。
「──あんたのこと、好きだったのに!!」
髪を引っ張った。少し前ならわたしが結ってあげたりもしていた髪を。服を掴んだ。わたしと一緒に買いに行った服だった。
歌苗。かなえ、かなえ、かなえ。
大好きだった。大事だった。
数え切れないくらいたくさん、隣にいた。笑った。話した。弾いた。なぐさめた。
だけどもう、
「返してよ!」
もう、その日々は戻んない。
終わっちゃった。
彼女は叶わない片思いの悲しみを、苛立ちをぶつける相手としてあたしを選んだ。音楽への愛情と才能を持てない自分自身への憤りを、あたしにぶつけた。
だからあたしも許さない。
「あんたなんか……」
息を吸った。
もう一度頬を張った。歌苗が何か言い返そうとあたしを睨みつけて口を開く前に、あたり一面に響くような声で、言っていた。
「あんたなんか、大ッ嫌いなんだからっ!!」
堪えていた涙がぼろっとこぼれ出すのと、歌苗があたしのオーボエケースを両手にもって高々と振り上げるのは、同時だった。