タックル「一瞬の勝利」
一応処女作です
読みづらかったらすみません。
内容としてはありきたりなものです、感想等を聞いてみたくなり投稿しました。
楽しんでもらえると幸いです。
高校の運動部などというものは、青春の理想を飾り立てながら、実際には小さな権力の温床でしかない。そこでは「努力」や「絆」といった美辞麗句が氾濫する。だがその言葉が実際に意味するところは、監督の命令への従順と、生徒同士の沈黙の共謀にほかならぬ。
その監督が、ある日、私を呼び寄せた。
「次の試合で、あの選手を潰せ」
潰す。実に簡潔な言葉である。果実にも昆虫にも、そして人間にも、同じ軽さで適用できる便利な一語だ。彼の口調は、机上の埃を払えと命ずるのと寸分変わらなかった。
私は反論できなかった。いや、正確に言えば、反論を「しなかった」のだ。人間というものは、拒絶よりも沈黙に逃げ込む方がずっと容易い。私もまた、その凡庸さの例に漏れなかった。
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試合当日、観客席には「青春」の熱狂が渦巻いていた。だがその熱狂は、結局のところ見世物を求める欲望である。人々は正々堂々の勝負を讃えると同時に、流血や衝突を心の底で渇望している。スポーツという名の合法的暴力に、陶酔したいだけなのだ。
私はその欲望の檻に押し込まれた。監督の視線は命令を繰り返し、仲間の視線は期待を装っていた。いずれも私を鎖のように締めつけた。
そして私は飛び込んだ。狙いを外したふりをしながら、しかし的確に相手の足首を打ち砕くように。相手は倒れ、観客は歓声を上げ、私は石像のごとく凍りついた。人を傷つけた時、歓声と悲鳴と沈黙が同時に降りかかる。その三重奏は、耳に巣食って離れない。
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翌日の新聞は、監督の言葉よりも雄弁であった。「悪質タックル」「スポーツマンシップの欠如」――。記者たちは一斉に義憤を装った。だが私は知っている。彼らは正義を守るために筆を執ったのではない。飯の種を得るためである。記者にとって、私の愚行は格好の糧であった。
学校でも同じ現象が繰り返された。昨日まで肩を叩いていた仲間は、今日には口を閉ざした。人は石を投げる時、必ず群れを作る。そして投げ終わるや否や、無関係の顔をして立ち去る。思えば私も、これまで幾度となく同じことを誰かにしてきたのだろう。
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謝罪会見の日、私は壇上に立った。カメラのレンズは無数の魚眼のように私を睨んでいた。世間とは巨大な水槽に他ならぬのではないかと錯覚する。そこに泳ぐのは監督、仲間、観客、記者、そして私自身。魚は魚を食い、また食われる。それだけのことだ。
「監督の指示でした。しかし、従ったのは私です」
私はそう言った。言葉にすることでしか、人は責任を量れない。だが言葉など紙切れより軽い。謝罪を繰り返すことで、罪が薄まると錯覚する聴衆の方が、むしろ滑稽である。
「怪我をさせた責任は私にあります。それを避けられなかった時点で、私の中の良心はもう働いておりません」
私はそう口にした。言葉は平板で、聴衆の目には誠実さを装ったかもしれない。しかし胸の奥では、別の声が嘲笑していた――。
あの日、踏みつけたのは相手の足首だけではない。もっと脆く、もっと便利なものを私は自ら粉砕したのである。良心という名の骨を。いや、この社会にあっては、それは粉々になって当然の飾り物なのだろう。都合の良い時に掲げられ、邪魔になれば踏み砕かれる。私がしたのは、ただその手本を忠実になぞったにすぎない。
壇上の光と群衆の視線は、私を責めるより先に、その茶番を照らし出していた。人々は私の言葉を待ち望んでいるふりをして、実のところは「謝罪劇」という娯楽を消費しているだけだ。――良心も正義も、所詮ガムのように口の中で溶け、味を失えば吐き捨てられる。
会場は沈黙に包まれた。その沈黙を、私は裁きとも憐れみとも受け取らなかった。ただ一つだけ確かなのは、この社会そのものが、私以上に卑怯なタックルを日々繰り返している、という事実であった。
読んでくれる方がいるのなら、このくらいの短編ものをいくつか投稿しようと思います