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第55話

その日の夜、櫻井から連絡が入った。


「明日の十九時でしたら、奥様はお会いになるそうです」


短い報告だった。 それだけで、陸翔の胸は強く打った。


「必ず行くと伝えてください」


電話を切ったあとも、しばらくスマートホンを握ったままだった。


これが最後の機会かもしれない。

ここで何も伝えられなければ、本当に終わる。


翌日。 約束の時間より少し早く、指定されたホテルのレストランに入った。


窓際の席。 ガラス越しの夜景が広がる。


やがて足音が止まった。


顔を上げると、茜音が立っていた。


以前よりも細くなった頬。 その変化が胸に刺さる。


「茜音……」


小さく名を呼ぶ。


茜音は視線を合わせず、向かいに座った。


「何を食べる?」


「話をしに来ただけだから。食事はいらない」


淡々とした声。


「……痩せたな。ちゃんと食べてるのか?」


思わず頬に手を伸ばす。


だが茜音はわずかに身を引いた。


その動きが、はっきりと距離を示す。


「本当に……離婚したいのか?」


「……うん。その方が二人のためよ」


即答だった。


ここで諦めたら終わる。 失いたくない。


そう強く思った瞬間――


頭の奥で、低く羽音が鳴った。


ざわり、と短く。


それでも言葉を止めなかった。


「茜音、全部誤解なんだ。俺と奈菜は何もない」


茜音は静かに言葉を重ねる。


「“何もない人”の腰に手を回して、 私のパジャマを着せて、

私たちの部屋に泊まらせて、 写真まで捨てさせて……」


「それでも、何もないって言えるの?」


言葉を失う。


そのとき、スマートホンが震えた。


表示――奈菜。


一度切る。


だが、また鳴る。


「……出た方がいいんじゃない?」


茜音は夜景を見たまま言った。


陸翔は立ち上がり、窓際へ移動する。


電話に出た瞬間、泣き声が飛び込んできた。


「しゃ、社長……どうしよう……」


「……泣いてたら分からない」


「海外の会社から電話が来て……契約やめるって……怒ってて……今すぐ責任者出せって……私、何言われてるか分からなくて……」


「……田口は?」


「つながらなくて……誰もいなくて……私……」


嗚咽で言葉が途切れる。


レストランの照明がガラスに映る。

その向こうに、静かに座る茜音の姿が見える。


ここで戻れば、また同じだ。


失いたくない。 今度こそ選びたい。


その想いが胸の奥からせり上がった瞬間、頭の奥で羽音が鋭く鳴った。


選べ、と迫るように。


スマートホンを握ったまま、数秒動けなかった。


時間が止まったようだった。


だが――


「……分かった。すぐ戻る」


短く告げ、通話を切る。


席へ戻る。


「会社でトラブルがあった。今、戻らないといけない」


茜音はわずかに頷いた。


「行った方がいいわ」


それだけ。


怒りも、引き止めもない。


その静けさが、何より残酷だった。


「茜音、俺は……」


言葉が続かない。


失いたくない。 離れたくない。


だが、それを口にする資格があるのか分からない。


「本当に……すまない」


深く頭を下げる。


茜音は何も言わなかった。


陸翔は振り返らずにレストランを出る。


扉が閉まる音が、やけに重く響いた。


車に乗り込み、ハンドルを握った。

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