1.
冬暁の薄闇の中、子爵夫人であるクリスティアナ様は、暖かな春の訪れを目にすることなく、静かに息を引き取られた。
「お父様はどちらかしら」
妻の最期を看取ることさえ放棄した旦那様は、未だ帰る気配がない。
「……おそらく、ラモーナ様のところかと存じます」
──ラモーナ。それは旦那様が囲っている愛人であり、結婚前からの恋人だということは、屋敷の誰もが知る公然の秘密だ。
「そう。では、お母様が旅立たれたと使いを遣ってちょうだい。私一人では葬儀の手配すらままならないもの」
執事へ指示を出すと、お嬢様は奥様の手をそっと握った。
「……少し、そばを離れますね」
お嬢様はそっと告げ、部屋をあとにした。
まだ十五歳の少女には重すぎる役目だというのに、お嬢様の背筋は少しも揺らがなかった。
漆黒のドレスを纏ったお嬢様を彩るものは、背を流れる白金の髪だけ。──いえ、もう一つ。
胸元のヴァイオレットサファイアのブローチが、燭台の明かりに照らされ、きらめいていた。
「手紙を書くから急ぎで届けてちょうだい」
鈍い艶を放つマホガニーの机に向かって、便箋を広げられた。
カリカリとペンが紙の上を滑る音だけが響く。
丁寧に認められたそれを封筒に入れ、とろりと温めた蝋を落とす。
ゆっくりと押された刻印は、旦那様も知らない、お嬢様だけが使う印だ。
黒のリボンと蝋封が押された手紙は、下男へと渡され、早馬で運ばれていった。
旦那様が戻られたのは、すでに日が暮れ、薄っすらと月が見え始めた頃だった。
従僕が馬車の扉を開くと、中から楽しげな笑い声とともに、季節外れの花が咲いたかのような、鮮やかな薄紅色のドレスが飛び出してきたのだ。
「すごいわ! 今日からこんなに大きなお家に住むの? まるでお城みたい!」
お嬢様より小柄だろうか。満面の笑みで馬車から飛び降りた少女がはしゃいでいる。
「おや、ペネロピは私達の大切なお姫様だろう? もっとおしとやかにしなくてはな」
そうたしなめながらも、その声は楽しそうだ。
「あら。では私は?」
「君は今日から私の、愛する妻だ」
旦那様が女性の手を取り、ゆっくりと馬車から降りてきた。
艶やかな赤髪が白銀のコートを彩っている。
「……おかえりなさいませ。お父様」
お嬢様が薄く笑みを浮かべ挨拶した。
「ああ、シャーロット。そこにいたのか。お前にも一応、伝えておこう。私はラモーナと再婚する。彼女たちは今日から新しい家族だ。どうだ、嬉しいだろう?」
旦那様の言葉を聞いた使用人たちの間に、押し殺したようなざわめきが広がった。
「左様でございますか。ご結婚おめでとうございます」
お嬢様は眉一つ動かさず、いっそ穏やかに祝福の言葉を伝えられた。
「ねえ、どうしてその子がお父様と呼ぶの? お父様は私だけのお父様でしょ?」
少女が眉をしかめ、お嬢様を見つめた。
「この子はシャーロットといって、今日からお前のお姉さんになるんだ」
「……ふ~ん」
頭から足先までじろじろと眺めると、その視線がお嬢様の胸元で止まった。
「お姉様? そのブローチ、とってもきれいね?」
ヴァイオレットサファイアのブローチは、お嬢様。そして、旦那様の瞳と同じお色だ。
「ねえ、お父様。私もあのブローチがほしいわ」
少女のオリーブグリーンの瞳がブローチから離れない。
「あらあら。ペネロピったら、すっかりシャーロットさんに懐いてしまったようですわ」
ラモーナの瞳が楽しげに細められた。
「ねぇ、シャーロットさん。妹ができた記念ですもの。プレゼントしてくれるわよね?」
その問いかけを、お嬢様は答えることなく笑顔で受け流した。
「そうだな。ラモーナはお前の母になったのだ。彼女の言うことは絶対だと理解しなさい。そして、姉として恥ずかしくない振る舞いをするように」
旦那様の口から放たれた言葉に、お嬢様が少しだけ目を見開かれた。
「……お義母様のおっしゃることは絶対、なのですね?」
「ああ、そうだ。だからそのブローチを」
「ごめんなさい、お父様。お義母様に一つだけ質問をしてもいいかしら」
旦那様は言葉を遮られ、一瞬鼻白んだ。
「あら、いいわよ?」
だが、ラモーナ様がそんな旦那様にそっと手を伸ばし微笑んだのだ。
お嬢様はその言葉を受け、静かに問いかけた。
「お義母様が絶対なのは、今からは私の家族であり、年長者として私を指導してくださるからですか?」
「まあ、シャーロットさんは賢いのね。そのとおりよ。私が母としてあなたを正しく導いて差し上げるの」
「なるほど。長幼の序──上の立場の者を敬い、その序列に従うということですのね?」
「……難しい言葉を知っているのね。細かいことはいいのよ。とにかく私が母親なのだから従いなさいな」
「ご教示感謝申し上げます、お義母様」
お嬢様はにっこりと微笑み、胸元に着けているブローチを外し始めた。
その様子を見て、旦那様とラモーナが満足気に笑っている。
「ペネロピさん、今日から姉妹として仲良くしましょうね」
そう言って、ブローチをペネロピ様に差し出した──その瞬間。
「──あ、ちょっと待って?」
ペネロピ様の指先が触れる直前、お嬢様はすっとブローチを引き上げ、今度はラモーナ様のほうへと向き直ったのだ。
「えっ? お姉様⁉」
ペネロピ様が不満気な声を上げるが、お嬢様は微笑むだけで返事はせず、ラモーナ様を振り返った。
そして。
「お義母様。先ほどのお言葉通りなら、私のほうがペネロピよりも年上で、上の立場ということ。では、権利は私のほうが先ですよね?」
「……は? 何を言って」
「お義母様。そのルビーのネックレス、とても素敵ですね? 家族になる記念に、私に下さいませ」




