第1話 死に場所で、聖女が微笑んだ
人が死ぬ時ってのは、案外あっけないものらしい。
走馬灯も、人生の反省も、泣ける回想も流れてこない。
あるのは冷たい岩肌の感触と、腹の横に空いた大穴の熱さだけだ。
「……は、っ……」
息を吐くたび、鉄錆の混じった血が喉を焼く。
倒れているのは、都内近郊に新しく発見されたC級ダンジョン、その未踏破区画の通路だった。
湿った灰色の岩肌に青白いコケがぼんやり光っている。
死にかけの人間からすれば、ただただ薄気味悪い墓場にしか見えない。
左の足首は折れて変な方向を向いている。
さっき罠床を踏み抜いた代償だ。
黒岩レイ、二十四歳。職業、底辺探索者。
所属していたパーティは先月クビになった。稼げない、地味、映えない。おまけに配信事故の濡れ衣で炎上し、スポンサーにも見限られた。
残ったのは、探索者向けローン会社からの督促状と、滞納したアパートの家賃だけ。
一発逆転を狙って危険区域へ潜ったなんてのは建前で、要するにただの自棄だった。
死んだら笑ってくれ、なんてタイトルでソロ配信を始めたものの、深部の妨害波であっさり通信は切れた。
最期を誰かに見届けてもらうことすらできない。
「……ほんと、中途半端だな、俺の人生」
かすれた笑いを零した瞬間、通路の奥からぬちゃり、と肉を踏む足音が響いた。
薄暗がりの向こうで、赤く濁った眼が四つ光る。
ゴブリン。さっき俺の脇腹を槍で抉った群れの残党だ。息があるのを確認して、今度こそ肉を喰らいに来たらしい。
手元に剣はない。魔力も空っぽだ。
せめて一思いに殺してくれ、と目を閉じかけたその時だった。
「――まあ」
鈴を転がしたような、場違いに清らかな声が通路に響いた。
「なんて……なんて澄んだ絶望の瞳なのでしょう」
……は?
薄れゆく意識を総動員して、俺は目を開けた。
ゴブリンたちの向こう側。
通路の奥に、ひとりの少女がふわりと降り立っていた。
肩まで波打つ淡い金髪に、白と金を基調とした豪奢な修道服。
華奢な身体つきの背後には、信じられないことに、金色に輝く巨大な円環が浮かんでいた。
発光している。
比喩でも錯覚でもなく、本当に全身から神聖な光を放っていた。
ゴブリンたちが威嚇の唸り声を上げる。
だが少女は怯えるどころか、胸の前でうっとりと手を組んだ。
「素晴らしいです。生きる気力をすり減らし、泥に塗れながらも魂の火を灯し続けている……なんてエモい輝きなのでしょう」
「おい……」
喉から掠れた声を絞り出す。
「逃げろ……そいつら、危険だ……っ」
少女はきょとんと琥珀色の瞳を瞬かせ、それから慈母のような笑みを浮かべた。
「逃げる? いいえ、怖がらなくても大丈夫ですよ」
いやお前が怖がれよ、と突っ込む隙はなかった。
ゴブリンの一匹が跳躍した。
錆びた短刀が、少女の白い首筋めがけて振り下ろされる。
反射的に目を逸らそうとした瞬間、空間が爆ぜた。
少女の背後の円環が眩く回転し、その光の中から、無数の腕が生えたのだ。
腕。
そう表現するしかなかった。
半透明の白金に輝く腕が、視界を埋め尽くすほどの扇状にぶわりと広がった。
「ひ――」
悲鳴を上げたのは、飛びかかったゴブリンの方だったかもしれない。
光の腕の一本が、宙に浮くゴブリンの頬を、ぺちん、と軽くはたいた。
たったそれだけだ。
それだけで、ゴブリンの身体は音もなく金色の粒子へと霧散した。
残りの三匹が怯えて後ずさる。
だが、遅い。
「迷える命に、安らぎを」
少女が微笑みながら呟いた途端、無数の光の腕が流星群のように一斉に伸びた。
ぺちん。ぺちん。ぺちん。
気の抜けるような音が三つ。
断末魔すらなく、モンスターたちは安らかな合掌のポーズを取る暇もなく光になって消滅した。
……なんだ、今の。
野良犬の喧嘩に戦車が突っ込んできたような理不尽さだった。
呆然とする俺の前へ、少女が足音もなく歩み寄り、膝をついた。
ふわりと甘い花の香りが鼻先をくすぐる。
その顔にあるのは作り物の冷たさではなく、本気で他人の痛みを憂う純粋な光だった。
「痛みますか?」
「……そりゃ、穴が空いてるからな」
「つらかったですね。よくここまで耐え抜かれました」
少女が俺の腹の傷へ、そっと両手をかざした。
背後の光輪が優しく揺らめき、温かな光が全身へ降り注ぐ。
じわり、と傷口が熱を持った直後だった。
「……え?」
痛みが、完全に消えた。
破れた服の下を確かめると、抉れていたはずの脇腹の皮膚が、傷跡ひとつなく塞がっている。
変な方向に曲がっていた左足首も、何事もなかったかのように動く。
それどころか、長年の栄養失調や蓄積していた疲労、胃のキリキリした痛みまで綺麗さっぱり消え去っていた。
「な、なんだこれ……!?」
「応急処置です」
「これが応急処置であってたまるか!」
全力で叫んだ後、自分の声がやけにハリに満ちていることに気づく。
少女は嬉しそうにパチパチと拍手した。
「元気なお声が出ましたね。よかったです。申し遅れました、私はカノン。光輪の導師です」
「こうりんの……導師?」
「はい。そして、今日から私があなたを救済します」
「いらねえよそんな重たいサブスク!」
反射的に後ずさろうとした俺の手元から、カノンは地面に転がっていたスマホをすくい上げた。
画面はバキバキに割れ、バッテリーは九パーセント。もちろん圏外だ。
カノンはそのボロスマホを、まるで神聖な秘宝であるかのように胸の前で捧げ持った。
「これが、現代の皆さんを繋ぐ祈りの窓なのですね。先ほど少し拝見しましたが、配信機能があるのでしょう?」
「待て。人のスマホを勝手に神格化するな」
「あなたの魂の尊い旅路を、世界中の迷い子たちと分かち合いましょう」
「おい、やめろ。嫌な予感しかしない」
カノンが目を閉じて祈りを捧げた瞬間、背後の光輪が甲高い音を立てて激しく回転を始めた。
嘘だろ。
電波遮断の未踏破区画だぞ。
なのに、ひび割れた画面に信じられない表示が次々と灯る。
圏外マークが消滅し、アンテナピクトが限界を突破して五本立つ。
見たこともない黄金の回線アイコンが激しく点滅を始めた。
「接続、よし」
「よしじゃねえ!!」
「では、救済の配信を開始いたしましょう」
「待て待て待てぇぇぇ!!」
俺の絶叫を遮るように、深層の闇へけたたましい配信開始ブザーが鳴り響いた。




