1.
冬暁の薄闇の中、子爵夫人であるクリスティアナ様は、一人娘であるシャーロット様に見守られ、静かに息を引き取りました。
「お父様はどちらかしら」
妻の最期を看取ることなく、三日ほど前に外出したきりの旦那様は、未だ帰る気配がありません。
「……おそらく、ラモーナ様のところかと存じます」
ラモーナ。それは旦那様が囲っている愛人であり、結婚前からの恋人だということは、屋敷の誰もが知る公然の秘密でした。
「そう。では、お母様が旅立たれたと使いを遣ってちょうだい。私一人では葬儀の手配すらままならないもの」
「かしこまりました」
執事との淡々としたやりとりを聞きながら、私は思わず漏れそうになるため息を必死に飲み込みました。
お嬢様は、まだ十五歳。にもかかわらず、愛する母の死に泣き崩れることなく、妻が危篤だというのに愛人宅に入り浸り、看取ることさえ拒んだ父親を責めることすらしない。ただただ冷静に指示を出すその背中はまるで、凍てつく冬の凛とした空気と静けさを体現しているようです。
お嬢様は、まだかすかにぬくもりの残る奥様の手を握り、「少しそばを離れますね」と告げると、そっと席を立たれました。
自室に戻ったお嬢様は、用意させていた黒のドレスへと着替えられました。
そして、祖父母をはじめとする近親者に宛てた手紙を丁寧に認め、早急に送るようにと執事に申し付けました。
そうやって、天の国に旅立った母のためにできることを淡々とこなしていったのです。
旦那様が屋敷に戻られたのは、すでに日が暮れ、空には薄っすらと月が見え始めた頃でした。
馬車が屋敷の前に止まりました。
従僕が馬車の扉を開く。するとあろうことか、中から三人の楽しげな笑い声が聞こえるではありませんか。
「すごいわ! 今日からこんなに大きなお家に住むの? まるでお城みたい!」
「おや、ペネロピは私達の大切なお姫様だろう?」
「あら。では私は?」
「君は今日から、私の愛する妻だ」
それは現実なのかと疑いたくなるような光景でした。
奥様が亡くなったばかりだというのに、旦那様は喪に服すどころか、愛人とその娘を連れてきたのです。
「……おかえりなさいませ。お父様」
お嬢様が薄っすらと笑みを浮かべたまま挨拶をしました。
「ああ、シャーロット。そこにいたのか。お前にも一応、伝えておこう。私はラモーナと再婚する。彼女たちは今日から新しい家族だ。どうだ、嬉しいだろう?」
……まさか旦那様がここまでのうつけ者とは。
「左様でございますか。ご結婚おめでとうございます」
私達使用人ですら怒りが込み上げるのに、お嬢様は眉一つ動かさず、いっそ穏やかに祝福の言葉を伝えられました。
「ねえ、どうしてその子がお父様と呼ぶの? お父様は私だけのお父様でしょ?」
どうやら何も知らないらしい少女が不思議そうに尋ねているが、本能的に察しているのでしょう。お嬢様を見つめるそのまなざしには険が含まれています。
「この子はシャーロットといって、今日からお前のお姉さんになるんだ」
「……ふ~ん」
不躾に頭から足先までじろじろと眺めると、その視線がお嬢様の胸元で止まりました。
「シャーロットお姉様。そのブローチ、とってもきれいね?」
お嬢様が身につけているヴァイオレットサファイアのブローチを褒めている──のではなく。
「ねえ、お父様。私もあのブローチがほしいわ!」
「あらあら。ペネロピったら、すっかりシャーロットさんに懐いてしまったようですわね」
いや、どう考えても違うだろう! と、喉元まで出かかった言葉を必死に呑み込む。
しつみかし、続く台詞は決して容認できない内容だった。
「ねぇ、シャーロットさん。妹ができた記念にプレゼントしてくれるわよね?」
なぜ、断定で聞くのか。あまりの傍若無人さに、まさかこんな発言を許すのかと、思わず旦那様に視線を向けた。しかし。
「そうだな。ラモーナはお前の母になったのだ。彼女の言うことは絶対だと理解しなさい。そして、姉として恥ずかしくない振る舞いをするように」
旦那様の口から信じられない言葉が放たれました。
あからさまにお嬢様を蔑ろにしようとしている女の言うことが絶対だと、旦那様が認めたのです。
「……お義母様のおっしゃることは絶対、なのですね?」
お嬢様のお顔から笑みが消え、その表情は雪のように白く、冷たいものへと変わりました。
「ああ、そうだ。だからそのブローチを」
「ごめんなさい、お父様。お義母様に一つだけ質問をしてもいいかしら」
旦那様はブローチを渡すように言おうとした言葉を遮られ、一瞬鼻白んだ。
「あら、いいわよ?」
だが、ラモーナがそんな旦那様にそっと手を伸ばし、余裕を見せるかのように微笑みました。
「お義母様が絶対なのは、今からは私の家族であり、年長者として私を指導してくださるからですか?」
「まあ、シャーロットさんは賢いのね。そのとおりよ。私が母としてあなたを正しく導いて差し上げるの」
「なるほど。長幼の序──上の立場の者を敬い、その序列に従うということですのね?」
「……難しい言葉を知っているのね。とにかく、上の立場の私を敬い、その言葉に従えばいいのよ。だから、可愛い妹のためにそのブローチを譲ってくれるわよね?」
……よくもまあ、いけしゃあしゃあとそんなことが言えるものだと使用人たちは怒りに身を震わせた。だが。
「ご教示感謝申し上げます、お義母様」
お嬢様はにっこりと微笑み、胸元に着けているブローチを外し始めたではないか。
その様子を見て、旦那様とラモーナが満足気に笑っている。
「ペネロピさん、今日から姉妹として仲良くしましょうね」
そう言って、ブローチをペネロピに差し出した──その瞬間でした。
「──あ、ちょっと待って?」
ペネロピの指先が触れる直前、お嬢様はすっとブローチを引き上げ、今度はラモーナのほうへと向き直ったのです。
「えっ? お姉様⁉」
ペネロピが不満気な声を上げるが、お嬢様は微笑むだけで返事はせず、ラモーナを振り返った。
そして。
「お義母様。先ほどのお言葉通りなら、私のほうがペネロピよりも年上で、上の立場ということ。では、権利は私のほうが先ですよね?」
「……は? 何を言って」
「お義母様。そのルビーのネックレス、とても素敵ですね! 家族になる記念に、私に下さいませ」




