第39話
茜音が妊娠していることは、もう疑いようがなかった。
啓介の言葉には説明を省いた確信が滲んでいたし、義母の態度も、否定ではなく「守る」側の言葉だった。
それでも陸翔は、きちんと本人の口から聞きたかった。
確かめなければならない。
そうでなければ、自分は何も分からないまま、すべてを失うことになる。
(……どうすれば会える)
茜音が本気で戻らないと決めているのなら、そこには理由がある。
一時の感情や衝動ではない、取り返しのつかない「何か」が。
その理由を、陸翔は怖いほど直感していた。
だからこそ、目を逸らしたままではいられなかった。
妊娠をしたら、必ず検診に行く。
茜音が行くとしたら――まず思いつくのは、不妊治療で通っていた産婦人科だった。
あの病院には世話になった。
待合室の椅子の硬さも、診察室の消毒の匂いも、医師の淡々とした声も覚えている。
そして何より、結果を聞く前に、いつも冷たくなっていた茜音の手の感触を。
(行くなら、あそこだろ)
時間を縫って病院へ向かい、受付に顔を出すと、見覚えのある事務員がすぐに顔を上げた。
「お久しぶりです、牧田さま。今日はどうなさいましたか?」
「……すみません。妻を迎えに来たのですが…」
周囲を見回しながら尋ねると、事務員は申し訳なさそうに首を振った。
「奥様は……今日は来られていません」
「……今日、行くと言っていたのですが…」
咄嗟に口をついて出た言葉だった。
事務員は少し迷ってから、控えめに口を開く。
「最近、こちらでの治療にも来られていなかったので……ご夫婦でお話し合いをされたのかと思っていました」
陸翔の喉が、ひゅっと鳴った。
(……ここじゃない)
礼を言って外に出る。
車に戻り、ハンドルを握りしめたまま、しばらく動けなかった。
この病院に来ていない。 では、どこだ。
検診を受けられて、茜音が安心できる場所。
そして、茜音が一人で決めるとは考えにくい。
(……春奈さん)
陸翔は、はっと息を呑んだ。 茜音が相談する相手は限られている。
春奈なら――真帆が生まれた病院を勧めるはずだった。
陸翔は車を走らせた。
翌日も、その翌日も、午前中の隙間を縫って同じ病院へ足を運んだ。
だが見つからない。
駐車場に車を止め、出入口を見張っても、茜音の姿はなかった。
(……違うのか)
三日目。
会議の合間にできた、ほんの数十分の余白。
陸翔は半ば賭けるように、病院の駐車場へ車を入れた。
そのときだった。
ガラスの自動ドアが開き、人の流れの中に、見覚えのある横顔が現れた。
――茜音。
心臓が、どくん、と大きく鳴る。
「茜音!!」
陸翔は車を降り、駆け寄った。
茜音は足を止める。
逃げるような素振りは見せない。
ただ、顔が一瞬で強張った。
「陸翔……」
その呼び方が、胸を深く抉った。
「……やっぱり、そうなんだな」
視線が無意識に腹へ向かいそうになる。
それを堪えきれず、言葉にした。
「妊娠してるんだな……」
「俺の子だろ?」
茜音のまつげが震える。
次の瞬間、静かで冷たい声が返ってきた。
「……そうだとしても、あなたに話す義務はない」
「義務じゃない」
陸翔の声が、思わず荒くなる。
「父親だ。俺には知る権利がある」
その言葉を聞いた瞬間、茜音の表情が歪んだ。
怒りだけではない。
痛みと悔しさ、積み重ねてきたものが一気に溢れ出す。
「“父親”って……簡単に言わないで」
声が震える。
それでも、視線は逸らさない。
「私がどんな気持ちで、ここまで一人で決めてきたと思ってるの?」
陸翔は息を呑んだ。
反射的に言葉が零れる。
「……簡単だなんて思ってない」
「俺は、離婚したくない。茜音と……夫婦でいたい」
「この先も、子供も含めて……三人で生きたいと思ってる」
茜音の唇が、かすかに歪む。 笑いではない、乾いた表情だった。
「夫婦……?」
一歩、距離を取る。
「私を一人にしておいて、夫婦とか父親とか、よく言えるね」
「一人にしたつもりはない!」
陸翔は必死に首を振った。
「茜音、抱え込まないでくれ。
言わないままでいたら、俺たちの間には誤解が広がるだけだ」
「誤解?」
茜音の声が鋭くなる。
「どれが誤解なの?」
「女とホテルにいた」
「公の場で女の腰に手を回して、楽しそうに話していた」
「二人の家に女を住まわせて、普通に暮らしていた」
息を吸い、一気に吐き出すように言う。
「これのどこが誤解なの?」
「全部、事実でしょう?」
涙が浮かぶ。 それでも拭わず、陸翔に突きつける。
陸翔は胸が潰れそうになり、思わず手を伸ばした。
「茜音……違うんだ。本当に違う」
「俺は、お前を裏切ったりしてない。頼む、聞いてくれ」
周囲の視線が集まり始めていることに気づく。 病院の出入口。
妊婦も、家族連れも、看護師も、ちらちらとこちらを見ている。
「……離して」
茜音が声を落とす。
「みんな見てる。ここ、病院だよ」
「離さない」
陸翔の声は掠れていた。
「ここで離したら……もう終わる。 そんなの、嫌だ」
茜音は腕を振りほどこうとする。 陸翔はそれを止めるように、強く掴んだ。
「陸翔、やめ――」
遠くで誰かが咳払いをする。
視線の数が増え、時間が迫る。
陸翔は決めた。 言葉では足りない。 なら、身体が先に動くしかない。
「……帰ろう」
「帰る? どこに――」
言い終える前に、陸翔は茜音の肩に手を添え、車の方へ導いた。
「触らないで」
低く、鋭い声。 それでも陸翔は止まれなかった。
(もう一度、手を離したら――今度こそ終わる)
その恐怖だけが、陸翔の背中を押していた。




