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第1話 炎に焼かれた聖女の誕生

 熱は、獣だった。


 火刑台の下、積み上げられた薪の山から放たれたそれは、まず足首に牙を立て、皮膚を裂き、肉を喰らう。杭を伝う灼熱が背骨を駆け上がり、内側から臓腑を沸騰させる。それは単なる痛みではなかった。私の身体という器が、魂ごと煮え溶けていく液状の絶望だ。


 神聖であるはずの乳香と、儀式用の干し薪が放つ清浄な香り。その下に、ねっとりと絡みつく異臭があった。祝祭で焼かれる豚の丸焼きにも似た、獣じみた甘さ。その奥に混じるのは、決して知ってはならなかったはずの、私自身の肉が焦げる酸っぱい臭気だ。


 皮膚が乾いた羊皮紙のように裂け、じゅ、と音を立てて脂肪が融け落ちていく。


 薪が甲高く爆ぜ、私の髪が燃え尽きる音。かつて私を英雄と讃えた民衆の、今は狂信に満ちた歓声が地獄の合唱のように響く。その只中で、熱気に歪む視界の先、あの男だけが佇んでいた。まるで哲学者が見事な数式を眺めるように、静謐な瞳でこの地獄を是としている。大司教の法衣に身を包んだその横顔は、昨日まで私を「聖女」と崇めていた時と寸分違わない。


「神よ」


 煙に焼かれ、ひび割れた唇から血の味が混じる息が漏れた。



「なぜ、あなたの奇跡は沈黙するのですか」


 かつて私の耳元で囁いたはずの女神は、今は鉛のような沈黙で応えるだけだった。


 思考が熱で沸騰し、溶けていく。故郷の丘も、母の笑顔も、仲間との誓いも、大切な記憶が次々と灰燼に帰す中で、ただ一つ、あの男への憎悪だけが、灼熱の中で冷え固まる黒曜石のように、鋭く、硬く、結晶を成した。


 その地獄の様相は、やがて内側から変貌を遂げる。


 最初に、音が遠ざかった。次に、光が裏切った。もはや、匂いも味も意味をなさなかった。音も、光も、匂いも、味も失った暗黒の無音世界で、ただ一つ、灼熱の痛みだけが、私とこの世を繋ぎとめていた。


 そしてついに、その最後の絆すらも、ぷつりと断ち切れる。


 全ての感覚が剥がれ落ちた時。肉体という檻から解き放たれた私の意識の中で、たった一つだけが、残った。それは感情ではなかった。もっと純粋で、もっと根源的な、魂の核。熱では溶けず、灰にもならず、感覚の喪失と共に、むしろその輪郭を研ぎ澄ますものに近い。


 憎悪。


 私という存在の全てが、その一言へと収斂する。


 世界から切り離され、ただの「憎しみ」という概念に成り果てた私の脳裏に、最後の光景が焼き付いていた。静謐な瞳でこの地獄を是としていた、あの男の横顔が魂に切り刻まれる。


「ラヴァン……」


 もはや声ではない。肺に残った最後の空気を、この汚れた煙と共に燃やし尽くし、魂そのものを削って、私はその名を呪詛として吐き出した。


「この臭気を、この苦痛を、お前の喉元に焼き付けてやる……」


 業火が臓腑を喰らい尽くす、その刹那――


「はっ!」


 私は跳ね起きた。粗い麻布が汗にまみれて肌に纏わりつき、心臓が胸の内で踊り狂っている。またあの悪夢だった。夜ごと私を苛む、灼熱の記憶だ。


「姉上?」


 か細い声が隣から漏れてきた。振り向くと、十四歳になったばかりの弟が、熱に浮かされた瞳でこちらを見つめている。頬は火照りで朱に染まり、額には真珠のような汗の粒が浮かんでいた。


「心配いらないわ、リュカ」


 私は慌てて右腕を袖に隠した。そこには悪夢の記憶と共に浮かび上がった奇怪な痣――聖痕と呼ぶべき印が、薄紅色に仄かな光を放っていた。


 この印が現れてから、あの夢に魘される回数が増している。まるで何かが私を呼び寄せているように。あるいは、遠い昔の私が、甦ろうとしているかのように。


「また熱が上がっているわね……」


 私はリュカの額に掌を当てた。昨夜よりも明らかに熱い。このまま放置すれば本当に危険かもしれない。


「薬草を採ってくるから、横になっていて」


「姉上こそ、血の気が引いていますよ」


 リュカは咳き込みながら答えた。その咳は胸の奥底から絞り出すような、聞くに堪えない響きだった。


「無茶をしてはいけません……」


「馬鹿を言わないの」


 私は作り笑いを浮かべた。だが、鏡があれば分かっただろう。その笑顔がどれほど歪んでいるか。


「私はあなたの姉なのよ。あなたを護るのが私の務め」


 干し草を詰めただけの粗末な寝床から身を起こし、壁に立てかけてあった鎌を掴む。本来は麦を刈るための農具だが、森で薬草を摘む時の護身用でもあった。


 この辺りに魔物は出ないが、野犬や山賊の脅威はある。母がそう教えてくれた。母も父も疫病で亡くした今、私たちには頼る人がいない。


「行ってくるわ」


 私は戸口で振り返った。リュカは既に瞼を閉じていたが、荒々しい息遣いが小さな胸を上下させている。


 彼だけは失うわけにはいかない。この世で最後に残った、掛け替えのない家族なのだから。


 エリリア村の朝は、いつものように静寂に包まれていた。石造りの小さな家々が肩を寄せ合うように軒を連ね、煙突から立ち上る炊事の煙だけが、人々の営みを証している。


 村の中央には、女神エルヴィアを祀った質素な神殿があった。私たちのような辺境の村では、立派な司祭などいない。村長のジョゼフ爺さんが見よう見まねで祈りを捧げているだけだ。


 それでも、村人たちは毎朝その前を通る時、軽く頭を垂れる。女神への感謝と、一日の無事を願って。


「おや、ジョアンちゃん。今朝も早いのね」


 パン屋のマリアおばさんが、店先で声をかけてきた。丸い顔に浮かぶ笑みは、まるで陽光のように暖かい。


「おはようございます、マリアさん。リュカの薬草を採りに」


「あの子、まだ熱が下がらないの?案じているのよ」


 マリアおばさんは眉根を寄せた。その表情に、本物の心配が滲んでいる。


「街の医者に診せた方がよくはない?」


「お金がないんです」


 私は苦い笑いを浮かべた。正直に言うしかない。


「薬草でどうにかするより他には……」


「そうね……」


 マリアおばさんは申し訳なさそうに俯いた。彼女だって、決して豊かではない。それでも、いつも私たちを気にかけてくれる。


「後で、焼きたてのパンを持参するから。栄養をつけなくては」


「ありがとうございます」


 私は深々と頭を下げて、村はずれの森へ足を向けた。


 マリアおばさんのような人がいるから、この村での暮らしも悪くない。母が生前よく口にしていた言葉を思い出す。


「人は独りでは生きられないの。だから互いに支え合うのよ、ジョアン」


 母の優しい声が、背中を押す風のように、私を森へと誘った。


 森へ一歩踏み入れた途端、空気が変わった。陽光を遮る木々の葉が、世界から彩度を奪っていく。……いや、変わったのは私の方だった。


 袖の下で、右腕の聖痕が、まるで第二の心臓のように微かな熱を帯びて脈打ち始める。それは何かの前触れだった。獣が嵐の気配を察するように、私の魂のどこかが、まだ見えぬ脅威に粟立っていた。


 胸の内で、漠然とした不安が蠢いていた。


 薬草摘みは滞りなく進んだ。リュカの熱を下げるセージ、咳を鎮めるタイム、体力回復に効くエキナセア。母から受け継いだ知識を頼りに、必要な分だけを丹念に採取していく。


 その一つ一つが、母が遺してくれた知識であり、祈りそのものだった。土に触れ、葉を摘む。その丹念な仕草の一つ一つに、自然への感謝と、弟の平癒を願う想いを込めた。


「これだけあれば充分ね」


 籠いっぱいになった薬草を確かめていた時だった。


 遠くから太鼓の音が響いてきた。


 村の警鐘だった。


 何事が起こったのか。私は慌てて立ち上がり、村に向かって駆け出した。足音が森の静寂を破って木霊する。


 森を抜けた瞬間、私は息を呑んだ。


 村の様子が激変していた。黒い煙が数箇所から立ち昇り、住民たちの悲鳴と怒号が大気を切り裂いている。


 そして村の入り口には――


「紅のヴェール教団……」


 血のように紅い外套を纏った兵士たちが、整然と隊列を成して村に侵入していく。胸には剣と天秤を組み合わせた紋章。聖浄軍の印だった。


「理性なき祈りは虚しき響きなり!」


 隊長と思しき男が、村の中央で声を張り上げていた。神殿の前に仁王立ちになり、怯える住民たちを見下ろしている。


「感情に惑わされた愚かな信仰は、この世から根絶されねばならぬ!我らが大司教ラヴァン様の教えに従い、真の秩序をもたらすのだ!」


 住民たちは身を寄せ合って震えていた。


 ジョゼフ爺さんが前に出て、掠れた声で抗議する。


「何の権限があって……我々の村を……」


 隊長の剣が一閃した。


 ジョゼフ爺さんの身体が、血飛沫と共に地面に崩れ落ちる。


「ひいいいいい!」


 マリアおばさんの絶叫が響いた。兵士の一人が、彼女の店に松明を投げ込んだのだ。


 乾いた木材が瞬く間に燃え上がり、いつものパンの芳香が焦げ臭い煙に変わっていく。マリアおばさんが店から飛び出してきた。顔は煤で汚れ、エプロンの端が焦げている。


「やめて!頼む、やめて!」


 彼女は兵士にすがりついた。だが、兵士は冷酷に彼女を突き飛ばす。マリアおばさんは石畳に倒れ、膝を擦りむいて血を流した。


 私は身動きできなかった。


 足が竹竿のように震え、心臓が喉元まで迫り上がってくる。これは現実なのか。それとも、また悪い夢を見ているのか。


「リュカ……」


 弟の顔が脳裏に浮かんだ。私は身を屈めて、自分たちの家に向かおうとした。リュカを連れて、この場から逃げなければ。


 だが、既に遅かった。


「ここにもいたぞ!」


 兵士の一人が、私たちの家から出てきた。そして、その腕の中には――


「姉上!」


 リュカが懸命に叫んでいる。兵士は彼の首筋を掴んで持ち上げ、まるで荷物でも扱うように乱暴に揺さぶった。


「やめて!」


 私は思わず声を上げた。その瞬間、隊長と兵士たちの視線が一斉にこちらを向く。


「ほう、隠れていた鼠がいたか」


 隊長は興味深そうに私を舐めるように見詰めた。


「年頃の娘だな。売り捌けば良い金になりそうだ」


「姉上、逃げて!」


 リュカが叫んだ瞬間、兵士が彼の頬を平手で殴った。リュカの小さな身体が宙に舞い、地面に叩きつけられる。


「リュカ!」


 私は駆け寄ろうとしたが、別の兵士が剣を抜いて立ち塞がった。


「動くな、小娘」


 兵士は薄笑いを浮かべている。


「大人しくしていれば、痛い思いはさせてやらん」


 リュカが兵士の足蹴にされていた。病弱な身体で、それでも必死に私を庇おうとしているのが分かる。口から血を吐きながらも、「姉上」と呟き続けている。


「やめて……お願い……やめて……」


 私は跪いて懇願した。だが、兵士たちは冷酷に嗤うだけだった。


「祈りとは、なんと無力なものか」


 隊長が近づいてきた。その足音ひとつひとつが、私の心臓を締め上げる。


「その証拠を見せてやろう」


 彼の剣が、夕陽を捉え、血の雫を滴らせるように紅く光った。リュカの命を刈り取るその刃が、振り下ろされる。


「やめてええええええ!」


 私の絶叫が、鍵だった。魂の奥深くで、何かが砕け散る。


 右腕が爆ぜた。白熱の激痛。聖痕が真紅の太陽のように輝き、皮膚を内側から焼き尽くす。聖痕が真紅の太陽のように輝き、皮膚を内側から焼き尽くす。それは単なる烙印ではなかった。私の魂に、まったく別の現実を焼き付ける劫罰だった。


 ――それは記憶ではなかった。奔流だった。


 幾千の戦場。骨まで響く、刃を弾く衝撃。口内に広がる鉄の味。額に感じる、幻の兜の重さ。斬って、斬られて、祈って、裏切られた、一人の女の全生涯が、一瞬にして私という矮小な器に叩き込まれる。


 これは私の知識ではない。誰かが、私に授けてくれているのだ。遠い昔、確かに私が身につけていた技術を。


 私は立ち上がった。


 手に持った鎌が、まるで生き物のように自然に構えられる。兵士の剣筋が、まるで停止して見えるほど緩慢に動いて見えた。


「小娘、何をするつもりだ?」


 兵士が警戒の色を浮かべる。だが、もう遅い。


 私は地面を蹴った。鎌の刃が兵士の咽喉を掠め、一筋の血線を引く。彼は驚愕の表情を浮かべたまま、地面に崩れ落ちた。


「馬鹿な……」


 隊長が呟いた。その声は震えていた。


「素人の小娘が、我が軍の精鋭を……」


 私は振り返った。その瞬間、隊長の顔が別の男の顔と重なって見えた。慈悲深い微笑みを浮かべながら、私を火刑に処したあの男――ラヴァン。


「あなたは……」


 私は低い声で呟いた。憤怒が血管を駆け巡る。


「あの男の手先なのね」


「あの男だと?」


 隊長は眉をひそめた。だが、その瞳に宿った恐怖は隠しきれない。


「大司教ラヴァン様への不敬は許さんぞ」


 ラヴァン。やはりその名前だった。私の記憶にある裏切り者と同じ名前。これは偶然なのか、それとも――


「リュカ、下がって」


 私は弟に命じた。彼は怯えながらも、家の陰に身を隠す。血の筋を口元に作りながら、それでも私を信じる瞳で見詰めていた。


「一人で何ができる」


 隊長は剣を構えた。だが、その構えには迷いがあった。


「所詮は農民の小娘よ」


 隊長が獣のように咆哮し、突進してきた。大地を揺るがすその一歩は、まさしく人の命を断つためだけの動き。鋼の塊と化した彼の身体が放つ、右上段からの斬撃が、私の頭上へと迫る。


 死ぬ。


 かつての私なら、そう思っただろう。


 だが、今の私には、彼の動きがまるで子供の戯れのように見えていた。


 天啓のように、彼の攻撃の軌道が光の線として浮かび上がる。その線のどこに死があり、どこに生があるのか、私の魂は知っていた。


 祈りの一節を口ずさむように、静かなステップで刃をいなす。


 私の身体が、意思とは無関係に、戦場という舞台の上で最も美しい軌跡を描いて舞った。風に舞う木の葉のように、あるいは、神の指先が示す軌跡をただ、なぞるように。


 隊長の渾身の一撃は、空を切って虚しく地面を叩いた。


 舞の終わりに扇子を合わせるように、私の持つ鎌の柄が、吸い付くように彼の手首を打った。乾いた骨の音が響き、彼の剣が宙を舞う。


 一瞬の静寂。


 ターンするように身を翻した私の鎌が、赤い円弧を描いて彼の足首を刈り取った。


「ぐああああ!」


 獣の叫びが、初めて苦痛の色を帯びた。


 全ての動きが止まった時、私は祈りを捧げるかのように静かに彼を見下ろしていた。地に膝をつき、呻く隊長の首筋に、冷たい鎌の刃を当てる。


「ラヴァンはどこにいる?」


「き、貴様……何者だ……」


「答えなさい」


 私は刃を押し当てた。皮膚に薄く血が滲む。


「彼はどこに?」


「本部は……首都アルカナにある大聖堂……」


 隊長は苦痛に顔を歪めた。


「だが、貴様ごときが大司教様に敵うはずが……」


 私は鎌を振り下ろした。隊長の声が途切れる。


 残りの兵士たちが、一斉に私を囲んだ。十人以上はいるだろうか。


 さすがに多勢に無勢だ。だが、退くわけにはいかない。リュカを護らなければ。


「来なさい」


 私は鎌を構えた。


「全員まとめて相手してあげる」


 最初の兵士が飛び掛かってきた。私は身を沈めて彼の足を薙ぎ払い、倒れた隙に急所を突く。二人目、三人目と続けて倒していく。


 だが、やはり数が多すぎた。


「姉上!」


 リュカの悲鳴が響いた。振り向くと、兵士の一人が彼に向かって剣を振り上げていた。


 私は駆け寄ろうとしたが、背後からの攻撃をかわすのに手一杯だった。


 間に合わない。


 絶望が胸を締めつけた。また守れないのか。また、大切な人を失うのか。母も、父も、そして今度はリュカまで。


 その時だった。


「そこまでだ」


 低く響く男の声と共に、銀色の閃光が走った。リュカに向かっていた兵士の剣が、真っ二つに切断される。


 そして、その兵士自身も胸を貫かれて倒れていく。


「何者だ!」


 残りの兵士たちが身構えた。煙の向こうから現れたのは、漆黒の外套を纏った男だった。


 腰には両刃の長剣を佩き、その刃は仄かに青白く光っている。年齢は三十代前半だろうか。整った顔立ちだが、どこか影のある表情をしていた。


「追放騎士ローランド・アッシュフォード」


 男は名乗った。


「元は貴様らと同じ、教団の騎士だったがな」


「追放騎士だと?」


 兵士の一人が驚いた。顔が青白くなっている。


「まさか、あのローランド・アッシュフォードか?」


「知っているのか?」


 別の兵士が問う。


「黒騎士と呼ばれた男だ」


 最初の兵士は震え声で答えた。


「だが、三年前に教団から追放されたはず……」


「その通りだ」


 ローランドは苦い笑みを浮かべた。


「理由は、上官の不正を告発したこと。どうやら、真実を語るのは教団では重罪らしい」


 彼は剣を構えた。その構えは洗練されており、長年の鍛錬の重みを感じさせる。


「小娘、そこを退け」


 ローランドは私に声をかけた。


「後は俺が引き受ける」


 だが、私は動かなかった。この男は信用できるのか。教団の元騎士ということは、敵である可能性もある。


「疑うのは当然だ」


 ローランドは私の迷いを察したようだった。


「だが、今は共通の敵がいる。後で話し合おう」


 最初の兵士が攻撃の合図を送った。残りの兵士たちが一斉に突進してくる。


 ローランドの剣技は見事だった。


 流れるような足捌きで敵の間を縫い、一撃で確実に急所を突いていく。無駄な動きが一切ない。まるで舞踏のような美しさすらあった。


 五分もしないうちに、全ての兵士が地に伏していた。


 ローランドは剣を鞘に納めると、私の方を振り返る。


「怪我はないか?」


「私は大丈夫」


 私は警戒を緩めなかった。まだ完全には信用できない。


「でも、どうして助けてくれたんですか?」


 ローランドは私の右腕を見詰めた。袖から聖痕の一部が覗いているのに気づいたのだろう。


「その印……」


 彼は驚愕の表情を浮かべた。


「まさか、聖痕?」


 私は慌てて袖で腕を隠した。


「なぜ君にエルヴィア女神の聖痕が……」


 ローランドは呟いた。


「ここ数百年、その印を持つ者は現れていないはずなのに」


「私にも分からないんです」


 私は正直に答えた。嘘をついても、この人には見破られそうな気がした。


「気がついた時には、既にこの印が」


 ローランドは考え込んだ。そして、村の惨状を見回す。


 煙が立ち上る家々、地に倒れた村人たち。全てがものの一時間で破壊されてしまった。


「ここにいては危険だ」


 ローランドが口を開いた。


「聖浄軍の本隊が来る前に、この場を離れよう」


「でも、村の人たちが……」


 私は周囲を見回した。生存者の姿は見当たらない。マリアおばさんも、他の村人たちも、皆——


「君にできることは何もない」


 ローランドは厳しい口調で言った。


「死者を蘇らせることはできないのだから」


「そんな……」


 私は膝をついた。力が抜けて、立っていられなくなった。


「みんな……みんな死んでしまったの?」


 リュカが私の側に駆け寄ってきた。


「姉上……」


 彼は震え声で呟いた。


「マリアおばさんも、ジョゼフ爺さんも……」


 掠れた声で村人の名を呟くリュカの身体は、小鳥のように震えていた。私はその小さな背中を、壊れ物を抱くように、きつく抱きしめた。


 ――見せてしまった。


 パンの焼ける匂いと、優しい笑顔しか知らなかったはずのこの子に。人が人でなくなる瞬間を。血と煙と絶望に染まった、世界の本当の姿を。


 ごめんね、リュカ。ごめんね。


 声にならない謝罪が、喉の奥で熱い塊になった。まだ十四歳。私の腕の中では、こんなにも小さいのに。


「聞け」


 ローランドが口を開いた。


「この虐殺を命じたのは、紅のヴェール教団の最高指導者、大司教ラヴァン・ド・モルテーヌだ」


 ラヴァン・ド・モルテーヌ。


 その名前を聞いた瞬間、私の脳裏に火刑台の映像が鮮明に蘇った。慈悲深い微笑みを浮かべながら、私を炎に包ませたあの男。


「ラヴァン……」


 私は拳を握り締めた。指先が白くなるほど強く。


「やはり、あの男なのね」


「あの男?」


 ローランドは眉根を寄せた。


「君はラヴァンを知っているのか?」


「夢の中で」


 私は立ち上がった。


「毎夜見る夢の中で、彼が私を……」


 私は言葉を濁した。火刑の記憶を語るには、まだ心の準備ができていない。


「とにかく」


 私は決意を込めて言った。


「私は、あの男を許さない。必ず、この手で……」


 村を見回した。燃え上がる家々、地に倒れた村人たち。全てがラヴァンという男の命令によって破壊された。


 私の故郷が、永遠に失われてしまった。


「ローランドさん」


 私は彼を見上げた。


「あなたは、なぜ教団を離れたんですか?」


「離れたわけではない」


 彼は首を振った。


「追放されたのだ。正義と信じていたものが偽りだったと知り、それを告発したために」


「偽り?」


「教団は理性と秩序を謳っているが……」


 ローランドは拳を握り締めた。


「実際は恐怖と暴力で民を支配している。今日の虐殺も、その一環だ」


 私は聖痕を見下ろした。袖の下で、それが微かに脈動している。


 まるで何かに呼応しているように。


「私は、どうすればいいんでしょう?」


「それは君が決めることだ」


 ローランドは答えた。


「だが、もし本当にラヴァンに立ち向かう気なら、俺も力を貸そう」


「どうして?」


「俺には、償うべき過去がある」


 彼は遠くを見詰めた。


「過去に、教団の不正を見て見ぬふりをしたことがあるのだ。だから今度こそ、正しいことをしたい」


 リュカが私の袖を引っ張った。


「姉上、どうするんですか?」


 私は弟の顔を見詰めた。まだ幼い彼を、こんな危険に巻き込むわけにはいかない。


 だが、この世界に安全な場所はあるのだろうか。教団の支配が続く限り、どこに逃げても同じことの繰り返しなのではないか。


「私は」


 私は静かに言った。


「あの男を、絶対に許さない」


 聖痕が熱を帯びた。


「リュカ、一緒に来てくれる?危険な旅になるけれど」


「姉上がいるなら、僕はどこでも」


 リュカは頷いた。


「でも……姉上、なんだか様子が変わりました」


「そうかしら?」


 私は微笑んだ。だが、それは以前の私の笑顔とは、どこか違っていた。


「では、行こう」


 ローランドが立ち上がった。


「首都アルカナまでは長い道程だ」


 私たちは、一度も振り返らずに村を後にした。


 振り返ってしまえば、足が止まってしまいそうだったから。


 背中に感じる熱だけが、ついさっきまでそこに在ったはずの故郷の断末魔だった。もうパンの焼ける匂いはしない。ただ、黒い煙の匂いだけが、私たちの歩いた後に道しるべのように立ち昇っている。


 街道の硬い土を踏みしめながら、私の心の中では三つの感情が渦を巻いていた。


 骨まで焼くような、ラヴァンという男への憤り。


 胸を抉るような、失われた日常への哀しみ。


 そして――その二つを喰らって、心の最も暗い場所で産声を上げた、新しい感情。

 それは、復讐という名の、飢えだった。


 右腕の聖痕が、その飢えに呼応するように、じくりと熱く疼いた。


 それは女神の祝福か。それとも、私がこれから歩む修羅の道への、最初の烙印か。

 答えはまだ、風の中だった。

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