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第2話 二つの声、一つの憎悪

 街道に容赦なく降り注ぐ陽射しが、私の影を短く刻んでいる。故郷を離れて三日が過ぎた今、アルカナまでの果てしない道のりを思うと、心の底から重いため息が零れそうになる。


「姉様、お辛そうですが……」


 弟のリュカが、そっと声をかけてくる。彼の瞳に宿る心配の色を見ると、胸がきゅっと締め付けられた。


「平気よ。もう少しだけ歩きましょう」


 そう答えながらも、左腕の聖痕が歩調に合わせて鈍く疼く。特に復讐への憎悪が胸を満たす瞬間、まるで内側から焼き鏝を押し当てられるような激痛が走るのだ。


「ジョアン」


 馬上のローランドが、低い声で名を呼んだ。一頭だけ確保できた馬にまたがる彼の青い瞳が、私の左腕に向けられている。


「その痛み、本当に我慢できるのか?」


 私は無意識に袖の上から聖痕を押さえる。赤い刻印が布地を透かして、ぼんやりと浮き上がって見えた。


「女神様からの恩寵です。この苦しみも含めて、私が受け入れるべき運命なの」


「恩寵?」


 ローランドの眉間に深い皺が刻まれる。


「俺の目には、呪縛としか映らない」


 その言葉に、胸の奥底で炎がぱっと燃え上がった。この男は私の聖なる使命を、私に与えられた神聖な力を否定するというのか。


「呪縛だなんて……」


 声が震えるのを感じる。左腕の疼きが、一層激しくなった。


「この力がなければ、私はラヴァンに立ち向かうことすらできない。村人たちの魂の叫びに応えることもできないのよ」


「復讐だけが全てなのか?」


 ローランドが手綱を引いて馬を止める。その青い瞳に困惑と憂慮が混じり合っていた。


「君の村の人々は、君に血の報復を望んでいるのか?それとも、安らかな眠りを願っているのか?」


「それは……」


 言葉が喉の奥で詰まる。確かに、死んでいった村人たちが本当に何を望んでいるのか、私には分からない。けれど。


「分からないわ。でも、このまま何もしなければ、同じ悲劇が他の場所でも繰り返される。ラヴァンの暴虐を食い止められるのは、私だけなのよ」


「君ひとりで?」


「この聖痕があれば」


 私は左腕を見つめる。赤い刻印が、怒りに呼応するように熱く脈打っていた。


「たったひとりでも充分よ」


 ローランドが深く眉をひそめる。彼は馬から飛び降りると、私の正面に立ち塞がった。


「君のその力は、本当に制御下にあるのか?」


「制御?」


「昨夜も、眠りながら誰かと会話していた。『分からない』『苦しい』と、何度も繰り返し呟いていた」


 その指摘に、心臓が不規則に跳ね上がる。確かに最近、妙な夢を見ることが多い。炎の向こうから誰かが甘い声で語りかけてくるような、そんな夢を。


「疲労が溜まっているだけです」


「本当にそれだけか?」


 ローランドが一歩踏み込んでくる。


「君の力が制御を失った時、周囲にいる俺たちも巻き添えを食う可能性がある。その責任を負う覚悟はあるのか?」


「巻き添えだなんて……」


 私は後ずさりした。彼の言葉が、心の最奥に潜む恐怖を鋭く突いてくる。


「そんなこと、するはずがないじゃない」


「意図しなくても、力は勝手に暴発することがある」


「あなたは私を信頼していないのね」


 声が裂けそうになる。感情が激しく昂ぶると、左腕の痛みが耐え難い限界まで達する。


「私の力を疑って、私の決意を踏みにじって。結局、あなたも他の連中と何も変わらないのね」


「それは違う」


 ローランドが激しく首を振る。


「俺は君を信じている。ただ、その力に呑み込まれてしまうことを恐れているんだ」


「呑み込まれる?」


 笑いが込み上げる。それは、自分でも背筋が寒くなるような、乾ききった笑い声だった。


「私こそがこの力の主人よ。呑み込まれるなど、あり得ない話ね」


 その時、街道の彼方から規則正しい馬蹄の響きが聞こえてきた。私たちは一斉に振り返る。


 白銀の鎧に身を包んだ五人の騎士が、整然とした隊列でこちらに近づいてくる。その胸に刻まれた聖印を目にして、私は息を呑んだ。


 純理教団の騎士たちだった。


「教団の連中か」


 ローランドが警戒の色を浮かべる。彼の手が、本能的に剣の柄に触れた。


「逃げましょう」


 リュカが小さく囁く。しかし、私の足は動かなかった。


「いえ。逃げる必要などないわ」


 左腕の聖痕が激しく疼いている。けれどそれは痛みというより、何か熱いものが内側から押し広げようとするような奇妙な感覚だった。


 騎士たちが近づいてくる。先頭の男が兜を脱ぎ、私たちを見下ろした。


「旅の方々よ」


 男の声は表面上穏やかだったが、どこか機械じかけのような冷たい響きがあった。


「我らは純理教団の騎士、サー・ガブリエルと名乗ります。少々お話を伺いたく」


「何の御用でしょうか?」


 ローランドが前に出る。ガブリエルは彼を一瞥すると、視線を私に向けた。


「そちらの女性にお尋ねしたい。その左腕、何か隠しておられませんか?」


 私の心臓が激しく打ち始める。聖痕の存在を感知されたのか。


「何のことでしょう?」


「とぼけても無意味です」


 ガブリエルが馬から降りる。他の騎士たちも同様に行動した。


「貴女からは、異能の気配が漂っている。しかも、極めて不安定で危険な」


「危険?」


 私の声が震える。それが怒りなのか恐怖なのか、自分でも判然としない。


「私の力が危険だと言うの?」


「感情に支配された異能は、世界の秩序を破綻させます」


 ガブリエルの表情が厳格なものに変わる。


「大司教ラヴァン様の御教えによれば、そのような力は浄化されねばなりません」


「浄化?」


「感情を除去し、理性的な力へと変換するのです。そうすれば、貴女も苦悩から解放される」


 その言葉に、血液が逆流した。この男は私の痛みを、私の想いを、除去すべき汚染物質だと言うのか。


「私の感情を、汚染物質だと言うの?」


「汚染物質ではありません」


 ガブリエルが首を振る。


「ただ、非効率的で、混乱を招くだけの不要物です。貴女も理性的になれば、きっと世界がより美麗に見えるはずです」


「美麗?」


 私は笑った。それは、憎悪に満ちた、氷のような笑い声だった。


「感情を失った世界のどこが美麗なの?愛も憤りも悲哀もない、人形のような人間たちの世界が?」


「その通りです」


 ガブリエルが頷く。彼の表情には、本当に美しいものを見るような陶酔が浮かんでいた。


「争いも憎悪もない、完全に秩序立った世界。それこそが、人類の到達すべき理想郷です」


「狂ってる」


 私は呟く。左腕の痛みが、限界を突破しようとしていた。


「あなたたちは正気を失っている。感情こそが人間らしさの証なのに、それを否定するなんて」


「正気を失っているのは貴女の方です」


 ガブリエルが一歩前に出る。


「その腕の力、制御できていないでしょう?時折暴発して、周囲に損害を与えているのでは?」


 その指摘に、私は言葉を失う。確かに、力は時々勝手に発動する。そして、抑制しきれないことも。


「さあ、我々と共に参りましょう」


 ガブリエルが手を差し伸べる。


「ラヴァン様の御下で、その危険な力を安全なものに変えましょう」


「お断りします」


 私はきっぱりと答えた。


「私の力を否定する者たちの言葉など、聞く価値もありません」


「拒絶は許されません」


 ガブリエルの表情が一変する。


「感情に支配された異能者は、社会の害毒です。力ずくでも連行します」


 騎士たちが一斉に剣を抜いた。私は袖をまくり上げる。


「害毒ですって?」


 赤い聖痕が露わになる。それは脈打ち、まるで生きた蛇のように蠢いていた。


「この力こそが、あなたたちの偽善を暴く真実の光よ」


 聖痕から光が放たれる。しかし、それは以前とは異質だった。温かな女神の光ではなく、もっと激しい、燃えるような深紅の輝き。


 その瞬間、頭の中で何かが囁いた。


「そうだ、ジョアン。その憤怒を解き放て」


 聞き覚えのない声だった。けれど、なぜか懐かしさを感じる。女神は沈黙を続けているのに、この声だけは私の孤独と憎悪を『正しい』と言ってくれる。


「お前の憎悪こそが、最も純粋な正義だ」


「正義」


 私は呟く。そうだ。これは正義の戦いなのだ。


 聖痕の疼きが、一瞬だけ心地よい熱に変わる。いけないと分かっているのに、この声に身を委ねたくなる背徳的な快感が全身を駆け抜けた。


「やはり」


 ガブリエルが後ずさる。


「邪悪な力だ。皆、注意しろ。この女は悪魔に魅入られている」


「悪魔?」


 私は笑う。


「結構じゃない。悪魔の力でも、あなたたちを打ち倒せれば充分よ」


「ジョアン!」


 ローランドが制止の声を上げる。しかし、もう遅い。


 私は右手を振り上げた。見えない力の奔流が放たれ、最も近くにいた騎士が宙に舞い上がって樹木に激突する。


「きゃあ!」


 リュカが悲鳴を上げた。けれど、私の耳には届かない。


 世界がスローモーションに見える。敵がひどく矮小に感じる。憎しみが力に変換される全能感に、私は酔いしれていた。これだ、この力が欲しかった。


「化け物め!」


 ガブリエルが剣を構える。しかし、私にはもう恐怖などなかった。


「化け物はあなたたちの方よ」


 私は彼に向かって歩いていく。左腕の痛みは既に消えている。代わりに、計り知れない力が体中を駆け巡っていた。


「感情を殺害し、人の心を理解しようとしない。人形のような存在になって、それで幸福だと言い張る」


 ガブリエルが剣を振り下ろす。しかし、私が手を上げると、剣は途中で静止した。見えない力で受け止めているのだ。


「そんなあなたたちに」


 私は力を込める。ガブリエルの剣が粉々に砕け散る。


「この世界を支配させるわけにはいかない」


 その時、まるで他人事のように冷静な自分が、自分の行いを客観視していることに気づいた。私の腕が、あり得ない方向に曲がっている。私の口から、獣のような咆哮が漏れている。


「ジョアン、やめろ!」


 ローランドの声が聞こえる。しかし、なぜ彼は私を阻止しようとするのか。


「邪魔をしないで」


 私は振り返る。ローランドが青ざめた顔で私を見つめていた。


「君のやっていることは、正義じゃない」


「正義よ」


 私は答える。


「悪を打ち倒すことの、どこが間違っているの?」


「君は彼らを殺害しようとしている」


「当然じゃない」


 私の口から、氷のような言葉が溢れ出る。


「私の村の人たちを殺害した者たちの仲間なのだから」


 彼の青い瞳に、かつて自分が守れなかった誰かの面影が映っているのを私は見た。また同じ過ちを繰り返すのか、今度こそ手を伸ばさなければ、という彼の過去の罪と後悔が滲み出ている。


「だからといって」


「黙りなさい!」


 私は叫んだ。その瞬間、制御を失った力が爆発した。


 赤い光が四方八方に散らばり、樹木を薙ぎ倒していく。ガブリエルたち騎士が吹き飛ばされる。


 そして。


「うわあああ!」


 リュカの悲鳴が響いた。


 それまで満ちていた力の感覚が、まるで栓を抜かれたように一瞬で消え去った。熱狂が冷め、耳鳴りと心臓の鼓動だけが響く。世界の色彩が失われ、モノクロに見えた。


 私は振り返る。弟が倒れていた。爆発に巻き込まれて、意識を失っている。


「リュカ!」


 我に返る。私は何をしてしまったのか。


「リュカ、しっかりして!」


 弟の傍に駆け寄る。幸い、命に別状はないようだが、左腕に火傷を負っていた。


 たった今まで万能だと思っていた自分の手が、弟を傷つけた「凶器」として、おぞましく、汚れたものに見える。自分の体の一部でありながら、全くの別物のように感じられる恐怖が私を襲った。


「君の力が」


 ローランドが近づいてくる。その顔に、複雑な表情が浮かんでいた。


「暴走したんだ」


「私は」


 言葉が出ない。確かに、私は力を制御できなかった。そして、大切な弟を傷つけてしまった。


「これが、君の正義か?」


 ローランドの言葉が、胸に突き刺さる。


「仲間を巻き込んでまで、敵を打ち倒すことが?」


 私は俯く。手が震えている。


「私は、そんなつもりじゃ」


「だが、現実には起きてしまった」


 ローランドがリュカを抱き上げる。


「この子を、安全な場所に運ぼう」


 彼は私を見ない。その態度が、私の心をえぐる。


「ローランド、私は」


「今は何も言うな」


 彼の声が凍り付いている。


「君の力の危険性が、これではっきりした」


 私は立ち上がる。辺りを見回すと、騎士たちが呻き声を上げながら起き上がろうとしていた。幸い、死者は出ていないようだ。


「逃げよう」


 私は小さく呟く。


「このままでは、また」


「その通りだ」


 ローランドが頷く。しかし、その表情に温もりはなかった。


 私たちは急いでその場を後にした。リュカを気遣いながら、街道を外れて森の中に入る。


 ◇


 夜が更けた頃、私たちは小さな洞窟で休息を取った。リュカは意識を取り戻していたが、左腕の痛みで苦しんでいる。


「ごめんね、リュカ」


 私は弟の傍に座る。


「私のせいで、怪我をさせてしまって」


「大丈夫です、姉上」


 リュカが微笑む。しかし、その笑顔に影が差しているのが分かった。


「でも、お姉さんの力、少し怖かった」


 その言葉に、胸が締め付けられる。


「もう、あんな風にはならないから」


「本当?」


「本当よ」


 しかし、自分でもその約束を守れるか分からない。


 ローランドが洞窟の入り口で見張りをしている。彼は私と目を合わせようとしない。


「ローランド」


 私は彼に近づく。


「さっきは、ありがとう。リュカを助けてくれて」


「当然のことだ」


 彼は答える。しかし、その声に感情は籠もっていない。


「君の力について、話さないか?」


「話すって?」


「本当に制御できているのか?今日のような暴走は、初回ではないだろう」


 その指摘に、私は黙り込む。確かに、力は時々勝手に発動する。感情が高ぶった時、特に。


「制御の方法が、分からないの」


 正直に答える。


「この力がどこから来るのか、どうすれば安全に使えるのか、何も分からない」


「女神の奇跡ではないのか?」


「分からない」


 私は左腕を見下ろす。聖痕が微かに光っている。


「祈りを捧げても、女神様は何も教えてくれない。ただ、この痛みと力だけが、いつもそばにある」


 その時、心の奥底で妖しい声が囁いた。


『女神など所詮は沈黙の偶像よ、ジョアン。お前の心を真に理解するのは、この私だけだ』


 私は身震いする。あの声が、また。


「その力で、本当にラヴァンを打ち倒すつもりか?」


「他に方法がない」


 私は答える。


「この力がなければ、私はただの農村娘よ。大司教に立ち向かうことなんてできない」


「だが、その力は君自身を──」


「燃やし尽くす?」


 私はローランドの言葉を先取りする。


「そうかもしれないわね。でも、それでもいい」


「いいだと?」


 ローランドが振り返る。その青い瞳に、憤りが燃えていた。


「君が死んでしまったら、何の意味もないじゃないか」


「意味はあるわ」


 私は立ち上がる。


「私が死んでも、誰かが後を継いでくれる。この世界を変えるために」


「君ひとりの犠牲で、世界が変わるとでも思っているのか?」


「思っているわ」


「傲慢だ」


 ローランドの声が震えた。


「君は自分を過大評価している。世界は、君が思っているほど単純じゃない」


 その言葉に、憤りが込み上げる。しかし、今度は力を暴走させないよう、必死に堪える。一度目の人生で、善意や心配を装った人々に裏切られたトラウマがフラッシュバックする。あなたも、結局は私を『異質なもの』として遠ざけるのね、という絶望感が胸を満たした。


「なら、あなたに何ができるの?」


「俺には特別な力はない」


 ローランドが答える。


「だが、君を支えることはできる。君ひとりで背負う必要はないんだ」


「支える?」


 私は笑う。


「今日だって、あなたは私を阻止しようとした。それのどこが支えることなの?」


「君が間違った道に進まないよう、軌道修正するのも支えることだ」


「間違った道?」


 私の声が上ずる。


「私の復讐が間違っているというの?」


「復讐自体は否定しない」


 ローランドが一歩近づく。


 彼の内面では、かつて力を暴走させて悲劇を生んだ誰かの姿を思い浮かべているのが分かった。また同じ過ちを繰り返すのか、今度こそ手を伸ばさなければ、という彼の過去の罪と後悔が滲み出ている。


「だが、その過程で無関係な人を巻き込んだり、大切な仲間を傷つけたりするのは間違っている」


「無関係?」


 私は首を振る。


「あの騎士たちは無関係じゃない。ラヴァンの手下よ。私の敵なの」


「だからといって、殺害していい理由にはならない」


「甘いのよ、あなたは」


 私は吐き捨てる。


「敵を生かしておけば、また同じことが繰り返される。完全に打ち倒さなければ、意味がない」


「それは」


 ローランドが言いかけた時、洞窟の奥からリュカの声が聞こえた。


「お姉さん、ローランドさん。喧嘩しないでください」


 私たちは振り返る。リュカが心配そうに私たちを見つめていた。


「僕のせいで、仲が悪くなっちゃいました?」


「違うよ、リュカ」


 私は慌てて弟の元に行く。


「私たちは喧嘩なんて──」


「していますよ、実際」


 リュカが小さく笑う。


「お姉さん、怒った顔しています。ローランドさんもです」


 その指摘に、私は自分の表情を意識する。確かに、眉間に皺が寄っていた。


「ごめんね。心配させて」


「姉上」


 リュカが私の手を握った。


「お姉さんの力、確かに怖いけど、でも僕が知っている姉上は悪い人じゃないです」


「リュカ」


「だから、その力で誰かを傷つけるのは、やめてください。お姉さんらしくない」


 弟の言葉が、胸の奥深くまで染み渡る。確かに、私は変わってしまった。復讐への想いが、私を別人にしてしまったのか。


「私らしさって、何だろう」


 私は呟く。


「昔の私は、どんな人だったかしら」


「優しい人だった」


 ローランドが答える。私は振り返る。


「え?」


「君と初めて会った時、村の人々を守るために必死になっていた。自分のことよりも、他人のことを考える、慈愛深い人だった」


「でも、今は──」


「今でも、根本は変わっていない」


 ローランドが近づいてくる。


「ただ、その慈愛が、憤怒に覆い隠されているだけだ」


「憤怒」


 私は左腕を見下ろす。聖痕が、微かに疼いている。


「この憤怒が、私の力の源なのかしら」


「かもしれない」


 ローランドが頷く。


「だが、憤怒だけでは、君の望む世界は作れない」


「じゃあ、何が必要なの?」


「愛だ」


 即座に答えが返ってくる。私は目を見開いた。


「愛?」


「そうだ。他人を思いやる心、守りたいものへの愛情。それがなければ、ただの破壊者になってしまう」


「私に、そんなものが残っているかしら」


「ある」


 ローランドが断言する。


「君がリュカを心配する気持ち、村の人々への想い。それらは全て愛だ」


 その言葉に、心の奥で何かが動く。確かに、私の行動の根底には、大切なものを守りたいという想いがある。


「でも、その愛が、憤怒に変わってしまった」


「変わったのではない」


 ローランドが首を振る。


「愛があるからこそ、それを奪われた時に憤怒が生まれる。憤怒は愛の裏返しなんだ」


「愛の裏返し」


 私は呟く。なるほど、そう考えれば理解できる。


「なら、この憤怒を、再び愛に戻すことはできるの?」


「できる」


 ローランドが微笑む。怒りでも、冷酷さでもない、愛する者に死を宣告するような深い悲しみと覚悟に満ちた表情だった。


「ただし、君ひとりでは困難だろう。誰かの『支え』が必要だ」


「『支え』──」


 私は彼を見上げる。


「あなたが、支えてくれるの?」


「無論だ」


 ローランドが頷く。


「君をひとりにはさせない。どんなに危険でも、最後まで側にいる」


 その言葉に、胸が温かくなる。今まで感じたことのない、安心感に包まれた。


「ありがとう」


 私は小さく呟く。


「でも、今日みたいに暴走したらどうする?」


「その時は、俺が止める」


 ローランドが断言する。そのセリフを言う時の彼の表情には、怒りでも冷酷さでもない、愛する者に死を宣告するような深い悲しみと覚悟が宿っていた。


「君を傷つけることになっても、仲間を守るためなら、俺は君と戦う」


「戦う?」


「そうだ。君の敵になることもある」


 その覚悟の重さに、私は言葉を失った。それは単なる脅しではなく、彼なりの究極の信頼の形であり、愛の告白に等しいものだった。君が君でなくなるくらいなら、その魂が汚れる前に、俺が罪を背負って終わらせてやる。そんな歪んでいるが最も誠実な愛情の形だった。


「分かったわ」


 私は頷く。


「もし私が道を外れそうになったら、遠慮なく止めて」


「約束する」


 ローランドが手を差し伸べる。私はその手を握った。


 彼の手は温かく、力強い。この手なら、私を支えてくれるかもしれない。


「でも、復讐は諦めない」


 私は付け加える。


「ラヴァンは必ず打ち倒す。ただし、今度はひとりじゃない」


「そうだ。俺たちがいる」


 ローランドが微笑む。


「三人で力を合わせれば、きっと道は見つかる」


 私は左腕を見下ろす。聖痕の光が、以前より穏やかになったような気がした。


 憤怒は消えていない。しかし、それだけではなくなった。愛も、希望も、この胸の中にある。


 心の奥底で、あの妖しい声がまだ囁いている。


『愛など脆弱なものよ、ジョアン。結局は君を裏切る』


 けれど今は、その声に耳を貸す気になれなかった。ローランドとリュカの存在が、闇の囁きを遠ざけてくれる。


「明日からは、仲間を探しましょう」


 私は二人を見回す。


「私たちだけでは、限界がある。もっと多くの仲間が必要よ」


「どんな仲間だ?」


「分からない。でも、きっと見つかる」


 私は微笑む。


「この世界には、ラヴァンの思想に反対する人たちがいるはず。そういう人たちと手を組みましょう」


「危険な道のりになるぞ」


 ローランドが警告する。


「覚悟はできている?」


「もちろん」


 私は力強く頷く。


「私は聖女よ。この世界を救うために生まれてきたの」


「聖女」


 ローランドが呟く。


「その名前に恥じない行いをしなければな」


「ええ」


 私は左腕を見下ろす。聖痕が温かく光っている。


 この力を、破壊ではなく救済のために使おう。憎悪ではなく愛のために。


 心の奥で、悪魔の声がまだ響いている。けれど同時に、別の声も聞こえ始めていた。村人たちの、穏やかな祈りの声が。


 彼らは復讐を望んでいるのか、それとも安らぎを求めているのか。


 その答えは、まだ分からない。けれど、きっと仲間たちと一緒なら、真実にたどり着けるはずだ。


 聖女は二度、焼かれる。


 一度目は憎しみに、二度目は愛に。


 しかし、二度目の炎は、破滅ではなく再生をもたらすものかもしれない。


 私は仲間たちと共に、新しい未来への第一歩を踏み出した。洞窟の外で、夜風が穏やかに吹いている。明日からの困難な旅路を予感させながらも、どこか希望に満ちた風だった。


「姉上」


 リュカが小さく呼びかける。


「なあに?」


「今のお姉さんの顔、昔みたいに優しく映っていますよ」


 その言葉に、私は微笑んだ。本当の微笑みを、久しぶりに浮かべることができた。憤怒と愛、破壊と救済、孤独と絆。相反するものが胸の中で渦巻いているけれど、もうそれを恐れることはない。


 仲間がいるから。支えてくれる人がいるから。


 私は、私らしく生きていけるはずだ。

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