第16話 生活費で祈るな
チャンネル登録者数百二十万人突破の余波は、俺たちの銀行口座を容赦なく直撃していた。
防音スタジオ化したアパートの作業デスクで、俺は青白いマルチモニターの光を浴びながら、信託銀行の管理画面と睨み合っていた。
画面に並ぶ数字の桁が、もはや個人の預金通帳の領域を遥かに逸脱している。
「おいカノン。今月のスパチャ総額、いくらになってるか知ってるか?」
「ええ、もちろん把握しておりますよ!」
俺の斜め後ろで、白金クッションに正座した聖女が、満面の笑みで胸を張った。
今日も今日とて背後の光輪が煌々と発光し、六畳間を神聖な日光浴スポットへと変貌させている。
「世界中の皆さんが、私たちにお祈りと愛の種を託してくださったのですね。まさに善意の泉、慈悲の結晶です!」
「泉どころかナイアガラの滝だよ! 先週の討論特番のアーカイブだけで、二千万円超えてんだぞ! 税理士の先生が胃薬片手に『黒岩さん、早く一般社団法人を作ってください、さもないと個人事業税で死にます』って泣きついてきたわ!」
俺はポケットから取り出した胃薬を、水なしでボリボリと噛み砕いた。
苦い粉末が喉を通過する。
かつては借金二千万円の返済督促に怯えて胃を痛めていたというのに、今や金の集まりすぎで税金対策に胃を痛めている。人生の難易度設定がおかしい。
「まあ、レイさん。お金とは流れる川のようなもの。困っている迷い子たちへ配れば、川は清らかな海へと注ぎますよ」
「だからその配るための『カノン救済基金』の規約を作ってんだろうが。ったく、誰がケツ拭いてると思ってんだ」
俺はため息をつきながら、アナリティクス画面を詳細ログへと切り替えた。
毎回の配信で寄せられる何万件ものコメントと投げ銭。そのデータをプロデューサーとして精査していた俺の指が、ある一点でピタリと止まった。
「……ん? 待てよ」
画面に映し出されたのは、スーパーチャットのリスナー別ランキングだった。
その最上位に、見慣れたアカウント名が鎮座していた。
――ユーザー名:名無しの子羊。
アイコンは初期設定の灰色の人型。
メッセージ欄は常に無言。
そして投げられている金額は、一回につき五万円――プラットフォームが許容する単発の最高額、通称『赤スパ』だった。
「……またコイツか」
「あら、子羊さん! いつも熱心にお祈りを捧げてくださる、心優しい方ですね」
カノンが嬉しそうに手を合わせる。
だが、俺の胸の奥に冷たいざわめきが広がった。
「優しい? おい、これを見ろ。昨日の夜の雑談枠で五万円を三連投。一昨日のダンジョン配信で四連投。先週一週間だけで……合計八十万円だぞ?」
「まあ! なんて熱心な功徳なのでしょう!」
「功徳で済む額じゃねえんだよ! 資産家の道楽ならまだいい。だが、このアカウントの挙動、どう考えてもおかしい」
底辺探索者時代、俺は金に狂って破滅していった連中を何人も見てきた。
借金を重ね、ギャンブルや酒に溺れ、最後にはダンジョンの浅層で生気のない目をしていた男たち。
その手の人間が放つ、特有の「焦げ付いた匂い」が、この無言の赤スパからプンプン漂っていた。
俺は直感を頼りに、配信プラットフォームと連動しているSNSの検索窓に『名無しの子羊』のアカウントIDを打ち込んだ。
鍵はかかっていない。捨てアカウント同然のタイムラインが画面に表示された。
そこに並んでいたポスト(投稿)の数々に、俺の喉が凍りついた。
『今日も聖女様の配信が見られた。生きててよかった』
『今月も家賃払えなかった。でもカノン様に赤スパ投げたら、配信画面で光の手が揺れた気がした。俺のこと見てくれたのかな』
『街金の限度額、もうあと五万しかない。これ投げたら今月の食費ゼロだけど、聖女様を応援するためなら死んでもいい』
『晩飯は水道水ともやし。腹減ったな。でも光輪見てると温かい』
添付された画像には、薄暗い四畳半の部屋、山積みにされた消費者金融の督促状、そして半分に千切られたコンビニの割引もやしの袋が写っていた。
「……っ」
俺の奥歯がギリリと音を立てた。
見覚えがありすぎた。
かつてカノンに出会う前、俺自身がダンジョンの泥水をすすりながら、明日死ぬ恐怖に怯えていたあの部屋と、寸分違わぬ地獄の光景だった。
「カノン。これを見ろ」
俺がモニターを指差すと、カノンは画面に顔を近づけた。
タイムラインの文字を追うにつれ、いつもの穏やかな微笑みが、すうっと消えていった。
「……この方は、ご自身のお食事を削って……?」
「ああ。削るどころか、借金して命を削ってんだよ。俺たちの配信に五万投げるために、街金で金を借りて、もやし食って震えてんだ」
カノンの金色の瞳が、大きく見開かれた。
その瞳の奥に、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出してきた。
「なんて……なんて切なく、健気な魂なのでしょう……!」
「おい、泣いてる場合か!」
「ご自身が凍えそうな暗闇の中にいるというのに、他者を照らすために、命の灯火を投げ込もうとしている……。自分を愛することすら忘れて、誰かの光になろうとするなんて……!」
カノンは胸の前で両手を固く握りしめ、ポロポロと涙を流しながら震えていた。
サイコパスのように他人の苦痛を嘲笑うのではない。
この女は本気で、この見知らぬリスナーの不器用で歪んだ自己犠牲に、魂の底から胸を痛め、激しく感動しているのだ。
「レイさん! 今すぐこの迷い子さんを抱きしめに行かねばなりません! 光の毛布で包んで、温かい肉まんを百個食べさせます!」
「住所が分からねえよ! それに、問題は肉まんじゃねえ!」
俺はデスクを激しく叩いて立ち上がった。
腹の底から、ドス黒い怒りが煮えたぎっていた。
「俺がキレてんのはな、この配信業界の構造そのものだ!」
「構造、ですか?」
「そうだ! リスナーが生活破綻しようが、借金漬けになろうが、プラットフォームも配信者も『ファンの熱意』の一言で片付けてマージンを抜く! 投げ銭の額でファンの序列を決めて、もっと金を注ぎ込めと煽る! そんな歪んだ承認欲求の搾取の上に成り立つ金なんざ……」
俺は拳を握りしめ、カノンを真正面から見据えた。
「俺たちの救済じゃねえ。絶対に認めねえぞ」
カノンは涙を拭い、神々しい真剣な眼差しで力強く頷いた。
「はい、レイさん。仰る通りです。身を滅ぼす祈りなど、神仏も望みません」
「よし。今すぐ配信枠を立てるぞ」
俺は迷わず配信ソフトを立ち上げ、タイトルの打ち込みを開始した。
「配信するのですか? 何をされるおつもりで?」
「決まってんだろ」
俺はキーボードを叩きつけ、画面に特大のテロップを固定した。
『緊急生配信:【名無しの子羊】さん、今すぐこの配信を見てください』
配信開始ボタンを押す。
登録者百二十万人を抱えるチャンネルの通知が一斉に世界中へ飛び火し、開始わずか三十秒で同接数が十万人を突破した。
コメント欄が驚愕の弾幕で埋め尽くされる。
《え!? なにこのタイトル!?》
《名無しの子羊っていつも赤スパ投げてくれる人じゃん!》
《どうしたの急に!? トラブル!?》
《レイさん顔がマジで怖いんだけど!》
カメラの正面に座った俺は、マイクのゲインをグッと引き上げ、レンズの向こうにいるであろうその男へ向けて、ハッキリと言い放った。
「名無しの子羊さん。お前、今見てるな? ――てめえ、生活費削ってスパチャ投げてんじゃねえぞ!!」
画面越しの公開説教。
全リスナーが凍りつく中、俺とカノンの前代未聞の救済劇が幕を開けた。




