3.1 七原若葉
太陽が、そこにある。
表面から放射される百万度のコロナが、一億五千万キロ離れた路上のアスファルトを焦がす。
太陽が、回っている。
梅雨の間は仕事をしろと散々文句を言われた太陽が、ようやく顔を出してからたった三日しか経ってないのに、仕事のしすぎだと文句を言われるようになっていた。
相変わらず燃え続ける太陽に、彼は童謡にあるよう自分の手の平をかざしてみた。
「暑いな……」
指の隙間から、眩しい光がこぼれるだけだった。
長い関東の夏が幕を開けたある夏の日、うだるような暑さの中、依頼が何一つないことに生活への不安と気楽さを感じながら、了一は相も変わらずベランダで煙草を吸っていた。
できることなら冷房のよく効いた居間で吸いたいのだが、機械仕掛けの従業員によって、そのささやかな願いは却下されたばかりだった。
全国の学校で夏休みが始まったせいで、ベランダから見下ろす小さな路地にも多くの人が見られるぐらいには、いつの間にか観光地と化してしまった秋葉原には多くの人が訪れるようになっていた。熱心なサブカルチャー愛好家と同じくらいには、了一は長期休暇とともに街に溢れ返る人にうんざりしていた。夏休み、と聞くとはしゃいで夜も眠れなくなった子供時代からはや十何年、いつの間にか彼はその単語を聞くと人混みを連想するようになっていた。
自分も随分を年をとったな、と思いながら、了一は肺いっぱいに煙を吸い込んだ。吐き出す煙が、梅雨のころ空を覆っていた雨雲に見えなくもない。
ただ、夏休みも悪くないと思える一つの出来事が了一にはあった。若葉が、今日家を尋ねることになっていた。その為昨日はスーパーマーケットまでチョコレートケーキの材料を買いに行かされる羽目になったが、彼女の笑顔が見れるならと気前よくレジに五千円札を支払った。
ケイも彼女に会えることを楽しみにしており、朝から鼻歌で古い映画の挿入歌を歌いながら、念入りに雑巾がけを行っていた。了一が目が覚める頃には、部屋は前日とは見違えるほど奇麗になっていた。その代償として、まだ二、三回しか目を通していない雑誌の何冊かをゴミ箱に入れられたのだが、その事実を知るのはもう少し後になる。
了一が二本目の煙草を順調に灰に変えていると、元気のいい部屋のチャイムが聞こえた。口から煙草が溢れてきたジンジャエールの缶の中に無理やり吸いかけの煙草を押しこみ、玄関に向かって楽しそうな足音を立てて歩き出した。
ただケイの方が一足早く、玄関の重い扉のドアノブを回したのはケイの華奢な腕だった。
「いらっしゃいませ、若葉さん」
「そう言われると、なんだかお客さんになった気がします」
玄関からは、楽しそうな会話が聞こえてきた。二人の輪に遅れまいと、了一は足を早めたが、ケイが置きっぱなしにした通販のダンボールに足をとられ、盛大に尻もちをついた。その姿を見た二人が、声を上げて笑い始めた。
了一も、照れ隠しに笑うしかなかった。
若葉はいつも着ている学校指定のジャージの代わりに、黄色い七分そでのパーカーに、深緑色の半ズボンという格好で、その色合いは彼女の名前の通り自動車の初心者マークを連想させた。
「おじゃまします、了一さん」
靴を脱ぎ玄関マットの上に立った若葉が、ぺこりとかるく頭を下げた。
「どうぞどうぞ、汚いところだけど」
「リョーイチさん、それは私に対するあてつけですか?」
玄関の奥から、ケイの拗ねたような声が聞こえてきた。
「あのな、どこの世界に自分の部屋を綺麗ですって言う独身男がいるんだよ」
「社交辞令、っていうんですよね、こういうの」
若葉ちゃんが了一のフォローに回る。それに気を良くした了一がさらに言葉を続ける。
「そうそう、こういうのは昔ながらの様式美だから言わないと駄目なんだよ。ケイ、わかったか?」
居間に戻ってきたケイが、不服そうに頷いた。
食卓の上に置かれた多種多様なケーキの材料や電動式の泡立て器に七号のケーキの型を見た若葉は、気合いを入れてケーキを作ることを決意した。
「ケイさん、頑張って美味しいケーキを作りましょう」
「ええ、もちろんです」
二人で本を見ながら準備をする姿を、了一は楽しそうだと思ったが、同時に大変そうだとも考えた。
「しかしまぁ、大変そうだな。買ってきた方が早かったか?」
その言葉を聞いた二人は、了一に苦笑いを向けた。
「わかってないですね、リョーイチさん。作るから楽しいんじゃないですか」
「そうですよ、ケーキ作りは女の子の義務教育ですよ」
それから二人は了一を無視してケーキ作りに勤しみ始めた。
不用意な発言で村八分にされてしまった了一はつけっぱなしのテレビの電源を消すと、応接間のソファーに横になり不貞寝を始めた。
昭和七十九年、十月九日。
大学二年目の始まったばかりの二学期、了一は学食で天ぷらうどんを食べていた。今日は授業の補講が五限に入ってしまっていたので、彼は少し憂鬱な気分でいた。自主的に休講してしまおうかとも考えたが、前期に出席が足りずに単位を落としたという情けない事実がその考えを押しとどめた。
五時まで何をして過ごそうかとぼんやりと考えてる了一の横に、今日の定食をトレイに乗せた桜がやってきた。
「了一、元気?相変わらず眠そうだね」
桜が空いていた隣の席に座る。了一はその姿を黙って見ていた。桜は理系の大学にしては珍しく、爽やかな容姿と流行の服を見事に着こなしていた。その割に女性と遊んでいる姿はほとんど見られなかったが。
「元気ないなーっ。そんな顔してると女の子にもてないよ」
桜がクスクスと笑いながら、瞼が半分も空いていない了一に本気ともとれる冗談を言った。
「さすが、顔がいい奴は言うことも格好いいんだな。とりあえずイケメン税としてそのコロッケを徴収する」
了一は桜に軽く嫌味を返すと、有無を言わせぬ速度でコロッケを箸で奪い取り、乱暴に自身の口の中に詰め込んだ。
「あ、それ僕が楽しみにしてたのに!」
桜が反論を言い終える頃には、了一はコロッケを飲み込んでいた。
「ついでに可愛い妹がいる税でその生姜焼き一切れも俺のものだ」
さらに桜の皿の上に置かれた生姜焼きを一切れ掴み、急いで食べようとしたが、その途中に生姜焼きは桜の箸に掴まれてしまい、一切れの豚肉を二人で引っ張り合う形になってしまった。
「僕は君に、賠償と謝罪を要求する!」
正義と正当性の名のもとに、生姜焼きを引く桜の力が強くなる。
「うるせぇ!男に囲まれて育った俺の気持ちなど貴様にわかるか!」
妬みと僻みの名のもとに、生姜焼きを引く了一の力が強くなる。
今、二人の力は拮抗していた。
暫くその状態が続いていたが、その均衡を破ったのは桜が左手に隠し持っていたフォークだった。銀色のフォークが了一の天ぷらうどんの丼に一直線に向い、まだ残されていたイカの天ぷらを突き刺そうとする。だが狙いがそれてしまったのかイカの天ぷらはフォークにはささらず、桜の頭上に華麗に舞った。それを桜が水族館のアシカのように見事に口でキャッチした。
了一はイカ天に気を取られ、生姜焼きを引っ張る力をほんの少し緩めてしまい、その一瞬の隙をついた桜が生姜焼きを強く引っ張り、自身の皿の上に戻した。
「あ、それ俺が楽しみに取っておいたイカ天だぞ!返せ、返せ!」
了一は桜の首を両手で絞め体を強く揺さぶったが、結局は親指がイカ天が飲み込む喉の動きを確認するだけだった。
「イカ天が、俺のイカ天が……」
了一は桜の首から手を離し、頭を下げてうなだれた。
「了一、正義は勝つんだよ」
イカ天を飲み込んだ桜が、満足そうにそう言った。
「それは勝った人間だからそう言えるんだよ……」
イカ天を取られた了一が、不服そうにそう答えた。
結局二人は平和協定を結び、建前上は仲好く食事を取るということで落ち着いた。
「そういば、了一はこれから暇かい?」
最後の生姜焼きを口に運びながら、桜がまだイカの天ぷらを食えなかった事を悔やんでいる了一に尋ねた。
「五時ぐらいまではね」
「じゃぁ、一緒に部室に行く?ケイも会いたいだろうし」
桜は定食を平らげると、ごちそうさま、と小さく言った。
「金のかからない暇つぶしっていったら、やっぱりそこしかないか」
了一はうどんの汁を飲み干し、桜に釣られてごちそうさま、と言うと、桜と一緒に、校舎の三階の部室に向かった。
桜は二年生にして、第二コンピュータ研究部という公式のサークルを主宰していた。
部員は少なく、仮入部の了一を入れても片手があれば十分数えられる。部屋を開けると、敷かれたカーペットの上で駄菓子を食べ散らかしながら、寝っ転がって漫画を読んでいる藤川藍がいた。
飾り気のない服装をした茶髪のショートカットの女性で、性格は非常にサバサバしている。実家は東北地方の地主で大金持ちということらしいが、その話を信用させる上品さを見た者は少なくともこの大学にはいなかった。
「どけ、でか尻」
了一は彼女の尻に挨拶代わりのローキックを放った。
「なんだ木崎か……今いいとこなんだから、邪魔しないでくれ」
そんな攻撃では彼女は眉ひとつ動かさず、彼を邪険に扱うだけだった。
「そうだな、そのポテチをくれたら考えてもいい」
昼食が食い足りなかった了一には、彼女がいい音を立てながら食べるポテトチップスが美味しそうに見えてならなかった。
「ふざけるな。これを渡せば私が私で無くなる」
「相変わらず意味がわからないなお前は……」
言葉で解決することを諦めた了一は、彼女の脇腹を両手でつかみ、壁際に向かって転がした。いきなり実力行使をされ、藍は驚きの声を漏らした。
「ちょっと、やめてくれ!くすぐったいんだよそこは!」
「残念だが、俺は障害は自分の力で乗り越えるタイプなんだ」
壁際に彼女を転がしても、了一はその手を離さずにそのまま彼女の脇腹をくすぐった。
「馬鹿、さわるな……うひゃひゃひゃひゃひゃ!」
藍の能天気な笑い声が部室の中に響いた。
「楽しそうだね、お二人さん。もしかして僕は邪魔かな?」
二人のやり取りを部屋の扉の前で見ていた桜は、うんざりした調子で了一に尋ねた。もっとも、こうして二人の漫才を眺めるのは嫌いではなかったが。
「あぁ、悪い悪い。グータラ尻でか女をどかすのに手間取った」
了一はようやく藍の脇腹をくすぐる手を止め、先ほどまで彼女が陣取っていたスペースに腰をおろした。
「はぁ、はぁ……おい木崎、さっきから自分の言動がセクハラだとは思わないか?」
「相手が真っ当な女性ならそうなるだろうが、お前が相手だと該当しない」
その言葉を聞いた藍は、諦めたように小さくため息をついた。
「そういえば、ケイは元気?」
思い出したように了一が桜に尋ねる。
「ちょっと待ってね。今起動するから」
桜は壁際に置かれたパソコンデスクに置かれたデスクトップの電源を押し、背もたれのない簡素な折りたたみ式の椅子に座った。
数十秒してOSが起動すると、デスクトップ上のケイ、と書かれたアイコンをダブルクリックした。
「こんにちは、マスター、藍さん、リョーイチさん」
パソコンのスピーカーから、片言の合成音声が聞こえた。
ケイ、と名付けられた彼女は、第二コンピュータ研究部の六人目の部員である。彼女はモニターの上に付けられたカメラで人の顔を認識し、集音性の高いマイクで人の声を認識する。
この人工知能プログラムを作ったのは桜で、何でも外部からの情報を蓄積、整理し、それを基にして人間のように応対することができ、人間でいう趣味や嗜好はより多く蓄積された情報によって定められる。
その仕組みを藍や了一に説明したことがあるが、二人はまったくもって理解することができなかった。
「リョ、ウ、イ、チ。了一だってば」
相変わらず自分の名前をそう呼ぶケイに、了一はとくにイの音を強調して彼女に喋った。
「リョー、イ、チ、さん。今日はいい天気らしいですね」
「もうお前わざとやってるだろ……まぁいいや。それでケイ、今IQはどれぐらい?」
彼女は学習型のプログラムで、作られた当初は言葉を返すことはできなかった。
「五歳児ぐらいです」
「じゃぁもうちょっとでうちの妹に追いつくね。了一が来るたび変な事を吹き込むから、変な風に成長しないように気をつけないとね」
デスクに頬杖をつき優しい微笑みを浮かべる桜が、ケイに注意を促した。その表情は、どことなく子供を持った父親の物に見えなくもない。
「それよりも、そのパソコンに一緒に保存されてるお前の大量のアニメソングフォルダのほうが有害だと思わないか?」
ケイの情報収集の対象はパソコン内部のデータにも及んでおり、興味の持ってほしいデータを入れておけばそれに興味を持ってくれるようになっている。自分と同じ趣味を持った理想の話し相手になってくれるというわけだ。
「人の好きな物を馬鹿にするのは、よくないと思うけどな」
テレビアニメを良く見る桜が、不貞腐れたように了一に言った。
「そうだな、そういうことにしておくよ。おい藤川、それが読み終わったらさっさとゲームするぞ。悪いが、今日はお前に負ける気がしない」
いつまでもケイとお喋りに興じていても良かったが、了一には倒すべき相手がいた。
「……今日の晩飯」
漫画本を脇に置き、藍がつぶやいた。その言葉は今日の戦いで賭ける物を指しており、敗者は勝者にそれを提供しなければならない。いつの間にかそれが二人のルールになっていた。
「後でごめんなさいって泣きつくなよ?」
「そういうお前こそ、月末に金を貸してくれなんて言っても一円も貸さないからな」
「弱い奴ほど良く吠えるってな」
戦いの前哨戦として、二人のいつもの口喧嘩が始まる。現在の了一の戦績は、十三勝十七敗。大敗しているとまでは言えないが、四勝差をなかなか縮められずにいた。
「僕も参加していい?」
桜が楽しそうな二人を見ていると、ついそんな言葉が口に出た。
「お前は駄目だ、俺のやる気がなくなる」
「そうだな、さすがの私も廃人様には勝てっこない」
二人とも負け戦だけはしたくなかったので、桜の参戦を拒んだ。了一はカラーボックスの上に置かれたテレビとゲームの電源をつけ、コントローラーを藍に渡した。
「二人ともひど言い草だね……ところでケイ、どっちが勝つと思う?」
「今までの戦績から考えると二十三パーセントほど藍さんに分がありますが、リョーイチさんの根拠のない自信を考えるとその分は十パーセントまで低下しそうです」
ケイも二人の試合をいつも観戦しており、その戦いを冷静に分析していた。
「だってさ、木崎。その一割がお前の財布を空にするんだ」
「そんなもの、俺の気合いが解決するさ」
彼は五時間目の授業が始まるまで、部室に籠って藍とテレビゲームをし続けた。
白熱した結果、僅差で了一が勝利した。