1話ミソ、シル?
それは、王女ミューシにとって、生まれて初めての異世界だった。
「……ここが、ニホン……ですの?」
ミューシは、目の前に広がる光景を見つめていた。
石造りの王宮でもなければ、魔法都市の大通りでもない。
高い建物。
見慣れない服を着た人々。
そして、道を走る巨大な鉄の乗り物。
「殿下、どうやら間違いありません。ここが、もう一つの世界です」
「まあ……」
ミューシは青い瞳を輝かせた。
彼女は、異世界にある小国の王女。
古代より王家に伝わる「境界の扉」が、数百年ぶりに開いたことで、護衛の騎士とともに日本へやって来たのだった。
「異世界……」
ミューシは胸の前で手を組んだ。
「なんて素晴らしい響きなのでしょう」
「殿下、まずは周辺の調査を――」
「ええ、分かっていますわ」
そう答えた直後。
ミューシの鼻が、ぴくりと動いた。
「……?」
ふわり。
風に乗って、何かの香りが漂ってくる。
「殿下?」
「……少々、お待ちなさい」
「はい?」
「今、何か……とても良い香りがしませんでした?」
ミューシは周囲を見回した。
そして、少し先にある小さな食堂を見つける。
「…………」
「殿下?」
「……あちらですわ」
「え?」
「行きましょう」
「調査は?」
「食文化の調査ですわ!」
王女は堂々と食堂へ向かった。
◇
「いらっしゃいませ」
店員に案内され、ミューシたちは席についた。
「こちらがメニューです」
「まあ……」
ミューシはメニューを覗き込む。
見慣れない料理の名前が並んでいる。
「焼き魚定食……?」
「ご飯、味噌汁、焼き魚などがセットになった料理です」
「味噌汁……」
ミューシの目が止まった。
「それをお願いしますわ」
「かしこまりました」
しばらくすると、料理が運ばれてきた。
白いご飯。
香ばしく焼かれた魚。
小鉢。
漬物。
そして――湯気の立つ味噌汁。
「……!」
ミューシは言葉を失った。
「これが……日本の食事……」
黄金色の焼き魚。
真っ白なご飯。
そして、温かな味噌汁。
どれも派手ではない。
だが、不思議なほど美しかった。
「では……いただきます」
ミューシは、まず味噌汁を口にした。
「…………」
一瞬。
時が止まったような気がした。
「…………美味しい」
小さな声が漏れる。
「殿下?」
「もう一度……」
ミューシは味噌汁をもう一口飲んだ。
「美味しい……!」
今度ははっきりと声が出た。
「なんですの、これ……!」
両手で椀を持ったまま、ミューシは目を輝かせる。
「温かくて……優しくて……それなのに、とても深い味わい……!」
騎士は困惑した。
「そんなにお気に召しましたか?」
「ええ!」
ミューシは即答した。
「この茶色いスープは、一体何者ですの!?」
「味噌汁です」
「ミソ、シル……?」
その名を、まるで宝物のように呟く。
次に白いご飯を一口。
「!」
またしても、目を見開いた。
「こ、これは……!」
「お米です」
「これがお米……?」
ミューシは、茶碗を両手で大切そうに持った。
「……素晴らしいですわ」
さらに焼き魚。
漬物。
そしてまた味噌汁。
「…………」
ミューシは無言になった。
そして――。
「もう一杯、いただけますか?」
店員が微笑む。
「もちろんですよ」
「ありがとうございますわ!」
その日の昼。
ミューシは結局、味噌汁を三杯飲んだ。
異世界へ戻ったミューシは、父王の前に立った。
「お父様」
「どうだった、日本という国は?」
ミューシは胸を張った。
「素晴らしい国でしたわ」
「ほう」
「そして、ぜひとももう一度訪問したいと思います」
「文化交流が目的か?」
「もちろんですわ」
ミューシは満面の笑みを浮かべた。
「日本の食文化について、もっと学びたいのです」
「食文化?」
「はい」
そしてミューシは、今日覚えたばかりの言葉を口にした。
「まずは……ミソ シルを、我が国でも作ってみたいのです」
父王はしばらく黙っていた。
「……ミューシ」
「はい?」
「お前は昔から、そんなに食いしん坊だったか?」
「失礼ですわ、お父様!」
ミューシは頬を膨らませた。
「これは立派な異文化交流ですもの!」
◇
翌朝。
王宮の厨房。
「料理長!」
「は、はい!」
「これを見てくださいませ」
ミューシは日本で購入したミソを取り出した。
「これを使えば、あのミソ シルが作れますわ」
「味噌……?」
「ええ!」
料理長は困惑しながらも、王女の命令に従う。
そして数時間後。
「……できました」
湯気の立つ椀が、ミューシの前に置かれた。
「まあ!」
ミューシは嬉しそうに笑った。
椀を持つ。
一口飲む。
「…………」
「殿下?」
ミューシは静かに目を閉じた。
「……違いますわ」
「えっ」
「日本でいただいた味とは、何かが違います」
料理長が青ざめる。
「も、申し訳ございません!」
「いえ、料理長のせいではありませんわ」
ミューシは立ち上がった。
そして、強い決意を込めて宣言する。
「もっと日本へ行きましょう」
「殿下?」
「そして、日本の料理を学ぶのです!」
まだ、このときのミューシは知らなかった。
日本と異世界を自由に行き来できるようになった先で――
日本の米を異世界へ持ち帰り。
異世界の食材で和食を作り。
王宮料理人たちを巻き込み。
そして最後には――
「米を持てい!」
などと叫ぶ王女になってしまうことを。
これは。
異世界の王女ミューシが、日本の和食に出会い。
やがて和食の虜となっていく物語。
その最初の一歩である。
「……次は何を食べようかしら」
王女ミューシは、すでに次の日本行きを考えていた。




