1 三毛猫ミャアの旅の出発点ー正解のシナリオを破り捨てたらー
夕暮れの公園。ベンチの周りに漂う気まずさと、どこか晴れやかな空気の隙間に、かすかな草擦れの音が響いた。
「——……にゃあ」
低くも高くもない、少し掠れた声。
直と朱梨の視線が同時に落ちたのは、二人の足元——公園の枯れ葉の上にちょこんと座り込んでいた、一匹の三毛猫だった。
白地に黒と鮮やかな茶色が混ざり合った、見事な三毛模様。尻尾の先だけが鍵型に少し曲がっている。首輪はついていない。
「うおっ、猫……? いつからそこにいたんだよ」
直が驚いて少し後ずさると、三毛猫は「なにか問題でも?」と言いたげな顔で黄金色の瞳をパチリと瞬かせた。
「かわいい……。どこから入ってきたんだろう」
朱梨が膝を折り、そっと手を差し伸べると、その三毛猫は警戒する素振りも見せず、ごん、と自分の頭を朱梨の指先に押し付けてきた。温かい毛並みの感触が手に伝わる。
「な、なんだよアイツ、俺の悲痛な叫びをずっと特等席で聞いてたのか……? 『勇者アルス〜!』とか言ってる時からか……!?」
頭を抱えて再び顔を赤くする直に、朱梨はクスリと笑った。
「大丈夫だよ直。猫ちゃんなら誰にも言いふらしたりしないから」
「そりゃそうだけどさ……! にしても、度胸のある猫だな。人の気配に全然びくびくしてねえ」
三毛猫は朱梨の手元にひとしきり頭を擦り付けると、ふいにプイと顔を背け、直の方へと歩み寄った。そして、直が地面に置き忘れていたスマホのすぐ隣に座り込む。
「にゃあ」
まるで「これ、落ちてるぞ」と教えるかのように、前足でトン、とスマホの画面を叩いた。画面がパッと点灯し、そこには『サンシャイン・ノベル』の文字と、勇者アルスの激甘なセリフが燦然と輝いている。
「おい待て! 踏むな! 押すな! 画面を見るな!!」
「ふふっ、大地くん、猫ちゃんにも読者になってもらえば?」
「笑い事じゃねえって! 猫にまで恥ずかしいポエム見られたら俺の精神が持たねえ!」
直は慌ててスマホを拾い上げ、ポケットに押し込んだ。三毛猫はそんな直の慌てようを冷ややかな、けれどどこか面白がるような目で見つめている。
「……なんかさ、この猫、人間の言葉がわかってそうな顔してないか?」
「あはは、確かに。ちょっと不思議な雰囲気があるね」
朱梨が首を傾げると、三毛猫は喉を「ゴロゴロ……」と鳴らし始めた。まるで二人のやり取りを楽しんでいるかのようだ。
「お名前、なんていうのかな」
朱梨が問いかけると、三毛猫はまるで自分の名前を主張するように、はっきりと鳴いた。
「ミャア」
「え? 今……『ミャア』って言った?」
直が眉をひそめて猫の顔を覗き込む。
「ミャア」
もう一度、誇らしげに短く鳴く。
「ミャアちゃん、っていうの? ふふ、可愛い名前」
朱梨が微笑むと、三毛猫——ミャアは嬉しそうに尻尾をパタパタと揺らした。
直は地面にしゃがみ込み、おそるおそるミャアの背中に手を伸ばした。撫でてみると、ミャアは心地よさそうに目を細め、直の膝にすりっと体を寄せた。
「うぐっ……意外と懐っこいな、ミャア……。お前、俺の秘密を知ったからにはタダじゃおかないぞ。ファンレターの一通でも書いてもらうからな」
「猫ちゃんにファンレターは無理だよ、大地くん」
「冗談だよ!……でもまあ、なんだ」
直は照れくさそうに鼻の頭をかいた。
「秘密を知られたのが、お前とこのミャアで……ちょっと良かったかもな」
「え……?」
「クラスの連中だったら絶対いじられて終わりだけどさ。お前はバカにしないでカッコいいって言ってくれたし……このミャアも、なんか黙っててくれそうだしな」
夕暮れの橙色の光が、公園全体を優しく包み込んでいく。
周りの顔色ばかり気にして、本当の自分を隠して生きてきた朱梨。
自分の世界を持ちながらも、それを誰にも見せられずに隠していた直。
そんな二人の間に現れた一匹の三毛猫ミャアは、まるで二人の結んだ小さな約束を静かに見届ける「証人」のようだった。
「……あ、もうこんな時間。私、そろそろ帰らないと」
朱梨が立ち上がると、ミャアもスッと立ち上がった。
「おう、また明日な。……学校では、今まで通り普通にな」
「うん。でも……秘密の共犯者、だね」
朱梨が微笑むと、直は決まずそうに「〜〜っ、言い方!」と顔を背けた。
「じゃあね、直。バイバイ、ミャアちゃん」
朱梨が手を振ると、ミャアは「にゃーん」と一口鳴いて、くるりと向きを変えた。そのまま公園のフェンスの隙間へと滑り込んでいく。
「あれ? ミャアちゃん、そっち行くの?」
「野良猫だしな。どっか自分の家に帰るんじゃね?」
二人が見守る中、ミャアはフェンスの向こうで一度だけ振り返った。その黄金色の瞳は、夕暮れの光を反射して怪しく、そしてどこか神秘的に輝いていた。
ミャアは小さな尻尾をキュッと振ると、まるで空間の歪みに溶け込むように、住宅街の影の中へと姿を消した。
風がふっと吹き抜け、ブランコが静かに揺れる。
ふたりには知る由もなかった。
この三毛猫のミャアが、世界の境界をひらりと飛び越える「旅する猫」であることを。
誰かのシナリオに縛られた世界を飛び出したミャアは、また次の物語へと足を向ける。
次にミャアが降り立つのは——青い宝石の輝きと、名探偵の名を冠した切符が待つ、新たな運命の舞台。
『快斗と青いガーネット〜ホームズへの切符〜』の世界で、快斗と星来というふたりの前に姿を現すのは、そう遠い未来の話ではない。
けれど今はただ、この公園に残された二人の甘酸っぱい秘密を、その毛並みにそっと残したまま。
ミャアの小さな冒険の旅は、静かに続いていくのだった。
三毛猫ミャアの物語の旅の出発点は、大地直と水野朱梨でした。




