3.2
五時間目を一番後ろの席で寝て過ごした了一は、上機嫌で藍と二人で街に出ていた。桜はそもそも五限の授業を取っていなかったので、五時になると自宅に帰宅した。
「それで、負け犬君は何を奢ってくれるのかな」
授業が終わったことと勝利したことに了一は気分を良くしていた。今の彼に、怖いものなどなかった。
「くそっ、今度は負けないからな」
対照的に、藍は露骨に嫌な顔を彼に向けた。
「そんなことより、今日の晩飯は何にしようかなー」
そんな彼女の心情を察した了一はさらに気分を良くし、能天気に今日の商品に思いを巡らせた。人の金で食べる食事より美味いものはないという事を彼は経験上知っていたので、実際何でも良かった。
「待て、流石にそれは私が決める」
「じゃぁ早く決めてくれよ」
あれこれ考えながら、彼女は繁華街の看板を見回した。その中の一つを見つけると、彼女はあることを思いついた。
「よし、あそこにしよう」
彼女は先ほど目にした全国チェーンの居酒屋を指さした。
「居酒屋で美味いものなんて食えるのか?」
了一は食事を取ることには期待を膨らませていたが、酒を飲むことまでは考えていなかった。
「いいから、今日は私の金なんだし少しは酒に付き合えよ。明日も暇なんだろう?」
「はいはいどうせ暇ですよ」
反抗的な台詞を言いながらも、彼は酒も付いてきたことに大いに喜んでいた。
その居酒屋には雑居ビルの二階にあり、二人はコンクリートが打ちっぱなしにされた狭い階段を登っていった。
店内に入ると、いらっしゃいませ、と明るい笑顔を浮かべた女性の店員に案内された。
翌日が祝日ということもあってか、店内はスーツ姿のサラリーマンで賑わっていたが、二人はすぐ雰囲気の良い小上がりの席に案内された。靴を脱いで向かい合って座ると、店員がお通しと伝票を持ってやってきた。
「すいません、とりあえず生ビール二つと枝豆三つ。あとは……」
二人で一つのメニューを見ながら、藍が定番の商品を二つ頼む。了一に何か食べたいものはないかと目で促した。
「たこのから揚げとイカの一夜干しを一つづつお願いします」
了一はお勧めとシールが貼られた商品を二つ選んで店員に告げた。かしこまりました、とお決まり通りの言葉を残して、店員は厨房に消えていった。
それからも二人はメニューを見て次に注文する料理を話し合った。しばらくして、ビールと枝豆が運ばれてきたので、二人は微笑み、言葉を交わさずに乾杯した。
「なぁ木崎、大学卒業したらどうする気だ?実家に帰るのか?」
ビールを二、三口飲んだ藍が、唐突に了一にそんな話を切り出した。
いつもより顔が赤かったので、もう酔いが回っているのだろうと彼は推測した。
「そうだなぁ、いろいろ考えてるよ。頑張って就職活動して大企業で働いて、社長になるとかな。あとは国家一種受けて、阿呆な政治家を顎で使うみるってのも悪くない」
「意外と野心家なんだな、お前は」
彼の夢が彼の普段の言動からかけ離れていた物だったので藍は少し驚いたが、その夢は彼の頭の良さと成績を持ってすれば案外かなってしまうのではないのかとも思った。
「夢を持つのは自由だろ」
ビールを飲みながら自嘲気味に彼はそう言ったが、その姿を見て藍の心臓は一瞬高鳴ったが、すぐにそれを彼女は酒のせいだと自分に言い訳をした。
「叔父さんの後は継がないのか?」
「ガワ屋に就職か……それは微妙に嫌かも」
了一は現在叔父が経営しているガワ屋の手伝いをする代わりに家賃と生活費を賄ってもらっている。了一にとっては非常にありがたい事ではあるのだが、それでも図工の延長で生涯生活していくという事には抵抗があった。
「そういうお前はどうするんだ?」
一通り自分の事を話した彼は、ビールをちびちびと飲みながら、向かいで機嫌良く三杯目の生ビールを飲んでいる藍に尋ねた。
「そうだな、多分実家に強制送還されて、どこかの良家の息子とお見合い結婚だ」
彼女の淡々とした口調で語られる将来の夢が、普段から一緒になって馬鹿な事ばかりやっている彼女とのつきあいがあと二年ほどしか続かない事を明確にさせた。
了一はそれを寂しく思ったが、今はそれを笑い飛ばすことにした。彼女の将来が、彼女の望むものになりますようにと柄にもない事を祈りながら。
「お見合い?お前がか?」
「なんだ、文句でもあるのか」
了一の言葉に機嫌を悪くしたのか、藍が目を細めて彼をみつめる。
「いや、ただお前がそういうことをしているのが想像つかなくて」
「よし、そこまで言うなら仕方ない。ここで私のお見合いテクニックを見せてやる」
相当酔いが回っていたのか、彼女は顔を真っ赤に染めて立ち上がり、了一の横に千鳥足で移動した。そこで彼女は上品に正座し、三つ指を突いて頭を下げた。
「はじめまして、藤川藍と申します」
その光景を見た了一は、飲んでいたビールを盛大に噴き出してしまった。そして声にならない笑いを必死にこらえようとした。しかしその抵抗もむなしく、了一は腹を抱えて転げまわり店内に響くぐらいの大声で笑い始めた。
「笑いすぎだぞ」
彼女はそのまま了一の横に座り、手を伸ばして自分のビールを取った。
「もう一回、もう一回やってくれない?」
にやけ顔の了一が彼女に両手を合わせて懇願する。
「あーっ、もう!こんな恥ずかしい真似二度とやるものか!」
彼女は彼に恨み事を言うと、ジョッキに半分ほど残ったビールを一気に飲み干した。
「そう言うなよでか尻。余興としては最高だったぞ」
了一はそんな藍にできる限るの謝辞を述べた。
「うるさい、さっさと肺癌になって死ね」
帰ってきたのは、冷たく辛辣な言葉だったが。
酔いつぶれた藍を背中に背負い居酒屋を後にした了一は、藍のアパートに向かった。
「悪いな木崎」
了一の耳に、彼女の小さな呟きが届いた。
「こうやってお前を背負うの案外悪くないよ」
「そうなのか?」
またいつものように嫌味か皮肉が返ってくるのだろうかと予想していたが、彼の意外な言葉を聞いた彼女は心底驚いてしまった。
「そうだな、腰は疲れるが背中のあたりにいい感じの感触が……」
了一がにやけながら、いつもの様に軽口を返した。
「吐くぞ」
「うわ、やめろこの上着買ったばっかりなんだぞ」
「うるさい、助平」
軽口を言えば、悪口で返ってくる。
悪ふざけをすれば、一緒になって笑ってくれる。
そんな仲が、二人には居心地が良かった。友達と呼ぶには親密すぎて、恋人というにはまだ足りない。そんな関係を、いつまでも続けていたかった。
しばらく歩いていると、了一の背中で黙っていた藍が彼の首に回していた腕の力を少し強めた。
「おい、何だよ急に」
「……サービスだ」
了一は振り返って藍の表情を見てやりたかったが、自分のにやけ顔を見せたくはなかったので、振り返らずに歩き続けた。
翌日、正午になってやっと起床した了一は叔父である木崎惣介の仕事を手伝っていた。
彼の仕事は通称ガワ屋と呼ばれるもので、現在市販されている無機質な家事ロボットを人間の容姿そっくりに変える仕事を請け負っていた。客のほとんどが、物好きの金持ちか、ロボットで性欲処理を行うことを念頭に置いた男性陣ばかりではあり、一ヶ月にこなす依頼の数は一件あるかどうかではあったが、それでも高額な料金が彼らの生活を困らせることはなかった。
今日の仕事はロボットの起動テストで、了一は叔父の横でノートパソコンを操作していた。
挨拶、と書かれたボタンをクリックすると、食卓の椅子で座らされていたロボットが器用に表情を変えながら、こんにちは、こんばんは、おやすみなさい、などと一通りの挨拶を片言の日本語で述べた。
「これに百五十万払う人がいるんだもんなぁ……」
了一には、片言の日本語をしゃべる良くできた人形に百五十万円の価値があるとは思えなかった。家事をさせるだけなら必要と思うかもしれないが、わざわざ人に似せることもない。
「七十万もする人形に嬉々として金を払う奴がいるぐらいだからな。それに八十万足して動くって言うなら欲しがる奴は絶えないだろ。俺ならその金があれば風俗にでも行くけどな」
最後の台詞がなければ十分に説得力のある内容だったのに、と了一は呆れてしまう。
「そんなことばっかり言ってるから奥さんに逃げられるんだよ」
「逃げた女は追わない主義なんだよ」
惣介はうまそうに煙草を吸いながら、今度こそ格好いい台詞を言ってみた。
「じゃぁ財布に入ってる写真は捨てていい?」
その言葉の真偽を確かめるために、了一は未練がましく惣介の財布に入ってる写真について指摘した。
「やめろ、絶対にだ」
即答で帰ってきた言葉がその真偽を証明させた。
「まぁ、復縁することを影から祈っておいてあげるよ」
「言ってろ、糞ガキ」
午後三時、仕事の手伝いを終えた了一は暇をつぶしに第二コンピュータ部の部室を訪れていた。部屋では桜とケイが仲良くお喋りに興じていたので、彼も漫画を読みながらそれに参加することにした。
「そういえば、リョーイチさんは藍さんが好きなんですか?」
唐突な質問がスピーカーから了一に投げかけられ、彼は思わず飲んでいたジンジャエールを吹きそうになってしまった。
「あ、僕もそれ気になるなー」
いつものように人懐っこい笑みを浮かべた桜が能天気な声でケイの質問の意義を強調した。
「あいつはほら、仲の良い喧嘩友達というか……後からやってきた幼馴染というか……」
床に置かれていた先々週の漫画雑誌を読む手を止め、了一は頬を人差し指で掻きながら曖昧に言葉を濁した。本人としても明確な答えがない質問であることを今更ながら自覚した。
「マスター、リョーイチさんの言葉の意味が解りません」
「要するに、付き合う一歩手前ってことだよ」
ケイの疑問に対して、桜の間違った解釈が答える。それに納得したのか、ケイはなるほど、と声を漏らした。
「お前なぁ、どれだけ幸せな脳味噌してるんだよ。誰が告白するとか好きだとか言った?」
「マスター、リョーイチさんの顔の色が赤くなりました」
了一の顔色の変化を的確に察知したケイが、淡々とその変化を述べる。
「ケイ、違うよ?この場合は恥ずかしさの余り赤面した、という表現が正しいよ」
「訂正します。リョーイチさんの顔は恥ずかしさの余り赤面しました」
ケイは先ほど述べた自身の言葉を、よりわかりやすく訂正した。こういう具合に、彼女の人工知能は成長していく。
「だ、か、ら!あいつは仲のいい友達であって付き合いたいとか結婚したいとかそういうのじゃなくて、単純に一緒にいて飽きないっていうか」
立ち上がり身振り手振りを加えながら、必死に反論する了一だったが、部屋の扉がノックされる音がそれを中断させた。
もう少し了一の姿を楽しんでいたかった桜だったが、さすがに扉の前の誰かを待たせるわけにはいかなかったので、どうぞ、と扉に向かって言った。
誰もが噂の主である藍が来たのかと思い、了一以外は今後の展開に胸を膨らませた。しかし、その扉を開けたのは、意外な人物だった。
「君たちかね?校舎を勝手に使っているという集団は」
扉を開けたのはこの大学で長年にわたって数学を教えている小田という教授で、第一声が三人にとって有効的な人物ではない事をはっきりとさせた。
もっとも一学年の前期で彼の授業を聞いていた桜と了一はその時から嫌いな人物ではあったが。
「許可なら貰っています。その書類がこれです」
桜は怒りを隠しながら冷静に画鋲でとめられた部室の使用許可書を壁から剥がし、小田に突き付けた。小田はそれに軽く目を通すと鼻で笑い、その一枚の紙を丁寧に折りたたみ自身のポケットにしまった。
「残念だが、この許可書は無効だ。何故かというと、君らのやっていることが無益極まりない事だからだ。ここに書いてるだろう?使用の資格、本学学生によって結成されている、有益な活動を行う団体またはサークルに限られると」
理不尽な理由と人を見下したような口調がさらに了一の怒りを大きくさせた。
「待ってくれよ、別に俺たち以外にもどうでもいい事ばっかりやってるサークルなんて山ほどあるだろ?そっちはどうなんだよ」
もともと気に入らない人間には喧嘩腰で反抗する気質である了一は、敬語も使わずに小田に反論した。
「君たちの最近の行動には目に余るものがあると学生課に匿名の通報がされたものでね。そもそもその紙も部員を水増しして貰ったものだろう?実際に活動してるのは三人しかいないというじゃないか。私としても、君たちのサークルの解散が弛みきった学生の気を引き締める物になると判断している」
「ずいぶん勝手な理由だな、おっさん。それが通るとでも本気で思ってるのか?」
了一は扉の前で偉そうに腕を組んでいる小田を睨みつけたが、小田は眉ひとつ動かさない。しばらくその状態が続いたが、その均衡を破ったのは桜だった。
「わかりました、いつまでに退去すればいいんですか」
桜が椅子に座ったまま毅然とした態度で小田にそう言った。
「おい!」
桜があまりにも理解の良すぎる反応をしたので、了一は桜に声を張り上げて怒鳴った。
「了一。仕方がないよ、こういうのばっかりはね。学生の僕らは、学校の命令には逆らえないんだ。それに、ここが駄目なら学校以外のところで活動すればいいだけさ。ですよね、小田教授」
「さすが七原、優等生は理解が早くて助かる。今週末までだ。それまでに部室を綺麗な状態に戻しておけ。鍵も今すぐ私に渡せ」
桜は上着のポケットから簡素なキーホルダーがつけられた鍵を小田に手渡す。
「いいか、今週末までにだ。それまでに何も進展がなければ、停学処分にさせてもらう」
その言葉を残して、小田は部屋を後にした。部屋に残された二人は、その場で黙りこんでしまった。
「ごめん、了一」
暫くして、桜が了一に謝罪の言葉を述べた。
「いいよ、お前のやり方が一番正しいんだよ。さっきは怒鳴って悪かった。藤川には俺が連絡しておくよ」
「ごめん、ごめん……」
壊れた機械のように、桜は泣きながら謝罪の言葉を繰り返した。
その夜、了一は学校近くのハンバーガーショップで藍と二人で夕食を取っていた。部室が取り上げられたことを告げられた藍は、仕方ないさ、と呟いた。
「うちの部活が幽霊部員を使って部室を手に入れたって言うのは本当だしな。仕方がないんだ、こういうものは」
Lサイズのフライドポテトをつまむ藍は、桜と同じく諦めた態度を表していた。
「お前もそう言うんだな」
ハンバーガーにかぶりつき、目の前に座った藍の顔を見た。悟ったような態度の裏には、悲しみが隠れている事が鈍感な彼にも分かった。
「了一が頑ななだけさ。確かにあそこが無くなるのは寂しくはあるけど、別のところに行けばいいさ」
「別の所って?」
「そうだな、私の家とか」
「藤川の家って……掃除は誰がするんだよ」
藍の家は了一も驚いてしまうほど散らかっていた
。彼は初めて彼女の家に遊びに行った時、脱ぎ捨てられた女性物の下着を見て思わず赤面してしまった。それ以来、彼女は彼が来ると面白がって下着を見せびらかすようになった。
「お前がしてくれるんだったら、住まわせてやってもいいぞ」
「それは願い下げだな」
毎日増え続ける洗濯物と漫画雑誌の山を片づけられるほど彼は綺麗好きではなかった。
「それは掃除のことか?同棲のことか?」
「ど……どっちもだよ」
「なんだ、楽ができると思ったのに」
悪戯っぽい笑みを浮かべ、藍は了一をからかった。もっとも、彼女の発言は半分ほどは冗談ではなかったが。
「藤川、明日は段ボール持ってきてくれるか?いろいろ持って帰らなきゃならないからな」
「あぁ、そうだな」
暗い話題しか浮かびそうになかったので、二人はそれから黙って食事を続けた。
その夜、第二コンピュータ研究部の部室には一人の男がいた。
部員どころか学生でもない彼は、その日手に入れた部室の鍵を使い、容易に部屋に侵入した。壁際のデスクの上に置かれたパソコンの電源を起動させ、自身のノートパソコンと接続した。そこからの作業は容易な物で、目当てのプログラムをコピーするだけで良かった。
すぐに作業を終わらせたその男は、醜悪な笑みを浮かべて部室を後にした。




