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番外編 「君を失ってから、すべてが間違いだったと気づいた」

 白いワンピースの裾が、ひらりと翻った。

 玄関のドアが閉まった瞬間、まるで長い夢から覚めたように意識がはっきりする。

 出て行ったのは茜音だ。追いかけなければ。そう思い手を伸ばす。

 だが、その手は途中で止められた。横を見ると奈菜が立っている。


「陸翔さん……」


 甘えるような声。その手に握られているのはエコー写真だった。

 そこで思い出す。俺は茜音ではなく、奈菜を選んだのだと。


 奈菜との出会いは偶然だった。

 酒に弱い俺が間違えて強い酒を飲み、秘書の田口が会場のホテルに部屋を取ってくれた。

 そこで休むことになり、介抱してくれたのが奈菜だった。

 意識は朦朧としていた。だから仕方なかった――そんな言い訳はいくらでもできる。

 だが違う。

 ただ、その場の欲望に溺れただけだ。

 その現場を茜音に見られた。

 頭のどこかで分かっていた。

 このままではいけないと。

 それでも俺は追いかけなかった。

 ただ、今この瞬間から離れたくなかった。


 奈菜は学生時代に両親を亡くし、一人で生きてきた。

 恵まれていた俺や茜音とは違う。

 そんな奈菜が健気に見えた。

 守らなければ、支えなければ――そう思った。


 会社は過渡期にあった。

 父から引き継いだばかりの経営。

 自分に務まるのかという重圧。

 必然的に追い込まれていた。


 そんなときに出会った奈菜。

 優しく、何も求めない。

 ただそこにいるだけで考えなくて済んだ。

 奈菜といる時間だけが、現実から目を逸らせる場所になっていた。


 このまま一緒にいたい。

 会社なんてどうでもいい。

 奈菜は言った。

「全部捨てても、私がいるよ」

 その言葉に縋った。


 茜音に離婚を切り出した。

 だが応じなかった。

 このままでは奈菜と一緒にいられない。

 焦りだけが募る。

 だから俺は奈菜と暮らし始めた。

 茜音を「いないもの」として扱った。

 寝室から追い出し、奈菜と同じベッドで眠る。

 茜音の顔色が悪くなっていくのも、痩せていくのも分かっていた。

 それでも見ないふりをした。


 ――離婚しない茜音が悪い。


 そうでも思わなければ、今ここにいる自分を正当化できなかった。


 やがて奈菜は妊娠した。

 両親に急かされていた後継ぎ。

 それを奈菜が授かった。

 もうこれで誰にも邪魔させない。

 産婦人科で渡されたエコー写真を、そのまま茜音に突きつけた。


 茜音の顔が歪む。

 涙がこぼれる。

 それでも何も言わなかった。

 ただ、そのまま家を飛び出していった。


 ――俺は何をしている?


 そのとき初めて疑念が湧いた。

 なぜ茜音ではなく奈菜を選んだのか。

 追いかけなければ。


「どこに行くの?」


 奈菜の声が絡みつく。

「あなたは、この子のパパになるのよ」


「……違う……」


 思わず漏れた言葉。

 違う。

 何かが違う。


 慌てて電話をかける。

 出ない。

 もう一度。

 出ない。

 


 玄関を飛び出す。

 奈菜の声が背後から追ってくるが振り返らない。

 今は茜音を探さなければならない。

 謝らなければ。


 マンションを飛び出し、走る。

 だがどこにもいない。

 何度も電話をかけが、繋がらない。

 どこだ。

 どこにいる。


 ふと見上げた建物の上。

 白いものが揺れる。


 ――茜音のワンピース。


 全身の血が凍りついた。

 階段を駆け上がる。

 足を踏み外しかけても止まらない。

 屋上の扉を開ける。


 縁に立つ、茜音の姿が飛び込んできた。


「あかね!!」


 叫ぶ。

 だが俺の声は届かない。

 茜音の体が、ふらりと傾く。

 次の瞬間、その姿は視界から消えた。


 膝から崩れ落ちる。

 体の奥で何かが逆流した。

 熱と痛みが頭を貫く。


 たまらず目を閉じる。


 浮かんだのは、炎の中に立つ茜音の姿。 

 熱気が肌を焼く。

 焦げた匂いが喉の奥にまとわりつく。

 それでも茜音は動かない。

 炎に包まれながら、ただそこに立っていた。


「あかね……」


 呼ぶ。

 だが振り向かない。

 届かない。

 差し出した手は空を掴んでいるだけだった。

 茜音の頬を涙が伝う。


 そのまま――炎に、ゆっくりと、のみこまれていく。


 違う。違う、こんな終わり方じゃない。





 次に浮かんだのは、走り出す背中だった。


「あかね!!」


 叫ぶ。

 追いかける。

 だが距離は縮まらない。

 足が重い。

 まるで地面に縫い付けられたように動かない。

 それでも手を伸ばす。

 あと少しで届くはずなのに。


 その瞬間、激しいクラクションが鳴り響いた。

 視界が白く弾ける。

 ヘッドライトの光。

 ブレーキの焼ける音。

 時間が引き延ばされる。


 振り向いた茜音の表情が、やけにゆっくりと見えた。


 驚きでも恐怖でもない。


 ただ――どこか諦めたような、静かな顔。


「……あかね……」


 その名を呼んだ瞬間、体が宙に浮いた。

 白いワンピースが空中に広がる。 

 そして、重力が戻る。

 激しい音とともに、すべてが現実へと引き戻された。




 違う。違う。


 俺は――間違えた。


 茜音の手を、離してはいけなかった。


 あれは選択じゃない。ただ流された結果だ。


 今なら分かる。

 遅すぎるほど、はっきりと。


 だから――戻ってきてくれ。


 茜音。


 今度こそ、俺は間違えない。


 だから――戻ってきてくれ。

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