第53話
陸翔はハンドルを強く握りしめたまま、実家へと車を走らせた。
考えがまとまらない。
怒りなのか、焦りなのか
――自分でも分からない感情が胸の奥で渦を巻いている。
だが一つだけははっきりしていた。
――このままではいけない。
門をくぐり、車を止める。
深く息を吸い込み、玄関の扉を開けた。
「あら、陸翔いらっしゃい。久しぶりね」
母が柔らかい笑みを浮かべて立っている。
「顔色が悪いわよ。奈菜さんは世話を焼いてくれないの?」
何気ない口調。 だがその名前が出た瞬間、陸翔の中で何かが切れた。
「父さんは?」
「今日は出かけてるわよ。コーヒー淹れるわね」
背を向けようとする母に、陸翔は言葉をかぶせた。
「母さん、話がある。座ってくれ」
声は低く、固かった。
「なあに?そんな怖い顔をして」
母は怪訝そうにしながらもソファーに腰を下ろす。
「なぜ、あの女……奈菜に俺の世話を頼んだ?」
空気が一瞬止まった。
「……あなたに電話をしても出ないし、田口に様子を聞いたら、茜音さんと会う予定だったのに茜音さんの体調が悪くなって駄目になったって聞いて……もしかしたらって思って、奈菜さんにお願いしたのよ」
「……なぜ彼女なんだ」
「だって、同じマンションに住んでるし、なにかと都合がいいじゃない」
その“都合”という言葉が、陸翔の神経を逆撫でした。
「俺には茜音がいるんだ!」
声が自然と大きくなる。
「母さんだって茜音のことを気に入ってるじゃないか。なのにどうしてそんなことをするんだ」
母の視線が揺れる。
「……確かに茜音さんはいいお嫁さんよ。でも……」
言葉を選ぶように、少し間が空いた。
「でも……あなたたち、子供に恵まれないじゃない」
その一言で、部屋の温度が下がった気がした。
陸翔は目を閉じ、大きく息を吐く。
胸の奥で、低く鈍い音が鳴る。
――羽音。
低く、執拗に、内側から響く音。
茜音と離れたくない。 失いたくない。
そう強く思った瞬間、羽音は一気に広がった。
思考の中心に黒い波が押し寄せる。
茜音の顔を思い浮かべようとすると、 輪郭が滲む。
あの笑顔を思い出そうとすると、
ざわざわと、無数の羽が思考を覆う。
「そんな……あなたは牧田グループのただ一人の後継者なのよ。子供がいないなんて許されるはずがないわ」
いつからだろう。 母が“家”を優先して語るようになったのは。
茜音のことをあんなに大事に思っていたはずなのに。
「もし今後もそんな考えをするなら、俺は社長を降りる」
静かに言い切る。
「陸翔!ばかなことを言わないで。お父さんが聞いたらどれだけ怒ると思うの?!」
「父さんにも俺から言う」
それだけ告げ、陸翔は立ち上がった。
母の制止の声を背に、玄関を出る。
車に乗り込むと、すぐにスマートフォンを取り出した。
呼び出し音が一度鳴っただけで、田口が出る。
「田口。お前は誰の秘書だ?」
「……社長の秘書です」
「俺の秘書?会長夫妻の秘書じゃないのか?仕事の話ならいくらでも報告すればいい。ただ、今後茜音のことを勝手に話すようなら、そんな秘書は必要ない。会長のもとに行け」
言い終わると同時に通話を切る。
胸の奥の羽音は、まだ消えない。
ハンドルに手を置き、目を閉じる。
――茜音。
今どこにいる。
深い静寂が胸に落ちた。




